第3回は、「専任教員」を取り上げる。
 論文筆者の浅沼薫奈氏は、この博士論文(注1)で研究上の注目点のひとつとして「専任教員」を設定している。それは、6点の注目点のうちの3番目である(注2)。すなわち、「教員のレベル向上・変革はどのように行われたか。現職教員の海外派遣はいつから、どのようにして始まったか。(専任教員の配備・増員・有名学者の招聘など)」である。

  注1: 博士論文をもとに『日本近代私立大学史再考 : 明治・大正期における大学昇格準備過程に関する研究』(学文社、2019年)が刊行されている。
注2: 論文筆者の掲げる注目点は以下の6点である(p.12;書籍版p.18)。
 「本研究は、個別私学の大学動態分析に立ち考察を進めるが、考究に当たって一貫して特に注目したのは次の点である。
1)いつから、なぜ「大学」名称を求めたか。(名称獲得の「動機」)
2)理念と学内合意はどう形成されたか。「大学への志向」は理念に含まれていたか。(誰のイニシアティブで、どの機関で行われたか)
3)教員のレベル向上・変革はどのように行われたか。現職教員の海外派遣はいつから、どのようにして始まったか。(専任教員の配備・増員・有名学者の招聘など)
4)組織・編制はどのように変化したか。(学部学科の導入及び分化拡大、財団(社団)法人制度の導入)
5)卒業生の待遇は変化したか。(学位名称・資格付与など)
6)科目選択制はいつ、どのように導入されたか。「大学」となるためのカリキュラム改革はどのように進められ、結果として学科課程はどう変化したか。(カリキュラム・ポリシー、教育内容・教育理念の変容)
 これらの観点はすべて近代大学の理念に沿った変化であり、その変化を分析することによって、本研究の主題に迫りたい」。

図1 『早稲田大学創業録 : 三十年記念』(早稲田大学出版部、1913(大正2)年10月)(部分)
『早稲田大学創業録 : 三十年記念』(早稲田大学出版部、1913(大正2)年10月)(部分)


 第1回のブログ記事でも指摘したが、論文筆者は「専任教員」の定義を示していない。したがって、対象校15校(書籍版では立命館大が加わって16校)のなかで「専任教員」を置いていたかどうかは不明確である。
 論文筆者は、慶応義塾大、早稲田大、拓殖大に「専任教員」制度があったとするが、第1回ブログ記事で指摘したように拓殖大については不確かである。

 以下で検証するが、早稲田大においては「教授」職が必ずしも「専任教員」とはいえない例がある。明治大では、専任教員とはいえないかもしれないが、大学令による昇格以前に「教授」が存在している。専修学校(専修大学)の例も取り上げ、宗教系学校の教員についても取り上げる。
 現代においても専任教員の定義は客観的基準として定まってはいないにもかかわらず(注3)、論文筆者は前提なしに「専任教員」という用語を鍵言葉として使っていることを指摘しておく。

