ある時期、東京法学院大学、その後身の中央大学(以下では総称として中央大学と記すことがある)は、「外国語専修科」を設置していた。手元に、「外国語専修科」の1科である英語専修科の「英語専修科概要」(1907(明治40)年4月)と題した1枚物の受講者募集案内がある。

 この「概要」によれば、単に外国語学習の課程というだけでなく、官立専門学校の入学試験対策、高等文官、判検事、弁護士等の受験者への試験対策という面を持っていたことがわかる。当ブログで「「明治高等予備講義録」(明治大学)から100年以前に大学が作った予備校を考える」(2023年11月11日)を投稿したが、一脈通じるものがある。
中央大学「英語専修科概要」(明治40年4月)


 そこで、今回は、中央大学の外国語専修科中の英語専修科の創設、その後の経過を探り、他の大学の設置した類似の「課程」、「講座」について紹介する。 

 結論を先取りすれば、中央大学は、1905(明治38)年に単に外国語学習の課程というだけでなく、官立専門学校の入学試験対策、文官試験、判検事登用試験、弁護士試験等の受験者への試験対策として外国語専修科を始めた。判検事登用試験、弁護士試験での外国語試験の実施中止のなかで、英語専修科の受講者は少なかった。その後、学制改正のなかで専門学校令のもとでしか存在しようのなかった私立学校が大学へと変貌するなか、大学「昇格」(1920(大正9)年4月)を果たした中央大学は、中央高等予備校や外国語専修科を廃止した。
 一方、同じころ、他大学でも外国語学修の「課程」、「講座」が開設される。日本大学は設置目的のひとつとして文官試験対策を掲げている。日本大学、関西大学では大学部、専門部の学生に「兼修」することを勧めていた。


 まず、中央大学の「英語専修科概要」全体を紹介する。縦書きを横書きに改め、現代表記にしたがって濁音表記とし、一个年は一箇年と表記した。

英語専修科概要
 ◎ 目的及方針
一 英語専修科に於ては学生、官吏、教員、会社員其他昼間受業の便を有せざる人の為めに新式の教授法に依り極めて秩序的に英語の本領及活用法を学習せしめんことを期す
二 英語専修科には普通科及受験科を置き共に一箇年にて修了す
三 普通科に於ては専ら実用を旨とし中学程度の英語を一箇年に短縮して教授し且つ現下中学の弊害に鑑みる所あり幾多の改良を加へたれば其実力優に中学卒業生を凌ぐに足るべし
四 受験科を甲乙二種に分つ  甲種は専ら諸官立専門学校入学志望者の為め乙種は高等文官、判検事、弁護士等の受験者の為めに必須なる英語の要領を講授す
五 受験科は中学卒業程度の学力を有する者を入学せしむ
六 受験科に於ては専ら英文解釈法、文法作文及び難句に重きを置き其外書取、聴取、会話等を教授す
七 授業時間は各級共一週十八時間内外にして講師各自責任を重し授業を担任せらるるを以て自ら他と異なる所あるべし
八 授業時間は午後六時乃至九時とす


◎ 学科
一 訳解(教科書概ね左の如し但し各級教科書は始業の際毎時之を校内に掲示す)
ナショナル、リーダー○ユニオン第四○ルース、エンド、ヨシダ、リーダー○神田氏英文典○イソップ物語○ストーリーズ、エンド、アネクドーツ○ホーソン氏バイオグラヒカル、ストリズ○ガリバー旅行記○シルバー、ブック○セブン、グレート、ライターズ○アービングス、スケッチ、ブック○ネーチユア、エンド、マン○ブライアン氏演説集○ブラッキー氏自修論○スマイルス氏品性論○ハマートン氏ヒユーマンインターコース○隈部氏難句集○新戸部氏武士道、英文佳句難句集其他ヂッケンス○サッカレー○マーク、ドウェーン○コーナンドイル、ラ カヂオ、ハルン諸氏の名作及び最近の出版物中より選定す可し
(注意)教科書は必ず校内の掲示を見て購入すべし
二 文法-和文英訳-英作文(口授) (但し時宜により教科書を用ひ或は講義案に依ることあるべし)
三 時文研究 本校の一特色たる時文研究の資料として毎週一回「ロンドン タイムス」及び英米の有力なる諸新聞紙は勿論、本邦に於て発行せらるゝ英字新聞中英語研究に有益の記事を抜粋し之を出版して講義案とし無代価にて配布し専ら現代の英語を学ばしむ
四 会話-発音-書取-聴取 学識、経験に富める外国人之を担当し各級毎週必ず出席教授す
五 会話の教授法は努めて実物指話の法に依り時々掛図、幻燈を用ひて聴講者に実益と興味とを与ん事を期す

