日本の大学の歴史に関心があり、浅沼薫奈氏の博士論文『明治・大正期の私学における大学昇格準備過程に関する研究― 日本近代私立大学史再考 ―』を拝見した。博士号(2017年度;課程外博士=論文博士)は桜美林大学が授与した(注1)。「内容の要旨及び審査結果の要旨」を含め、同大学ウェブサイトに公開されている。また、論文は国立国会図書館サイトでも公開されている。
 この論文がもとになって出版された『日本近代私立大学史再考 : 明治・大正期における大学昇格準備過程に関する研究』(学文社、2019年)(以下「書籍版」という)(注2)(注3)も拝見した。
 取り上げられているのは、慶応義塾、早稲田、法政、明治、中央、専修、日本、同志社、立教、上智、駒澤、大谷、國学院、拓殖、東洋の15大学(書籍版には立命館が追加されて16大学)である。
 なお、ブログ記事中のURLリンクのあるものは、2024年5月21日に最終閲覧したものである。

『日本近代私立大学史再考 : 明治・大正期における大学昇格準備過程に関する研究』(学文社、2019年) 学位論文『明治・大正期の私学における大学昇格準備過程に関する研究― 日本近代私立大学史再考 ―』

  注1: この博士論文のもとになった論考の一部は以下であろう。
(1)「私立専門学校の「大学」名称獲得に関する一考察 ―早稲田・同志社を事例として―」(『大学史研究』第21号(2005年9月))。
(2)「明治・大正期における私立法律学校の「大学」名称への転換に関する一考察」(『大東文化大学紀要.社会科学』52巻(2014年3月))。
(3)「旧制私立法律学校の「大学」名称への転換に関する一考察」(2)(『大東文化大学紀要.社会科学』53巻(2015年3月))。
(4)「明治・大正期における私立専門学校の「大学」名称への転換に関する一考察」(3)(『大東文化大学紀要.社会科学』54巻(2016年3月))。
(5)「明治・大正期における私立専門学校の「大学」名称への転換に関する一考察」(4)(『大東文化大学紀要.社会科学』55巻(2017年3月))。
注2: 書籍版についての書評・紹介記事。
(1)八木雅之「日本近代私立大学史再考」(『日本教育新聞 NIKKYO WEB』(2020年4月6日)。
(2)湯川次義「浅沼薫著『日本近代私立大学史再考―明治・大正期における大学昇格過程に関する研究―』」(『日本の教育史学』第64集、2021年)。
(3)新谷恭明「浅沼薫奈著『日本近代私立大学史再考―明治・大正期における大学昇格準備過程に関する研究』」(『大学史研究』29号、2021年)。
(4)鈴木勇一郎「浅沼薫奈『日本近代私立大学史再考』」(『立教学院史研究』18号、2021年)。
注3: 書籍版で取り上げている学校以外に「大学」名称を冠した学校があるにもかかわらず、なぜ取り上げないのかという指摘がある。それは、「わがまま書評+α」というブログで、「浅沼薫奈『日本近代私立大学史再考 明治・大正期における大学昇格準備過程に関する研究』学文社」というタイトルで発表されている。ブログには「著者の作成した表によると、大学令以前に「大学」名称を冠した大学は慶應義塾を含めて20校である。そのうち16校を俎上に載せているのであるが、なぜあとの4校は取り扱わなかったのだろうか。ちなみに、分析の対象とならなかったのは龍谷大学、関西大学、立正大学、東京農業大学の4大学である。この4大学が検討の対象から外された理由の説明がないのはどうしてだろうか。関西大学は私立法律学校、龍谷大学、立正大学は宗教系、東京農業大学は単一学部に振り分けられるのだろう」とあり、さらに各校について対象から除く理由がないことを述べている。また、ブログの他の箇所で、書籍版の67ページには関西大学も対象とする旨記されているのに対象としていないと指摘している。
 なお、このブログ記事は5,000文字を超える長文である。新谷恭明氏(元九州大学教育学部教授)の筆によるものと推測する。「わがまま書評+α」ブログ中の書評「寺﨑昌男『日本近代大学史』(東京大学出版会 2020年6月5日 6,600円+税)」中で『九州大学百年史』の編集委員長を務めたことに触れており、そのことは九州大学ウェブサイトの「記念事業実施体制」ページで確認することができる。
 「わがまま書評+α」ブログが指摘する論文筆者が取り上げなかった学校(大学)については、次回以降のブログ記事で取り上げる。