   論文、書籍版を引用にあたっては次のように表記した。論文を引用する場合は、単に「p.12」のように表記し、論文と書籍版の双方を引用する場合は、論文の該当ページに続けて、書籍版の該当ページを「p.12;書籍版p.18」のように表記した。
 urlリンクについては、2024年6月25日に最終閲覧した。
  注3: 専任教員にかかわる現代の文部科学省の認識。
1)2022年の大学設置基準改正に向けた時期の資料
 この改正で、専任教員という用語がなくなり、基幹教員という概念が生み出された。
 「中央教育審議会大学分科会 質保証システム部会」(第10回)(2021年8月4日開催)での資料「大学設置基準等に係る個別論点について(設置認可、専任教員、学内組織等、実務家教員等)」には以下のように「大学設置基準」にかかわって説明されている。(太字は引用者による)。
「(「専任」の概念)
○ 「専任」の概念は、従来、教育研究上必要な専攻分野を定め、その教育研究に必要な教員を置く講座制や、教育上必要な学科目を定め、その教育研究に必要な教員を置く学科目制において、専任の教授等が担当するとされるなど、教員組織における教育実施体制に関連して大学設置基準上規定されていた。
 これら講座制・学科目制の規定は平成18年に廃止されており、現在は、大学の教員組織の基本原則となる一般的な事項として、各教員の役割分担や組織的連携体制の確保(大学設置基準第7条第2項)、個々の主要授業科目は原則として専任教員が担当すること(同令第10条第1項)等が規定されている」。
「(「専任教員」の定義)
○ 大学設置基準上の専任教員の規定は、設置基準制定時に「教員は、一の大学に限り、専任教員となるものとする。」とのみ規定され、その後、大学設置審査手続きの透明化を図る観点等から平成15年及び平成18年に一定の見直しが行われ、現行の規定に整理されている。
 しかし、専任教員を判定する基準は未だ必ずしも明確ではなく、実態としては、設置認可審査において、授業担当時数や給与等を勘案して個々の教員の専任性の確認がなされている状況である。
※ なお、一般に、専任・兼任以外にも、本務・兼務、常勤・非常勤、有期・無期雇用など、教員の労働性について様々な用語・捉え方が存在」。
2)改正後に文部科学省が掲げる事実上の基準(雇用形態と給与)
 「令和4年度大学設置基準等の改正に係るQ&A」に「Q11. 「専ら当該大学の教育研究に従事する者」とは、どのような意味ですか」との想定質問に次のとおり答えている。「一の大学でフルタイム雇用されている者(事業主と期間の定めのない労働契約を締結しているフルタイム労働者(当該フルタイム労働者と1週間の所定労働時間が同じ有期雇用労働者を含む。))であって、月額報酬20万円以上かつ当該大学以外の業務の従事日数が週3日未満であること等を満たす者を想定しています。
 なお、当該要件については、学部等の単位ではなく、大学等の単位で適用する必要があり、<以下略>」。


 ここで私が主張するのは、第1回ブログ記事で指摘したが、専門学校から大学令による大学に「昇格」する当時の私立学校の教員について、時代に即した(実態に即した)教員カテゴリーを示して分析することが必要であるということである。

 そこで今回は、論文筆者が対象とする時代の「教員」について考える。構成は以下のとおり。

I. 法制上の「教員」
II. 「教授」身分と呼称
III. 個別大学の例

 

I. 法制上の「教員」
 掲げたのはいずれも出所は『官報』である。

1 「公立私立専門学校規程」による教員
 「専門学校令」(明治36年勅令第61号)第9条(「公立又は私立の専門学校の教員の資格に関する規程は文部大臣之を定む」) を承けて、「公立私立専門学校規程」(明治36年文部省令第13号)が成立した。教員について以下のとおり規定している。

  第7条 専門学校の教員たることを得べき者左の如し
1 学位を有する者
2 帝国大学分科大学卒業者又は官立学校の卒業者にして学士と称することを得る者
3 文部大臣の指定したる者
4 文部大臣の認可したる者
 前項第1項乃至第4号に該当する者を得難き場合に於ては文部大臣の認可を受け一時他の者を以て教員に代用することを得
 第2項に依り認可を受けんとする場合には公立学校に在りては管理者私立学校に在りては設立者に於て本人の履歴書を具し文部大臣に申請すべし但し奏薦に依り任命せらるる者に就ては別に認可の手続を経ることを要せず
 文部大臣は必要と認むるときは前項の場合に於て学術の検定を行うことあるべし
 本条に依る文部大臣の認可は当該学校在職中に限り有効とす

 教員の資格ととして求めているのは、学位、学歴で、その他に文部大臣による指定や認可を経た教員としている。

 規程には専任や兼任といった分類はない。事実、当時の私立専門学校は帝国大学の教員や官僚などを「講師」として迎えている。

2 「大学令」による教員

 「大学令」(大正7年勅令第388号)は教員に関して以下のように規定している。「大学予科の設備、編制、教員及教科書に付ては高等学校高等科に関する規定を準用す」(第14条)、「公立及私立の大学には相当員数の専任教員を置くべし」(第17条)(下線は引用者による)。
 