◎ 雑則
一 入学者は月謝として普通科は金七拾銭受験科は金壱円を納むべし
二 入学志望者は各科其入学申込の節束修金五拾銭を納付すべし
三 一旦納付したる束修及び月謝は如何なる理由あるも之を返付せず
四 毎月十五日以降の入学者には月謝を半減す
五 生徒は登校の際必ず聴講券を携帯すべし
六 学年の終りには試験の上合格者に修業証書を与ふ
七 英語専修科の学生は各自其人格を重し誓て校名を汚すが如き行動あるべからず

英語専修科主任   
  廣井辰太郎

英語専修科講師  
 高等商業学校教師/英国文学士 アーネスト、ルース  
 東京慈恵医院医学校/東京府立第一中学校教師 ウヰリアム、ハリス  
 本大学講師 鷲見亀五郎  
 前長岡中学校英語主任 浦口文治  
 高等商業学校教授/マスター、オブ、アーツ 山口鍖太  
 バチエラー、オブ、アーツ 後藤薫  
 バチエラー、オブ、アーツ 佐藤潔  
 早稲田大学講師 宮森麻太郎  
 水野忠丸  
 元第六高等学校教授 清水泰次郎  
 束譲三郎  
 東洋大学講師 廣井辰太郎     

    明治四十年四月      
      私立中央大学

 「外国語専修科」や「英語専修科」について『中央大学百年史』(以下『百年史』と略記)をはじめ、学則や『中央大学史資料集』に記事が存在する。それらをもとに当時をまとめると以下のとおりである。
 

1 東京法学院大学外国語専修科
1)開講時
 『中央大学百年史』通史編上巻(pp.302-304)に大要次のようにある。
(1)設置の時期
 1905(明治38)年4月に設置。授業開始はドイツ語が4月、英語が5月(注1)。

  注1: 開講時について 『中央大学学制一覧』(1908(明治41)年8月)中の「沿革略」に「三十八年四月外国語専修科ヲ置キテ主ラ外国語ノ修養ニ便セシメ且ツ傍聴生ノ制ヲ設ク」とある。一方、『法学新報』第15巻第5号(明治38年5月10日)の東京法学院大学記事には「外国語専修科は英語及ひ独逸語の二科を設け<中略>独逸語科は既に開設せられ英語科は本日を以て授業を開始する筈なり」とある。

(2)組織上の位置づけ
 東京法学院大学は専門学校令による本科・予科、専門科、研究科からなっていたが、「外国語専修科はこれらから独立した新学科課程として設けられた」(pp.302-303)(注2)。

  注2: 明治38年文部省告示第95号(1905(明治38)年5月20日)で、徴兵令上の認定の効力について「補修学生、傍聴生及外国語専修科生ニ及ハス」としている。

(3)開設の背景
 「東京法学院大学から中央大学へと総合大学を目指す展開のなかで、外国語専修科の開設と傍聴生制度もその整備、充実の一環としての企画であった」(p.302)。
(4)目的
 「学則」(『中央大学学制一覧』所収(注3))を引用して「外国語ヲ研究セント欲スル者ノ為メ」(p.303)とある。そして、「本学が語学教育に重点をおくとする教育方針のほかに、各種国家試験に関する規則の改正がなされたことに対応する整備、充実の企画であった」(p.303)として、同年(1905年)4月の判検事登用試験規則、弁護士試験規則の改正、6月の文官試験規則が改正によって新たに外国語(英、仏、独から1か国語)が課されたことへの対応と述べている(注4)。

  注3: この『中央大学学制一覧』について『中央大学百年史』は出典を明示していないが、『法学新報』第15巻第9号(1905(明治38)年8月)(臨時増刊)であろう。『百年史』の外国語専修科に関する記述の前に学則を引用している箇所は、287ページで「総合大学をめざして」の項である。
注4: 判検事登用試験、弁護士試験はこの改正にもかかわらず、外国語試験は一度も実施されていない。1905(明治38)年司法省令第15号(4月25日)には、この年施行の両試験ともに「外国語ノ試験ハ之ヲ行ハス」、1906(明治39)年司法省令第2号(3月16日)には、明治39年、同40年、同41年の両試験ともに「外国語ノ試験ハ之ヲ行ハス」としている。1913(大正2)年司法省令第13号(4月22日)では「予備試験ハ当分ノ内之ヲ行ハス」としている。「外国語試験はその後も強力な政治運動によって幾度も延期され、遂に実現されることなく終」わった(竹中暉雄「帝大法科特権論考」(『桃山学院大学人文科学研究』第13巻第1号(1977年7月))。なお、文官試験では外国語試験を継続して実施した。