 このブログ記事では、論文についていくつかの点から批判を述べる。論文はウェブ上に公開され、また、書籍版のあることから、今後先行研究として引用されるであろう(注4)。しかし、雑駁な表現であるが、史的情報を収集整理していないこと、自ら設定した分析枠組みに忠実でないこと(分析枠組み自体に疑問がある)など、基本的な部分で疑問がある。

  注4: 博士学位論文は、学位を取得した論述であることから、読む者は相当程度の信頼を寄せる。
 ちなみに、博士学位について、「大学院設置基準」(最終改正:2022年文部科学省令第34号)は、その第4条第1項で、博士課程の目的として「博士課程は、専攻分野について、研究者として自立して研究活動を行い、又はその他の高度に専門的な業務に従事するに必要な高度の研究能力及びその基礎となる豊かな学識を養うことを目的とする。」と定めている。また、博士学位の授与について、「学位規則」(最終改正:2022年文部科学省令第34号)は、その第4条第1項で「法第104条第3項の規定による博士の学位の授与は、大学院を置く大学が、当該大学院の博士課程を修了した者に対し行うものとする」と定め、第2項で「法第104条第4項の規定による博士の学位の授与は、前項の大学が、当該大学の定めるところにより、大学院の行う博士論文の審査に合格し、かつ、大学院の博士課程を修了した者と同等以上の学力を有することを確認された者に対し行うことができる」としている。なお「法」は学校教育法のことで、第104条第3項は課程博士、第4項は課程外博士の定めである。


 論文筆者は、「序章 1.研究の主題」で「本研究は、明治後期から大正中期にかけて、私立専門学校が「大学」名称を名乗った時期を日本の私立大学形成の重要な時代としてとらえ、その解明を通じて、私立大学が実態としていかに準備されたかを究明し、改めて日本における私学像・大学像を捉え直すことをねらいとしている」(p.1;書籍版p.1)と述べている。 また、「筆者がこれまで数多くの私学の学校沿革史に接してきた経験から見ると、この「大学」名称期こそが当該諸学校にとって専門学校から大学への実質的な転換点であったのではないかと考えられる。なぜならば、「大学」名称への転換を機に、私学は着実に学科課程の改善と充実を進め、施設を充足し、「大学」としての学内規定の制定・変更を推し進めていたからである。その背景を概観すれば、私学は個々に帝国大学を相対化し、それに対峙する理念をも宣明していたと見ることが出来るからである」(p.1;書籍版pp.1-2)としている。

  論文、書籍版の引用にあたっては次のように表記した。論文を引用する場合は、単に「p.12」のように表記し、論文と書籍版の双方を引用する場合は、論文の該当ページに続けて、書籍版の該当ページを「p.12;書籍版p.18」のように表記した。また、両者間の表記の違い(漢字表記かカナ表記か)はいちいち掲げない。


 まず、このブログ記事の全体の構成を下記に記す。

 1、および、2では、論文筆者の主題、方法、研究での注目点をまとめておく。
 3-1から3-4では、研究に必要な情報の収集や分析枠組みなどについて指摘する。


目次
 論文筆者の研究の主題、方法
 論文筆者が設定した「研究での注目点」
3-1 対象とした学校(大学)の広報要素を含む当時の機関誌を調査した形跡が見られない
3-2 「百年史」を刊行して20年以上が経過している大学が多数ある。しかし、百年史刊行後の個別大学の調査活動にほとんど着目していない
3-3 各大学のアーカイブスを有効に活用したとあるが、本文、注でそのことが確認できない
3-4 ほとんどの学校が専任教員を置いていない時代に専任教員を「研究での注目点」に掲げることへの疑問