3 「大学設立認可内規」による教員

 論文筆者は「文部省は基本的に、大学昇格認可に際して半数以上の専任教員の配置を指導していたが、それを昇格当初から確実に実行できる私立大学は実際には少なかった」(pp.59-60;書籍版p.90)(下線は引用者による)と述べている。また、「大学令」に関連して、文部省内の「大学設立認可内規(秘)」の存在に言及している(p.1;書籍版p.2)。

 「大学設立認可内規」について、以下の論考などがある。

1)吉川卓治「戦前における公立大学の成立・展開過程に関する実証的研究」(1994年度科研費 実績報告書)
 「大学設立認可内規」は1925年のものが確認されていたが、1919年のものを確認したとある。この報告書には1919年版の内規は引用されていない。

2)呑海沙織「大正期の私立大学図書館 : 大学令下の大学設置認可要件としての図書館」(『日本図書館情報学会誌』(56巻1号、2010年3月)
 高野山大が1926(大正15)年4月に大学令により認可された際の設置認可申請書に「大学設立認可内規(秘)」が添付されており、その全文を紹介している。基本財産と専任教員部分を以下に引用する。

  三.大学令第七條ノ基本財産ノ額ハー箇ノ学部ヲ有スルモノニ在リテハ金五拾萬円以上トシ学部一ヲ加フル毎二金拾萬円以上ヲ増加セシムルコト基本財産ハ尠クトモ総額ノニ分ノ一以上ヲ即時供託セシメ其ノ他ハ確実ナル収入見込アル場合二限リ次年度以後三ヶ年以内の分割供託ヲ認ムルコト
四.教貝組織二付テハ左ノ諸項二依ルコト
イ.各学部ノ主任教授タルヘキモノヲ定メシムルコト
ロ.学部完成ノ年度迄二主要学科目ノ半数以上ノ専任教員ヲ置カシムルコト
(下線は引用者による)

 

3)高野山大学百年史』(高野山大学、1986年10月)
 『高野山大学百年史』には、大学への昇格に関し、1919(大正8)年4月に文部省から真言宗高野山大に対して出された「私立大学内規」が引用されている(p.165)。大学令施行と同時に個別の学校に出されていること、および、内容も興味深いものなので『百年史』本文も含めて以下に引用する。なお、『百年史』には、「大学設立認可内規」ではなく「私立大学内規」とあるが、「大学設立認可内規」の内容と重なる部分がある。

   「次いで、4月[1919(大正8)年:引用者補記]には、「私立大学内規」が、文部大臣から各私立大学宛に発せられた。本学には、次のような厳しい条件が示された。

一、財団法人が所有する事を要する私立大学の基本財産額は、一箇の学部を置く大学に於ては、五拾万円とし、数箇の学部を置く大学に於ては、一箇の学部を加ふる毎に、拾万年を増加する事。
一、今後十カ年を期し、必ず吾宗大学をして、新大学令の適用を受け得るやう、内外御施設を完成するため着々実行に努力する事。
一、右の資源の為めには、金剛峯寺の有力なる協力を求むると共に、現在以上に大規模の一宗の勧学財団を組織する事。
一、普く一宗に英才を求めて、海外留学等、諸種の方法を講じて、人物の養成に力を注ぐ事。
一、前項の金額は、大学に予科を置く場合に於ても、同様とする事。
一、基本財産は、設立認可後、三週間以内に銀行に供託すべき事(以下略)。
一、大学は、所要教員の半数以上の専任教員を置くを要する事(以下略)。」
(下線は引用者による)

 「(以下略)」とあるのは『百年史』のままを引用したためである。


4)「私立大学内規決定」(京都日出新聞、1919(大正8)年4月10日付)
 『立命館八十五年史資料集』第7集(立命館史編慕委員会、1990年8月)に「私立大学内規決定」(京都日出新聞、1919(大正8)年4月10日付)という新聞記事が収録されている(p.234)。記事は「大学設立認可内規」とはされていないが、「認可内規」を指すものと推測する。以下に全文を引用する。