(5)「学則」の規定
 定員400人以内、就業年限2年4か月(これを5学期に分割)、週の授業時間18時間、読方、書取、会話、作文、文法、訳解の6科目。
 入学は、東京法学院専門科の別科の規定を準用し、「志望者の履歴にもとづき銓衡のうえ入学」を許可する(p.303)。
(6)当初の講師
 英語:飯塚陽平、ウィリアム・ハリス、佐久間信恭、広井辰太郎ら。
 ドイツ語:葉山万次郎、渡辺豊治、向軍治、斉藤信策ら。
(7)授業料
 学期ごとに、3円、4円、6円、4円、6円。
(8)卒業試験
 第5期の終わりに行なう。
(9)授業時間帯
 午後6時以降。
(10)受講者について
 「『法学新報』第15巻第5号・第6号によると、<中略>校内生で兼修する者のほかに学外からの入学者が多く、「同専攻の正規の学生は50余名で、この他に現職の弁護士や司法官が『傍聴生』として通学して」いたこと、受講生のなかには講師よりも年配で、外国語の素養が皆無という人も多くいたことなどが報じられている。しかも受講者も講師たちも皆熱心かつ賑やかな雰囲気のなかで、英語、独逸語の基礎的な学習に取り組んでいたことがわかるのである」(pp.303-304)とある(注5)。

  注5: 『法学新報』からの引用と推測するが、中央大学ウェブサイトで公開されている『中央大学史資料集』第18集の『法学新報』第15巻第5号・第6号から採録した記事にこのような記事は見当たらない。中央大学ウェブサイトには、18集は「1901(明治34)年9月発行の第125号から第19巻第8号(通号第223号)までの『法学新報』に掲載された「雑報」、「東京法学院記事」、「東京法学院大学記事」、「中央大学記事」から学事・行事の記事を中心に構成」と『中央大学史資料集』紹介ページに記されている。第18集に採録されている記事は、「東京法学院大学記事(外国語専修科・英語演説会)(『法学新報』第15巻5(172)号 明治38年5月10日)」、「東京法学院大学記事(外国語専修科の現況・学年試験)〔『法学新報』第15巻6(173)号 明治38年6月10日)」の2つの記事だけである。

 なお、『中央大学二十年史』、『中央大学三十年史』、『中央大学五十年史』、『中央大学七十年史』には以下の記述がある。
 『中央大学二十年史』(法学新報社、1905(明治38)年8月)(pp.73-74):「現行の学則」の項のなかで「外国語を研究せんと欲するものゝ為め、本大学に附属して外国語専修科を置き、英語及独逸語を専修せしむ、其修業期は之を五学期に分ち、両国語とも、読方、書法、会話、作文、文法、訳解等の諸科を課す」とある。
 『中央大学三十年史』(法学新報社、1915(大正4)年12月)(p.37):「外国語専修科」ではなく「英語専修科」の項を立て、「本大学に附属して英語専修科を置き業務の為め昼間受業の便を有せさる人又は課業の英語を補修せんとする学生の為め新式の教授法に依り秩序的に速成を期して英語の本領及ひ活用法を学習せしむるを目的とし其修業期は之を六学期(三年)に分ち、読方、書取、聴取、会話、文法、作文、訳解等の諸科目を課す此科は明治三十八年四月を以て開設せしものなり」とある。
 『中央大学五十年史』(1935(昭和10)年11月)(pp.69-70):「中央高等予備校、英語専修科」の項を立て、「本学に附属して英語専修科を置き、新式教授法に依り、秩序的に英語の本領及活用法を学習せしめんと企て、是れ明治三十八年を以て創設したるも、継続約三年にして之を廃止す」とある。
 『中央大学七十年史』(中央大学、1955年):第3章第1節「法科大学の組織成る」のなかで「三十八年四月、学則の一部を改めて外国語専修科をおいて専ら外国語の修学に便せしめ、かつ傍聴生の制を設けた。これは当時判事検事登用試験規則、弁護士試験規則並びに文官試験規則の改正は行われ、本試験のほかに予備試験が課せられ、その予備試験中に英、仏、独語中の一を選択して受験せねばならなくなったから、受験志望者のため、資益せしめんとしたのである」と記述している(p.77)。また、第4章第3節「中央高等予備校と選科聴講制その他」のなかで「中央高等予備校は中央大学が附設した学校であったが、このように独立の形式はとらなかったけれども似たような内容をもつものに外国語専修科がある。開設期は予備校とほぼ同時代であったとおもわれるが、これは英語、独逸語を専修する予備教育機関であった。高等文官試験の予備試験に外国語が加えられることになったから、これを機として開講されたものであろう。それ故に特に受験科なるものをおいて原書による法律経済の講義を行い、池田寅二郎はテリーのコモンローを、吉野作造はジードの経済学を教材として講壇にたった」(p.89)と記述している