1 論文筆者の研究の主題、方法
 論文筆者は、研究の主題について、「本研究は、明治後期から大正中期にかけて、私立専門学校が「大学」名称を名乗った時期を日本の私立大学形成の重要な時代としてとらえ、その解明を通じて、私立大学が実態としていかに準備されたかを究明し、改めて日本における私学像・大学像を捉え直すことをねらいとしている。<中略>従来の研究では、概ねこの時期を私学の大学昇格要求への「緩衝措置」の段階と捉えてきた。確かに、行政史上で見れば、政府による緩衝的と言える処置であったことは事実である。しかし、「大学」名称期が私立専門学校にとって持っていた意味はそれだけに止まるものだろうか」(p.1;書籍版p.1)。そして、「この「大学」名称期こそが当該諸学校にとって専門学校から大学への実質的な転換点であったのではないかと考えられる。なぜならば、「大学」名称への転換を機に、私学は着実に学科課程の改善と充実を進め、施設を充足し、「大学」としての学内規定の制定・変更を推し進めていたからである。その背景を概観すれば、私学は個々に帝国大学を相対化し、それに対峙する理念をも宣明していたと見ることが出来るからである」(p.1;書籍版p.1)。
 制度的に私学が大学を名乗る時期は1918(大正7)年の「大学令」以降だが、「ここで言う、本研究における「大学」名称期とは、私立大学が制度として確立していない時期に、私学が校名に「大学」名を冠する校名変更の申請をして認可を受けていた時期を指す。すなわち、大学令が公布される以前、具体的には1902(明治35)年から1918(大正7)年までの期間を指すものと定義することとする」(p.1;書籍版p.1)。
 

 そして、論文筆者は、「「大学」名称期の私学に関し、次のような仮説が成り立つのではないだろうか」として、仮説をたてている。すなわち: 
「1)大学像の模索; 
 「大学」名称期とは、私立専門学校が高等教育機関として、「大学」とはどうあるべきかを考え、あるいは諸外国の体制から学び、帝国大学令以外の大学関係法令が出されていない(制約の少ない)段階において、大学令に先駆けて独自の大学モデルを模索し、教育理念や理想を追求した時期であったのではないか。ひいては、正規の大学への一歩を踏み出すための、重要なステップとなったのではないか。 
2)私学理念の追及; 
 理念について見れば、私学が改めて独自の私学像を自覚し表明したのがこの時期であり、多様化し増加する教育要求に自律的に対応し、機敏に変化していく私学ならではの運営方策が見いだされていったのではないか」(pp.1-2;書籍版pp.2-3)。 

 そして、「上記の仮説を検証するには、個別大学の事例に沿った実証的な分析を積み重ねることが不可欠である(注5)。私学の「大学」名称獲得から大学昇格に至るまでの、夫々の建学理念、教育方針、教育実態や制度の変化を検証することにより、同時期における日本の「大学」機能がいかに変容、分化、拡大したのかを分析し、それによってはじめて、私学の描いた具体的な大学像や私学像がどのようなものだったのかを浮かび上がらせることが可能となる」(p.3;書籍版p.3)としている。

  注5: 論文筆者はこの研究で一貫して、私立専門学校が「大学」名称を名乗った時期(1902(明治35)年から1918(大正7)年まで)を日本の私立大学形成の重要な時代としてとらえている。
 しかし、『中央大学百年史』通史編上巻の「三学院連合構想」の項(pp.210-213)によれば、「大学」名称を名乗った時期以前、遅くとも1889(明治22)年10月には、東京法学院(後の中央大学)は、東京文学院、東京医学院と「東京学院連合」を構成し、「連合東京大学」を目指すことを計画していた。『百年史』には「法・文・理・医・工の五分科大学で構成されていた帝国大学をモデルとして、私立総合大学の設立をめざし」ていたとあり、引用された「趣意書」には「連合東京大学」とある(pp.211-212)。また、『百年史』には1889年9月の卒業式での、私立大学構想に触れる校長の演説(『法理精華』第19号(1889年10月)に掲載)を紹介している(pp.208-209)。実際にはこの計画は未達のまま自然消滅した。
 この例は、当該大学のアーカイブスに取材して、「総合大学」構想が独自の私学像であったのか、帝国大学の模倣による生き残り戦略であったのかなど吟味すべきものと考える。


 以上で主題と方法について大要理解できた。

2 論文筆者が設定した「研究での注目点」
 論文筆者は研究での注目点について以下のように述べている。
 「本研究は、個別私学の大学動態分析に立ち考察を進めるが、考究に当たって一貫して特に注目したのは次の点である。 
)いつから、なぜ「大学」名称を求めたか。(名称獲得の「動機」) 
)理念と学内合意はどう形成されたか。「大学への志向」は理念に含まれていたか。(誰のイニシアティブで、どの機関で行われたか) 
)教員のレベル向上・変革はどのように行われたか。現職教員の海外派遣はいつから、どのようにして始まったか。(専任教員の配備・増員・有名学者の招聘など) 
)組織・編制はどのように変化したか。(学部学科の導入及び分化拡大、財団(社団)法人制度の導入) 
)卒業生の待遇は変化したか。(学位名称・資格付与など) 
)科目選択制はいつ、どのように導入されたか。「大学」となるためのカリキュラム改革はどのように進められ、結果として学科課程はどう変化したか。(カリキュラム・ポリシー、教育内容・教育理念の変容)
 これらの観点はすべて近代大学の理念に沿った変化であり、その変化を分析することによって、本研究の主題に迫りたい」(p.12;書籍版p.18)。