  「私立大学内規決定
 新大学令に依る私立大学は基本財産額及び兼任教授の員数には是を各校共に法規を以て規定せず是に関する内規は予ねて文部省に於て審議中なりしが愈左の如く決定したるを以て中橋文相は此の旨各私立大学並に関係府県知事に通牒を発したり
一、財団法人が所有する事を要する私立大学の基本財産額は一箇の学部を置く大学に於ては五十万円とし数箇の学部を置く大学に於ては一箇の学部を加ふる毎に十万円を増加する事
一、前項の金額は大学に予科を置く場合に於ても同様とする事
一、基本財産は設立認可後三週間以内に銀行に供託すべき事但し特別の事情ある時は文部大臣の認可を受け六ヶ年以内の期間に於て分割供託する事を得る事
一、大学は所要教員の半数以上の専任教員を置くを要する事但し文部大臣の認可を受け設立後六ヶ年の猶予期間を置く事を認むる事
〔大正八年四月十日付〕」
(下線は引用者による)

 引用者補記:引用文の冒頭に「兼任教授の員数」とあるが、おそらくは「専任教授の員数」が正しいと推測する。


5)『教育年鑑』([大正9年版])(大日本文華株式会社出版部、1920(大正9)年6月)
 大学令制定当時の松浦専門学務局長に取材した記事と並んで、「私立大学認可内規」と題する記事がある。大学令第7条(基本財産の確保要件)、第17条(専任教員の確保)について「右の内規は大体左の如く決定したる由」として伝えている。5項目あるが、そのうち1と4を引用する。

  1 1学部即ち単科大学の基本財産は之を六十万円とす。而して更に1学部を加ふる毎に之れに十万円を加ふる事。
4 専任教授の相当員数は今後六ヶ年は必ずしも之を置く事を要せざる事。

(2、3は、基本財産として国庫債券、有価証券を供託する場合、国庫債券は額面どおり、有価証券は額面の8割とすること、また、基本財産は6年に分割して供託することを許す旨述べている。5では、設備について実地調査する旨述べている)。
(下線は引用者による)


 以上を見てくると、「私立大学認可内規」は変遷していることうかがわせる。吉川卓治氏は、1925年版より古い1919年版を紹介しており、呑海沙織氏は1926年ころのものを紹介している。『高野山大学百年史』は1919年の公文書を引用している。新聞報道ではあるが1919年4月のものを『京都日出新聞』が伝えている。また、1920年ころのもの(素案であったかもしれない)を『教育年鑑』は紹介している。

 実際、以下の例で示すように変遷している事項がある。
<供託金の例>
 『中央大学百年史』通史編上巻には、大学令による認可申請(1919(大正8)年12月)で、「供託金70万円ハ6ヶ年ニ分割供託シ第1年度(大正9年)乃至第5年度は各年11万7000円、第6年度は11万5000円トス」と申請した旨の記述がある(p.379)。同様に、『専修大学百年史』下巻に、1920(大正9)年11月の認可申請書が掲載され、60万円を6ヶ年で分割納付するとしている(p.1028)(1922年認可)。この6ヶ年は『教育年鑑』と照応する。
 してみると、供託金の納付方法は初期と数年後とでは大きく変化していることが確かめられた。
<専任教員の例>
 『専修大学百年史』下巻に、大学令による認可の条件として「認可後6ヶ年以内ニ学部ノ主要学科目担任教員ノ半数以上ハ専任教員トスルコト」(p.1049)との通牒(1922(大正11)年5月)を文部省から受けた旨掲載している。
 してみると、専任教員の配置は初期と数年後とで変化していたことをうかがわせる。
 なお、総理大臣、文部大臣あての「大学令ニ関スル建議」(日本弁護士協会、1919(大正8)年4月7日)中で、3点の要望をしている。その2点目には「専任教授ノ任設ニ付テハ相当ノ猶予ヲ与フルト同時ニ教授ノ兼否ニ拘ハラス専ラ其実力ト教育方法ノ適否トニ重キヲ置クコト」とある。このような建議が、文部省の指導の背景にあるのかもしれない。