2)開講時前後の時期
 外国語専修科を設置した時期、大学では以下のようなできごとがあった。
(1)東京法学院が東京法学院大学と改称して、同時に専門学校令による認可を受けたのが1903(明治36)年8月である。
(2)1905(明治38)年4月、外国語専修科を開講。
(3)1905(明治38)年4月、予科にドイツ語科を新設(甲組-ドイツ語により中学を卒業した者・午前8時始業、乙組-ドイツ語初心者・午後6時始業)(注6)。
 まったくの推測だが、ドイツ語科乙組は予科の授業でもあったのではないかと考える。この推測は、ブログ記事「「明治高等予備講義録」(明治大学)から100年以前に大学が作った予備校を考える」で、予備校の授業を予科の授業としていた高等予備校(専修学校)などのケースを紹介したが、これのアナロジーである。
(4)中央大学への改称が1905(明治38)年8月である。
(5)中央高等予備校が認可を受けたのも同じ1905(明治38)年の8月である。

  注6: 予科にドイツ語科を新設した記事はウェブ版『中央大学年表』で確認できる。


3)開講初期の受講者数など
 外国語専修科の受講者数などは、『東京市統計表』(東京市役所編纂)によれば表1のとおりである。

表1 中央大学外国語専修科受講者数など(注7)

年度 受講者数 卒業者数 入学者数
1906(明治39)年度(注8) 50
1908(明治41)年度 90 5 95
1909(明治42)年度 95 5 87
  注7: 『中央大学百年史』通史編上巻p.335には『第6回東京市統計表』(明治42年刊)から引用として1906(明治39)年度の受講者数が掲載されているが、他年度の掲載はない。
注8: 『東京市統計表』の凡例には、「年」とあるものは暦年(1月-12月)、「年度」とあるものは会計年度(4月-翌年3月)と断り書きがある。「37表 私立諸学校-私立専門学校」には「年度」と表示されている。なお、会計年度は、1884(明治17)年太政官第89号達によって明治19年度以降は「4月1日ヨリ翌年3月31日マテヲ以テ会計一週年度ト相定メ候」とされた。


4)開講後の様子
 1905年の開講後の様子。
(1)『法学新報』の学校記事
 『中央大学史資料集』第18集に『法学新報』の学校記事が採録されている。
 第15巻第6号(1905年6月10日)に「外国語専修科の現況」と題する記事に「今回入学者の異彩とも云ふへきは判検事弁護士等の諸氏にして其の数は既に三十余名の多きに達せリ因に同科の授業担当講師は英語にて飯塚陽平、ハリス(英国人)佐久間信恭(高等師範学校講師)廣井辰太郎の諸氏独逸語にて<以下略>」とある。
 同誌第15巻第12号(1905年11月1日)の「外国語専修科」には、「入学者日々増加しつゝある所なるか同科の新学期に於ける組織は毎日午後七時より授業を開始して同九時に終るものにして英語、独逸語の二科を置き各科初歩及び中学卒業程度の二組に分ち各講師熱心な授業に従事せらる其分担左の如し」として、「英語(読方及訳解)飯塚陽平、松浦与三松、佐久間信恭、英語(時文)廣井辰太郎、英語(会話)ウヰリヤム、ハリス<以下独逸語だが引用せず>」と講師を挙げ、「又右の外高等文官、判検事受験者の為め特に受験科なるものを設け原書に依り法律経済を授くる所の一科を新設し担当講師左の如し」として「法律(現にテリー氏コンモンローを持ゆ)法学士池田寅二郎  経済(現にジード氏経済学を持ゆ)法学士吉野作造」を挙げている。
 同誌第16巻第2号(1906年2月1日)の「研究科と外国語専修科」には、「新年に入りて両科の人員増加しつつありて一方は午後五時より七時まで他方は七時より九時までなれは兼修頗る便宜にして各受験者も漸く準備に著手を要するの時期に達し殊に受験科にありては新に福田博士も加はられたれは漸次盛況に赴くへしと」とある。
 同誌第16巻第10号(1906年9月1日)の「外国語専修科」には、「廣井主任の尽力に依り英語科の如きは全く面目を一新し山口高商教授、上山ドクトル、ルースの三氏も新に入りて授業を担任せられ授業時間も亦た増加したり」とある。
 同誌第20巻第11号(1910年12月1日)の「中央大学英語専修科講演会」には、同年11月に開催された講演会について講演者と講演内容の概略を掲げている。講演者のうち英語専修科の講師は、広井辰太郎、鬼島熊之助、ルーズ(記事にはルーズとあるがおそらくルース)であった。