 以上引用したように、本論文(研究)は、大学令施行以前に「大学」を名乗った専門学校(大学令施行後にいずれも大学に「昇格」)を対象に、それぞれの学校がどのような理念を形成し、事実として何を行なったかを明らかにして、「私学の描いた具体的な大学像や私学像がどのようなものだったのかを浮かび上がらせる」ものと理解することができる。

 なお、次回以降(第5回を予定)のブログ記事で明治大学を取り上げて、筆者の掲げる「研究での注目点」について検証する。


 以下に4点指摘する。

3-1 対象とした学校(大学)の広報要素を含む当時の機関誌を調査した形跡が見られない
 論文には、当時の機関誌にほとんど言及がなく、あるいは、引用されていない。私が見つけることができたのは以下の3件である。これ以外のほとんどは、何らかの著作(多くは当該大学の「百年史」)からの孫引きである。
(1)早稲田大学の節で『早稲田学報』が注に2カ所(注26、注27)(p.43;書籍版p.56、p.57)(いずれも『早稲田大学百年史』第1巻からの孫引き)。ほかに、本文に2カ所(p.32;書籍版p.48、p.35;書籍版pp.53-54)に現れるだけである。
(2)同志社大学の節では、『同志社時報』の3つの記事が現れるが、いずれも『同志社百年史』からの孫引きである(p.78;書籍版p.124)。
(3)拓殖大学の節で、台湾協会学校(拓殖大学の前身)の設置者である台湾協会の『台湾協会報』、『東洋時報』(p.102;書籍版p.162、おおび、pp.109-112;書籍版pp.173-177)が引用されている。ただし、引用の大半は『新渡戸稲造 : 国際開発とその教育の先駆者』(拓殖大学百年史編纂室編、2001年3月)からの孫引きである。

 なお、法律学校5校(書籍版では立命館大が加わり6校)のうち容易に調べることができる機関誌を掲げておく。当該大学のアーカイブスに所蔵されているであろうし、国立国会図書館(以下「NDL」と略記)に所蔵されているものもある。

表1 法律学校6校の機関誌

学校(大学) 機関誌
法政大学  『和仏法律学校講義録』には「雑報」として学校の動静などを記事として登載している。
 なお、『明法志叢』(1893(明治26)年から翌94年にかけて発行された)(継続前誌『明法誌叢』1892年創刊)には、「明治法律学校記事」、「和仏法律学校記事」欄がある。
 さらに、『法学志林』(1899(明治32)年11月創刊)、各号に「記事」として和仏法律学校の動静などを登載している。
明治大学  『明治法学』(1899(明治32)年9月創刊) ⇒ 『明治学報』(1904年9月;巻号を継承して初号は76号) ⇒ 『明治評論』(1909年) ⇒ 『学叢』(1910年) ⇒ 『明治学報』(1912年)。『明治大学学報』(1916年創刊)。
 以上とは別に鵜澤總明が主筆を務めた『国家及国家学』(1913(大正2)年創刊)がある。大学の公式発行物ではないが、第4巻8号(1916年8月)までは「雑報」として大学関係記事が掲載されている。
中央大学  『法学新報』(1891(明治24)年4月創刊)には学校の動静などを記事として登載している。それらの記事は『中央大学史資料集』(冊子体)として1984年から刊行され、2016年7月から中央大学ウェブサイトに公開されている。論文筆者が対象としている時代に関しては第17集として1999年に刊行されている。
専修大学  『専修学校理財学会経済論集』(1901(明治34)年4月創刊) ⇒ 『経済論叢』(1903年4月第3輯;『経済論集』の後誌;巻号を継承)、『理財評論』(1917年3月創刊)。『専修大学々報』(1920年創刊?)(『専修大学百年史』p.1100)。
日本大学  『法政新誌』(1887(明治20)年創刊) ⇒ 『日本法政新誌』1905(明治38)年創刊(巻号を継承)に雑報欄あり。NDLで『日本法学(法政新誌・日本法政新誌・法律学研究)総索引』(日本大学法学会、1959年)を公開。
立命館大学  『経済時報』(1901(明治34)年4月創刊) ⇒ 『法政時論』 (4巻1号;巻号を継承;1903年11月-)、『立命館学報』(1914(大正3)年2月創刊)、『立命館学誌』(1916年1月創刊)。