4 法令や行政での「専任教員」という用語
 法令や行政での専任教員という用語はどのように使われていたのだろうか。『官報』で「専任教員」という用語は以下のように使われている。

1)初出は、1892(明治25)年4月16日号の外報のドイツ(プロシャ)で、  「孛国公立小学校法案」中の「第4条 凡そ単級小学校は児童80人を超過すべからず / 多級小学校は児童70人に附き専任教員を1名を置くを常例とす」である。この法案の続きが、同年4月19日同年4月25日に掲載され、それぞれに「専任教員」という用語が使われている。
2)次は、学事年報摘要の明治25年の栃木県の報告(1893年8月1日号)である。栃木県尋常中学校に設置された女子高等普通学科の条で、「<前略>専任教員3人あり本年中入学せし生徒は16人<後略>」とある。次も学事年報摘要の明治27年の福島県の報告(1896年3月6日号)で、小学校の項で専任教員という言葉を使っている。さらに、学事年報摘要の明治27年の宮崎県の報告(1896年7月10日号)でも専任教員という言葉を使っている。
3)「公立私立学校認定に関する規則」(1899(明治32)年文部省令第34号)で、徴兵令第13条、文官任用令第3条に関して、官立府県立中学校と同等以上として文部大臣の認定を受けようとする場合の申請書類のひとつとして「教員の氏名、資格、分担学科及専任兼任の区別」を記したものを定めている。また、毎年、「学校長及教員の氏名、資格、分担学科及専任兼任の区別」を報告することを定めている。
 文部省令で教員に関する規定のある専門学校(「公立私立専門学校規程」)、実業学校(「公立私立実業学校教員資格に関する規程」)を除いて、「其他の学校に在りては其学科程度、入学規則、編制及設備等中学校の規定に準し且其教員全数の三分の一以上は専任にして中学校の教員免許状を有するもの」(第2条)と定めている。
 なお、詳しい説明が『大日本百科辞書 法律大辞書』(第5冊)(同文館、1911(明治44)年)の「認定学校」の項にある。
4)「実業補修教育概要(その1)」(文部省実業学務局)(1925年7月15日号)で、実業補修教育の現状を報告するなかに専任教員という言葉を使っている。
5)「大学令」
 すでに引用したように条文中に「専任教員」という言葉がある。
6)北海道庁視学官、地方視学官、北海道庁視学及府県視学の任用」(昭和3年勅令第26号(1928年3月9日号))中で、北海道庁視学官、地方視学官の資格を定める条項で、「2年以上私立の大学の校長若は専任教員又は私立の高等学校、専門学校、<中略>の校長、<中略>2年以上高等学校教員免許状を有し若は専門学校令に依る教員の資格を有し私立の高等学校高等科、専門学校、実業専門学校、高等女学校高等科其の他文部大臣に於て之と同等と認むる学校の専任教員の職に在りたる者」とある。
(以上、下線は引用者による)。

 官報には「専任教員」という言葉の出現する記事は、これ以降、1930年代に3件、1940年代に3件がある。

 引用した記事の1)はプロシャの法案の紹介記事、2)と4)は報告記事、3)、5)、6)は法令である。


5 その他教育法規上の「教員」
 「高等学校令」(大正7年勅令389号)に、「高等学校の教員は文部大臣の授与したる高等学校教員免許状を有する者たることを要す但し文部大臣の定むる所に依り免許状を有せざる者を以て之に充つることを得」(第16条)と定めている。
 「高等学校規程」の第29条は教員数、および、専任教員と兼任教員の割合について規定している。当初(大正8年文部省令第8号)は、「教員数竝専任教員及兼任教員の割合は文部大臣の認可を受け之を定むべし」(第29条)とされたが、「1929年文部省令第32号」(1929年6月24日号)で、「教員数は文部大臣の認可を受けて之を定むべし但し兼任教員は教員数の半数を超ゆることを得ず」と改正されている。
(下線は引用者による)。
 「高等学校教員規程」(大正8年文部省令第10号)に、「高等学校専攻科教員に付ては免許状を要せず」(第12条)、「高等学校高等科に於ては教員数の三分の一以内を限り高等科免許状を有せざる者を以て教員に充つることを得」(第13条)、「高等学校尋常科に於ては教員数の三分の一以内を限り第3条の教員免許状を有せざる者を以て教員に充つることを得」(第17条)と定めている。なお、第3条は、高等学校高等科教員免許状および中学校教員免許状は、その科目に関して高等学校尋常科教員免許状の効力を持つと定める。