(2)中央大学学制一覧などにある制度的側面
 『中央大学学制一覧』(1908(明治41)年8月)、『中央大学学制一覧』(1911(明治44)年8月)、および、『中央大学学制一覧』(1912(大正1)年8月)には、「第7章 外国語専修科」があり、「外国語ヲ研究セント欲スル者ノ為メ本大学附属シテ外国語専修科ヲ置ク」とある。英語とドイツ語の2つの科を置き、定員400人以内、就業期を2年としてこれを4学期に分けるとし、週18時間の授業を行なうとしている。第4学期には卒業試験を行なうとある。
 2年後の『中央大学学制便覧』(1914(大正3)年8月)には「第十一 英語専修科」に「英語専修科ハ業務ノ為メ昼間受業ノ便ヲ有セザル人又ハ課業ノ英語ヲ補修セントスル学生ノ為メ新式ノ教授法ニ依リ秩序的ニ速成ヲ期シテ英語ノ本領及ヒ活用法ヲ学習セシムルヲ目的トス」とある。修業期間を2年とし、これとは別に「高等科」(1年)を置く。専修科はおもに中学校程度の内容とし、高等科は中学校卒業程度の者を入学させ、釈解、作文を主として、そのほか書取、聴取、会話を教えるとある。授業は午後6時から午後9時とする。学年の終期には試験を行ない修業証書を授与する。ドイツ語専修科の項はない。(なお、珠算科の項がある)。
 『中央大学学制便覧』(1917(大正6)年11月)、『中央大学学制便覧』(1918(大正7)年8月)にも以上と同じ内容が掲載されている。
 また、大正7年文部省告示第154号(5月7日)で、徴兵令上の認定の効力について「別科生選科聴講生及外国語専修科生ニ及ハス」としている。以上から、このころまでは存続していたと推測する。
 翌年の『中央大学学制便覧』(1919(大正8)年3月)には、「英語専修科」や「外国語専修科」の項はない。

 以下の表2に開講時から1918年までを上記の資料をもとにまとめた。

表2 外国語専修科の推移

時期 目的 開講課程 定員 就業年限/週時間数 在学生数
開講時1905(明治38)年(学制一覧) 「外国語ヲ研究セント欲スル者ノ為メ」 英語科、ドイツ語科の2つ 400人以内 2年4か月/18時間 50(1906年度)
1907(明治40)年(概要) 「普通科に於ては専ら実用を旨とし中学程度の英語を一箇年に短縮して教授」。「受験科を甲乙二種に分つ  甲種は専ら諸官立専門学校入学志望者の為め乙種は高等文官、判検事、弁護士等の受験者の為め」。 [英語科、ドイツ語科の2つか?]
[それぞれ普通科、受験科を開講か?]
不明 1年/18時間 不明
1908(明治41)年(学制一覧)/1911(明治44)年(学制一覧)/1912(大正1)年(学制一覧) 「外国語ヲ研究セント欲スル者ノ為メ」 英語科、ドイツ語科の2つ 400人以内 2年/18時間 90(1908年度)

95(1909年度)
1914(大正3)年(学制便覧) 「業務ノ為メ昼間受業ノ便ヲ有セザル人又ハ課業ノ英語ヲ補修セントスル学生ノ為メ」 英語科 不明 2年。
別に「高等科」(1年)
不明
1917(大正6)年(学制便覧)/1918(大正7)年(学制便覧) 「業務ノ為メ昼間受業ノ便ヲ有セザル人又ハ課業ノ英語ヲ補修セントスル学生ノ為メ」 英語科 不明 2年。
別に「高等科」(1年)
不明
1919(大正8)年(学制便覧) 不掲載