3-2 「百年史」を刊行して20年以上が経過している大学が多数ある。しかし、百年史刊行後の個別大学の調査活動への着目は希薄である。
 論文には、「個別私学において刊行されている研究紀要も重要な先行研究として参照した」(p.13;書籍版p.20)とある。
 対象とした15校(書籍版は16校)のうち5校(書籍版は立命館大が加わり6校)は法律学校である。この5校(6校)について言えば、個別大学の調査活動に着目していない。5校(6校)の大学史に関する紀要類からの引用はない。
 この5校(6校)を除くほかの学校についても、巻末の「引用(参考)文献」にはごく少数の研究紀要論文を掲げるだけである。


3-3 各大学のアーカイブスを有効に活用したとあるが、本文、注でそのことが確認できない。
 論文には、「そのほか、各校創立者及び首脳陣の執筆物・告示などのほか、設立申請書及び各種変更届といった公文書類、学校規則、学校要覧等も重要な基本資料となる。特に現在までにほとんどすべての大学が創立百周年を迎えている中で、各校に設置された大学アーカイブス(大学史資料室・百年史編纂室等)が、上記のような基本史料のほかに、教育課程を記述した記録や資料といった内部史料を収集、保存、公開しているため、それらを有効に活用することができた」(p.13;書籍版p.20)とある。

 しかし、論文の本文中にはその形跡はない。

 また、注には出所を明示していないものが多く、アーカイブスからの情報であるかどうか不明なものもある。アーカイブスからの情報と推測できるものを最大限拾っても、それは以下の6件(明治大学1件、同志社大学3件、拓殖大学2件)である。
(1) 明治大学の節(p.52;書籍版p.78)で、「1903(明治36)年に設置された「大学創設準備事務所」は同年5月に、名称を「明治大学」とすること、「大学予科」開設は明治37年4月、「大学本科」開設は明治38年9月とするとした方針5)を表明した。」とあり、注5)に「明治大学創設準備事務所「明治大学創設趣旨」による」とある。
(2) 「新島は1883年に発表した『同志社設立之始末』中において、「抑々欧州文明が燦爛として其光輝を宇内に発射せしものは主として教化の恩沢に因らざるはなし」として教育の力の重要性を認識したことを表した」(p.70;書籍版p.111)。
(3) 「さて、新島が『同志社大学設立之旨意』2)と題し、大学設立の意志を広く世間に向かって発表したのは1888(明治21)年のことであった」(p.70;書籍版p.112)。注2に「新島による『同志社大学設立之旨意』(1888年発表)は、新島の構想をもとに徳富蘇峰が添削を行い作成したものであると言われる」とある。
(4) 同志社大学の節(p.77;書籍版p.122)で、「なお、この神学部設置について、同年7月9日に文部省に出頭し、専門学務局長松浦鎮次郎に面接し、確かめた記録も残されている。9)」とある。注9)には「『同志社決議録 自大正元年十一月至大正九年三月』にはさまれた紙片による」とある。
 なお、論文版の注9)は、書籍版では注の減少で注8)に変更されている。
(5) 拓殖大学の節(p.107;書籍版p.170)で、「学監の職責は1902(明治35)年の「台湾協会学校規則」に初めて示されており、「学監ハ教務ヲ監理ス」3)とされている」とある。注3)に「「台湾協会学校規則」(明治35年)、第八章第二十七条職員ノ処務規程(『台湾協会学校規則他 自明治35年至大正九年』)」とある。
(6) 拓殖大学の節(p.107;書籍版p.170)で、「台湾協会学校の初代学監は松崎蔵之助4)であった」とある。注4)に「台湾協会学校の創立時より経済学教授として就任し、翌年から学監をつとめた。東京帝国大学法科大学教授、東京高商校長を経て、東洋拓殖会社創設に参画。専門は農政学、財政学。1865~1919年」とある。