6 帝国大学官制
 官立大学では、「帝国大学官制」(明治26年勅令第83号)に、教授(奏任または勅任)、助教授(奏任)、助手(判任)の身分および任命形式を規定し、また、「専任教授」、「専任助教授」、「助手」の定員を定めている(図2)。この場合、国家公務員(天皇の官吏)であることからおのずと、それは「専任教員」ということになる。
 国家公務員であるから、ほかの学校などへの出講には帝国大学の許可を要した。たとえば、東京法学院(現・中央大学)への高橋作衛の出講時に帝国大学総長から文部大臣への報告がなされている(『中央大学史資料集』第3集所収「法科大学教授高橋作衛私立東京法学院へ出講許可に付報告案〔明治三十五年六月十三日〕」。

図2 「帝国大学官制」(明治26年勅令第83号)(一部)
「帝国大学官制」(明治26年勅令第83号)(一部)

 京都に帝国大学が設置、また、東京高等商業学校が大学に昇格すると、それぞれ「京都帝国大学官制」、「東京商科大学官制」などの官制が制定された。いずれも、「教授」、「助教授」、「助手」などの職員に置き、勅任、奏任、判任などを規定している。


II. 「教授」身分と呼称について
 明治末期から大正初期に「教授」という身分や呼称はどのように使われていたのだろうか。
 例として、学習院教授、東京高等商業学校(後の東京商科大学)教授、早稲田大学教授などを歴任した国際法学者の中村進午について調べた。

1)時局関係国際法外交論文集 : 中村進午博士追悼記念』(巌松堂、1940年)に中村の年譜が収録されている。
2)『官報』にも官吏としての辞令などが掲載されている。
3)『上智大学史資料集』第3集に「中村進午商学部長略歴」が掲載され、1929(昭和4)年に商学部長に就任していることがわかる。『上智大学史資料集』補遺中の「教員と担当科目(昭和3-23年)」の1931(昭和6)年度以降に「兼任講師」として中村の名前が記録され、1937(昭和12)年度から1939年度までの間は「専任教員」(商学部長)と記録されている。
4)『日本紳士録』(巌松堂)の各年版を見ると、第8版(明治35年発行)には、学習院教授、第10版(明治38年発行)には、学習院教授、東京高等商業学校教授、19版(大正3年発行)には、東京高等商業学校教授、早稲田大学教授法学科長、23版(大正8年発行)には、早大法科長、高商教授、第27版(大正11年発行)には商大教授、28版(大正年13年)には、商大、早大各教授、第30版(大正15年発行)には早大教授とある。
5)以上の他に、『早稲田大学創業録 : 三十年記念』(早稲田大学出版部、1913(大正2)年10月)(図1)、『早稲田大学一覧』大正3年(早稲田大学、1914(大正3)年2月)には、いずれも1913(大正2)年現在と推測する「早稲田大学講師及受持学科」、「講師及受持学科」が掲載されている。いずれも教員ごとに担当科目を掲げ、身分を表示している。2つの史料のいずれにも、中村は、政治経済学科では国際公法、国際法及国法実習の「教授」、法学科では科長であり、平時国際公法、独法の「教授」と表示されている。