2 卒業
 ウェブ版『中央大学年表』の卒業式記事に「外国語専修科」が記録されている。1910(明治43)年11月11日の条に「第25回卒業式を新築大講堂で挙行、卒業生-本科法律学科13人、本科経済学科9人、専門科法律学科41人、専門科経済学科32人、新聞研究科7人(第1回修業生)、外国語専修科2人」、また、1913(大正2)年7月7日の条に「第28回卒業式を大講堂で挙行、卒業生-本科法律学科13人、本科経済学科3人、本科商業学科3人、専門科法律学科28人、専門科経済学科22人、専門科商業学科2人、外国語専修科6人」とある。


3 講師
 紹介した「英語専修科概要」に記載されている講師に注目してみる。
東京法学院大学と改称して、同時に専門学校令による認可を受けたのが1903(明治36)年8月であるが、当時の予科の英語の講師は、浅田栄次、平井金三、広井辰太郎である(注9)。

  注9: 『中央大学百年史』通史編上巻(学校法人中央大学、2001年3月)「第5章 東京法学院大学から中央大学へ」p.284。浅田、平井は東京外国語大学教授

 すでに引用した『中央大学学制一覧』、『中央大学学制便覧』や『百年史』、『中央大学二十年史』をもとに英語専修科創設期(『概要』を含む)の担当講師をもとに、その後の担当状況を追った(表3)。なお、『五十年史』には、講師・教員の一覧は存在しない。
1)これらの史料の多くは担当科目を明示せず、また、所属を明示していないことが多い。したがって、英語専修科に絞った調査は困難である。
2)英語専修科がいつまで開講されていたかは不明である。すでに述べたように1919年の『中央大学学制便覧』(1919(大正8)年3月)には、「英語専修科」や「外国語専修科」の項はないので、この調査はこの時期までとした。
3)開講初期の情報をもとに講師を特定せざるを得ないことから、講師の変更に関してはまったく情報源がない。
4)『学制一覧』、『学制便覧』の特徴は以下のとおり。
(1)1908年は、本科、専門科ともに法科には外国語(英語を含む)はなく、本科、専門科ともに経済科に英語がある。予科に英語、ドイツ語がある(選択必修)。講師一覧は、本科と予科の区別なしに講師が列記されている。法科、経済科の区分もない。
(2)1911年から1917年は、本科/大学部、専門科/専門部ともに法科には外国語(英語を含む)はなく、本科/大学部、専門科/専門部ともに経済科、商科に英語がある。予科に英語、ドイツ語がある(選択必修)。講師一覧は、本科/大学部と専門科/専門部の区別なしに、「法科および経済科」、「商科」という2区分で講師が列記されている。予科は別記。
(3)1918年は、大学部、専門部ともに法科には外国語(英語を含む)はなく、大学部、専門部ともに経済科、商科に英語がある。予科は第一部(法科、経済科):英語、ドイツ語(選択必修)、第二部(商科):英語必修。ただし、第一部には、「数学、物理、化学、博物、英語、独逸語ノ六科ハ随意科目トシテ之ヲ置クコトアルヘシ」とのただし書きがある。講師一覧は、大学部と専門部の区別なしに、「法科および経済科」、「商科」という2区分で講師が列記されている。予科は別記。

 この調査の結果、ウィリアム・ハリス(W. ハリス)、鷲見亀五郎、山口鍖太、清水泰次郎、廣井辰太郎の各講師が英語専修科に深くかかわったものと推測する。同時に本科/大学部の経済科・商科、予科、専門科/専門部の経済科・商科の授業も担ったものと推測する。

表3 英語専修科創設期講師とその後の担当状況

時期 E. ルース  W. ハリス 鷲見亀五郎 浦口文治 山口鍖太 後藤薫 佐藤潔 宮森麻太郎 水野忠丸 清水泰次郎 束譲三郎 廣井辰太郎 飯塚陽平 佐久間信恭 松浦与三松 池田寅二郎 吉野作造 福田 山口 上山 鬼島熊之助
開講時1905(明治38)年(注10) DK/Y/KY E KY E/Y E E/Y E/Y/KY
1905(明治38)年6月ころ(注11) E E E E
1905(明治38)年11月ころ(注12) E E E E E E E
1906(明治39)年2月ころ(注13) E
1906(明治39)年9月ころ(注14) E E E
1907(明治40)年(概要) E E E E E E E E E E E E
1908(明治41)年 * * * * *
1910(明治43)年12月ころ(注15) E E E
1911(明治44)年 DS/Y DS/Y Y Y DK Y
1912(大正1)年 DS/Y DS Y Y DK Y Y
1914(大正3)年 DS/Y Y Y DK Y
1917(大正6)年 DS Y Y Y DK DK/Y
1918(大正7)年 DS/Y Y Y Y DK DK/Y