   なお、アーカイブスを活用した例と思えたが、そうではなかったものを紹介する。
 中央大学の節(p.56;書籍版p.84)で、「同年、計画通り経済学科を設置して2科構成となった同校は、8月より「中央大学」と改称することとなった。この時、「国際状況や国内経済事情の進展に即応し、総合大学をめざす本学は、経済、商業に関する学術を教授する学科の新設をもくろんだ」8)と述べている」とある。注8)に「「中央大学学制一覧」(明治38年8月)による」とある。
 「中央大学学制一覧」(1905(明治38)年8月)は、『法学新報』の臨時増刊号(第15巻第9号(通号176号))である。中央大学のアーカイブスにもおそらく所蔵されている(国立国会図書館にも所蔵)と推測したので、アーカイブスを活用した例と考えたが、引用された文章は100年以前の日本語表現とは思えず調べてみた。
 その結果、実際は、『中央大学百年史』通史編上巻(2001年3月)の287ページの本文から引用で、原史料(「中央大学学制一覧」(明治38年8月))からの引用ではないことがわかった。おそらく、単純ミスであろうが。

 

3-4 ほとんどの学校が専任教員を置いていない時代に専任教員を「研究での注目点」に掲げることへの疑問

 論文筆者は、なんらの前提なしに「専任教員」という用語を使用している。

 論文によれば、対象としている大学15校(書籍版は16校))のうち、大学令による大学として認可されるまでの間に「専任教員」制度があったのは、3大学だけである。
 慶応大(p.26;書籍版p.39)、早稲田大(p.35;書籍版p.53、p.36;書籍版p.55、p.37;書籍版p.56)、拓殖大(p.105;書籍版p.167)の3大学である。拓殖大については、年次と具体的教員数を記述しているが、慶応大、早稲田大については年次も人数も掲げていない。

 なお、少なくとも拓殖大学に関する記述には誤りがある。論文が出所とする『日本帝国文部省年報』第48年報には1921年3月現在の教員数を掲げているが、『年報』は、どの年度も、そもそも専任/非常勤の区別をせずに教員数を掲載している。資料の使い方自体に初歩的ミスがある。したがって「専任教員」制度の有無も不明である。「専任教員」制度については、次回以降のブログ記事で取り扱う。

 なぜ、論文筆者は、対象とする時代に即した分析枠組みとしての独自の教員概念を提示しないのであろうか。

 教員概念について、たとえば、ケーススタディーで取り上げる明治大学では、1912(大正元年)年に小林丑三郎が政治経済科の「専任教授」に就任しているほか、複数人を確認できる。また、著名な民法学者の横田秀雄は、大学令による明治大学設置以降のことではあるが、大審院判事の身分のまま法学部長(1921年就任)、学長(1925年就任)を「兼任」している。現代の我々の「常識」では想像することのできない実態があったのである。大学のアーカイブスなどを活用することで新たな視点を提示できるはずである。
 論文筆者は専任教員の定義をしていないが、他に職業を持たず、かつ、その大学に雇用されてこそ「専任」だという定義をしているとすればあまりにもナイーブである。

 「専任教員」、「教員」につては別のブログ記事で取り上げる。



 最後に、上記注2で紹介した書評・紹介記事のなかの鈴木勇一郎氏(立教学院史資料センター)の評を以下に引用しておく。
 学校をカテゴリーに分け、「それぞれの大学に向けた取り組みを具体的に検討することで、その特徴をとらえようとしたのである。こうした作業は、非常に時間と手間がかかるものであり、評者も本書を読むことで初めて知ったこの時期の各学校の取り組みを知ることができた。
 また、各学校の歴史を取り上げる場合、創立期に関心が集中しがちであり、学校の実質が充実していった時期の変容に焦点を当てることは少ない。そうした意味で、本書は大学史の編纂に携わる者にとって、非常に重要な研究成果であることは確かだ。
 とはいえ通読して感じたのは、各学校の動向についての具体的な記述は基本的に浅く、全体としては「沿革」の確認に止まっているという印象をぬぐえなかった。<中略>実際、立教学院に関わる部分でも、基本的にはこれまでの沿革史類の内容を確認することに止まっている。」(太字は引用者による)。

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 なお、論文審査報告書の「論文審査要旨」に、「テーマに即した先行研究を押さえ、その上に立って、独自の視点で仮説を構築している点、対象についての必要な資料に当たり、実証性のある論を展開している点、到達点を踏まえて今後の課題を明確にし得ている点において、当該分野の現在の研究水準に達していると判断された」とある。「論文審査要旨」にそくしていえば、「対象についての必要な資料に当たり、実証性のある論を展開している点」を評価しているがに、その点に疑問を持つ。


 次回以降のブログ記事で、対象校候補に関する歴史的事実を誤って認識していることなどを指摘し、また、明治大学を対象としたケーススタディーを掲げる。その理由は、繰り返しだが、この論文が「先行研究」のひとつとなることへの疑問である。