 以下は年譜、『官報』、『上智大学史資料集』などからの抜粋である。

 1897(明治30)年1月 学習院教授に就任(同月非職⇒国費による留学)
 1898(明治31)年7月 学習院教授(復職)
 1900(明治33)年3月 留学終了⇒帰国
 1900(明治33)年6月 台湾協会学校教授に就任
 1902(明治35)年9月 東京高等商業学校教授に就任(学習院教授と兼任)
 1905(明治38)年9月 学習院教授を辞任、東京高等商業学校教授を辞任
 1906(明治39)年2月 東京高等商業学校教授に就任
 1907(明治40)年4月 早稲田大学教授に就任
 1908(明治41)年9月 立教大学教授に就任
 1910(明治43)年2月 早稲田大学法科長に就任
 1913(大正2)年現在 早稲田大学の教授として、国際公法、国際法及国法実習、平時国際公法、独法を担当
 1920(大正9)年4月 東京商科大学教授に就任(同大附属商学専門部教授を兼任)
   (東京高等商業学校が文部省直轄学校から大学に昇格し「東京商科大学」となる)
 1920(大正9)年4月 早稲田大学法科長を辞任
 1920(大正9)年5月 東京商科大学学生監に就任
 1922(大正11)年5月 国費による留学
 1922(大正11)年7月 東京商科大学学生監を免ず
 1924(大正13)年2月 東京商科大学附属高等専門部教授を免ず
 1924(大正13)年7月 早稲田大学専門部教授に就任
 1927(昭和2)年1月 早稲田大学附属早稲田専門学校教授に就任
 1929(昭和4)年11月 上智大学商学部長に就任(年譜には「上智大学教授に就任」とある)
 1930(昭和5)年10月 東京商科大学教授を辞任
 1930(昭和5)年11月 東京商科大学名誉教授

   [1930(昭和5)年 年譜には「上智大学商学部長に就任」とある]
 1935(昭和10)年9月 早稲田大学附属早稲田専門学校教授を辞任
 1939(昭和14)年10月 死去


 以上をまとめると、中村は、おそくとも1906(明治39)年2月に東京高等商業学校(後の東京商科大学)の教授に就任し、1930(昭和5)年10月に東京商科大学教授を辞任するまでの間に、1907(明治40)年4月には早稲田大学教授に就任、1908(明治41)年9月には立教大学教授に就任、1910(明治43)年2月には早稲田大学法科長に就任、また、1929(昭和4)年11月には上智大学商学部長に就任している(上智大学では「兼任講師」として授業を担当)。

 この例から、官立大学(学校)の教授が、私立学校(専門学校、大学)の教授として授業を担当し、あるいは、学部長として任を果たすことが制度上(法令上)許されていたことが確認できた。と同時に、「教授」称号は必ずしも「専任教員」を意味しないことも分かった。中村の例でいえば、東京高等商業学校の専任教員(官吏)として「教授」の身分とされ、私立学校では兼任教員として「教授」と呼んだということである。


III. 個別大学の例
1 早稲田大学
 すでに述べた 「II.「教授」身分と呼称について」で、早稲田大学の「教授」も務めた中村進午の例を挙げたが、早稲田大学全体に視野を広げ、以下を指摘する。
 すでに引用した『早稲田大学創業録 : 三十年記念』(1913年)には、1913(大正2)年現在と推測する「早稲田大学講師及受持学科」が掲載されている。教員ごとに担当科目を掲げ、身分(教授、助教、講師)を表示している。
 またこの記念誌には、1907(明治40)年に教授会を設置したこと、明治44年には教師80人余りを教授会議員にしたことが述べられている。
 教授会については、『早稲田大学百年史』の「総索引年表 > 法人略史および歴代役員 三」の項で1918(大正7)年の校規改正に触れ、「この時の改正により、教授会の構成員が大きく変り、また権限も拡大する方向で改められた。それまでの教授会は、総長および学長から嘱任された全学の教授会議員により構成されていたのが、各科部に教授会が認められたのに伴い、各科部の教授全員によって組織されることになった。つまり、総長および学長の恣意的な組織化が排除されることになったのである。審議事項も、学長からの提案に限られていたのが、教授および研究に関する件、学生の指導訓練に関する件、学長・維持員会からの諮問事項となり、審議権が明確化し、その範囲も拡大された。また、科部長の互選権、評議員の互選権が認められた。教授会の決議は、「学長が実行する」という規定から、「維持員会の決定により実行される」とされた。維持員会の発言力が増す形となっているが、この変更は、教授会が総長および学長から嘱任された教授会議員によって構成されるのではなくなったこと、従って教授会の性格が学長の諮問機関から各科部の議決機関としての性格を強めたことによるものであった。総じて、民主的運営の形が一段と整えられたと言える」とある(「総索引年表」p.111)(太字は引用者による)。