 記号の意味は以下のとおり。
  E 英語専修科    DK 本科経済科/大学部経済科
  DS 本科商科/大学部商科    Y 予科
  * 講師(所属の記載なし)    KY 中央高等予備校

  注10: 開講時については、『百年史』、『二十年史』による。『二十年史』には、中央高等予備校の英語担当講師として表に掲げた講師以外に長谷川方文、高嶋捨太、浅田栄次が掲げられている。
注11: 『法学新報』第15巻第6号(1905年6月10日)の「外国語専修科の現況」記事による。

注12: 『法学新報』第15巻第12号(1905年11月1日)の「外国語専修科」記事による。
注13: 『法学新報』第16巻第2号(1906年2月1日)の「研究科と外国語専修科」記事による。
注14: 『法学新報』第16巻第10号(1906年9月1日)の「外国語専修科」記事による。
注15: 『法学新報』第20巻第11号(1910年12月1日)の「中央大学英語専修科講演会」記事による。


4 「英語専修科」の廃止時期
 紹介した『中央大学学制便覧』から、専門学校令による中央大学が大学令による中央大学に「昇格」する時点(1920(大正9)年4月)までの間に、「中央高等予備校」の廃止(1920年(大正9)年3月)とともに廃止されたのではないかと推測する(注16)。

  注16: 『中央大学五十年史』(中央大学、1935年)には、「中央高等予備校、英語専修科」の項に、「明治三十八年を以て創設したるも、継続約三年にして之を廃止す」とある(p.70)。しかし、すでに引用したように1918(大正7)年時点では開講されているので、『五十年史』の記述は誤りである。

 『中央大学学制便覧』(1918(大正7)年8月)、『中央大学学制便覧』(1919(大正8)年3月)を子細に検討する。
 1918年8月版では、学年の始期を4月と記していることから、翌1919年4月から適用されるものと理解する。その構成は、記要、学制便覧(1総則、2学則)、職員、附録(1図書館、2中央高等予備校、3学友会、4学員会、5実業同窓会)で構成され、学則中に英語専修科が、附録中に中央高等予備校が規定されている。
 1919年版は、総則、学則で構成され、いずれの箇所にも英語専修科、中央高等予備校に関する規定や記事はない。なお、学年の始期を4月と定めている。
 以上を総合すると、1918年の夏ころまでは翌1919年度も英語専修科や中央高等予備校を運営する予定であったが、何らかの事情で1919年の初頭にはこれを取りやめたと理解するのが妥当だ。
 

 雑駁にまとめれば、「新大学令」によって私立の専門学校が大学に「昇格」して行く機会が近々訪れる。それを前提に同窓会を始め大学も大学昇格に向け準備をしてゆく段階にあった。そのなかで、大学本体からは枝葉である英語専修科や中央高等予備校は切り捨てられて行くことになった。

 以上、東京法学院大学(中央大学)の外国語専修科、とくに英語専修科について創設から廃止までを見てきた。設置目的のひとつであった判検事登用試験などで実際には外国語試験が実施されない状況で、どれほどの意義があったのだろうか。



5 他の大学の類似の「課程」、「講座」
 以下で法政大学、日本大学、関西大学の外国語に絞った「課程」、「講座」を紹介する。
1)法政大学(注17)
 1905(明治38)年ころ、法政大学は、大学部、専門部、高等研究科、大学予科、外国語専修科、法政速成科、普通科の7つの部門を設置していた。「外国語専修科規則」(注?)で「外国語専修科ハ法律、政治及経済ニ関スル学術ヲ修ムルニ必要ナル外国語ヲ教授スルヲ以テ目的トス」と規定し、英語専修科、フランス語専修科、ドイツ語専修科の3科を置き、修業年限はそれぞれ3年、発音、読方、釈解、書取、会話、作文、文法を教授し、週当たり18時間の授業、学年末に試験を行なうとしている。また、大学学則を準用し卒業証書を授与するとしている。
 「沿革略」に1905(明治38)年11月に「外国語専修科ヲ設ケ<後略>」とある。

  注17: この項は、『私立法政大学一覧』を典拠に記述した。『一覧』所収の「法政大学摘要」に7部門が明記され、学則などとともに「外国語専修科規則」が収録されている。なお、『一覧』に刊記はないが、所収の「沿革略」が明治40年1月の記事で終わっていること、および、東京図書館の受入印の日付が明治40年3月であることから、1907(明治40)年当時の規則と推測する。『一覧』には外国語専修科担当講師名簿があり、3人の講師が列記されている。

 東京法学院の項で引用した『東京市統計年表』には次のように記録されている。第5回(明治39年度)以前の『年表』には課程ごとの人数は記録されず総数表示がされている。また、第6回(明治40年度)、第8回(明治42年度)には課程表示に「外国語専修科」はない。第7回(明治41年度)には「外国語専修科」はなく「外国語研究科」があり、生徒20人とあるが、これが「外国語専修科」かどうかは不明である。


2)日本大学
 1903(明治36)年10月、日本大学は、外国語専修部を新設(英語、ドイツ語)した(『日本大学一覧』[昭和2年8月](日本大学出版部、昭和2年)p.9)。このことは日本大学ウェブサイト「沿革」にもある。
 『日本大学七十年略史』(日本大学、1959年)p.115に大要以下のようにある。1903(明治36)年10月、外国語専修部を新設(英語、ドイツ語)(学則にはフランス語も置くことを可とす)。修業年限2年4か月で、第1学期は4月から翌年8月、第2学期は9月から翌年7月。「第1学期修了者は外国語の試験を要せずして、大学部に入学せしめることとした。すなわち予科と同一の待遇をもってしたのである」。大学部と専門部の学生に授業に支障のない限り専修部の兼修を奨励した。1906(明治39年)に中国語科を加え、修業年限を2年に短縮した。
 『日本大学七十年の人と歴史』第1巻(桜門文化人クラブ編、洋々社、1960年)p.158には、『七十年略史』と同様の記述がある。『七十年略史』からさらに踏み込んで、「第1学年修了者は、外国語の試験をせずに大学部に入学出来る規定とした。即ち夜間授業ながら大学予科と同一の待遇を与えることによって、昼間予科の不振を補わんとしたものであり、その他、高等試験を受験する日本大学学生全般の語学力の向上をはかるため、大学部、および専門部学生をしてつとめて外国語専修部を利用して外国語を習得するよう、大学当局は奨励した」とある。なお、以上とほぼ同様の記述が『日本大学の全貌 : 栄光ある日本大学八十年の歩みと現状』(洋々社編集部編、洋々社、1963年)にある。
 東京法学院の項で引用した『東京市統計年表』には表4のように記録されている。なお、第5回以前の『年表』に外国語専修部の項自体なし。1910年度(第9回)には「外国語専修部」の項はあるが生徒数などはすべて-印である。1912(明治45-大正1)年度(第11回)、1913年度(第12回)、1914年度(第13回)は、本科、予科、別科、研究科の区分のみで外国語専修部の記録はない。

表4 日本大学外国語専修部受講者数など

 

年度 受講者数 卒業者数 入学者数
1907(明治40)年度 155 - 項目なし
1908(明治41)年度
高等科
15 - 12
1909(明治42)年度
高等科
9 - 7
1909(明治42)年度
初等科
6 - 1
1911(明治44)年度 28 - 2



3)関西大学(注18)
 1905(明治38)年7月、関西大学は「外国語専修科」を設置した。学則の第7章が「外国語専修科」で、「本大学ニ外国語専修科ヲ附置ス」と規定している。英語とドイツ語の2科を置き、修業年限はそれぞれを3年、1年は読方、訳解、書取、文法、2年は読方、訳解、文法、会話、3年は法律経済書購読、文法、会話を教授し、毎週5時間あるいは6時間の授業を行なうとしてる。また、「本大学学生ハ外国語専修科ヲ兼修スルコトヲ得」とし、学生以外の者を「外国語専修科生」と称するとしている。
 「沿革略記」に、1905(明治38)年7月「文部大臣ノ認可ヲ得テ外国語専修科ヲ設ケ直チニ授業ヲ開始ス」とある。

  注18: この項は、『関西大学一覧』(1909(明治42)年2月)を典拠に記述した。



以下は20204年3月19日の追記
 明治大学にも類似の「外国語選修科」が1905年(明治38)年に設置されている(注19)。
 『明治学報』第88号(1905年6月8日)に「本学は法学者商業家に外国語の須要なるを認め前学年より予科に於ける外国語教授に拡張を加へ又十数年前より専門科に外国語の随意科をも設け置きたるも恰も今回判検事及弁護士試験規則の改正により外国語の試験を課せらるゝこととなりしより更に卒業生及現在専門科学生中の応試志望者のため今回外国語選修の一科を設けたり」とあり、同年の学則に規定されている。

  注18: この項は、『資料 明治大学教育制度発達史稿』3を典拠に記述した。

以上追記終わり。