 以上からうかがえるのは、専門学校令による早稲田大学では、専任の教授ではない者を含む「教授」が教授会を構成し、教務、行政に関わる権能を有していたという事実である。

2 明治大学
 詳細は、今後投稿予定のブログ記事「第5回 ケーススタディー:博士論文『明治・大正期の私学における大学昇格準備過程に関する研究』から」を参照していただきたいが、小林丑三郎が1912(大正元年)年に政治経済科の「専任教員」として就任(初代政治経済科教頭でもあった)、1916(大正5)年に西村文太郎が法学部の「専任講師」に、1919(大正8)年に田中貢が商学部の「専任教授」に就任している。

図3 明治大学教授西村文太郎『経済学』(大正7年度)
明治大学教授西村文太郎君講述 大正7年度 経済学 明治大学出版部発行

 また、同ブログ記事に「明治大学教授早川弥三郎 大正8年度」と印刷された講義録を紹介する予定である。早川は、1894(明治27)年に司法官試補に、1900(明治33)年に台湾総督府法院判官に、1908年ころにはドイツに留学(1907年9月、休職)、1912(明治45)年に台湾総督府法院に復職して検察官に、1918(大正7)年6月に東京控訴院検事に任ぜられている。1921(大正10)年5月に勲四等・瑞宝章従四位に叙せられている。そして、同年1921年11月に弁護士登録をしている。中村進午が東京商科大学教授であり、早稲田大学教授でもあったことはすでに述べたが、早川も官職にあって、かつ、明治大学教授であったわけである。

3 専修大学
 『専修大学百年史』(専修大学出版局、1981年3月)には次のような記述がある。1900(明治33)年10月1日現在の生徒数、教員、経費について東京府への報告が掲載されている(pp.747-753)。前年度の授業料収入4,620円(収入の大半)に対して、手当支出は2,460円(支出の大半)である。手当とはどのような性質をもつものかについて『百年史』に説明はない。ちなみに、俸給として前年度444円とあるが、これは「書記給」とされ、「教員給」はナシとされている。教員に関する報告には、各人について「兼務個所」はナシとされている。『百年史』には、私立学校令により東京府に報告した1899(明治32)年現在の教員の数は23名であったとある(pp.745-746)。
 このような点に着目して専修大学のアーカイブスへの取材を行なえば、専任教員は存在しなかったが、実質的に「給与」を支払っていた専任教員に近い教員がいたと判明するのかもしれない。

4 宗教系大学
 私は、宗教系大学では次のような状態にもあったのではないかと想像するのだが、いかがであろうか。もちろん、以下で述べる教授や助教授が論文筆者の言う「専任教員」かどうかは不明だが、調査する意味はあるだろう。
 論文筆者が宗教系大学と区分している6大学は、そもそも「専任教員」という定義自体に吟味を要するものと考える。仏教系大学(その前身校も)の教師の一部は僧籍を持ち、宗教者として教鞭をとったのではないだろうか。キリスト教系もまたしかりである。

1)大正大学
 論文筆者は取り上げていない大正大学(注4)は、宗教大学(浄土宗)、天台宗大学(天台宗)、豊山大学(新義委真言宗豊山派)(いずれも専門学校令による大学名称を冠した学校)が連合して大学令により認可された(1926(大正15)年)。
 『大正大学五十年略史』(大正大学五十年史編纂委員会、1976年)の巻頭には、「天台宗大学教職員(明治30年後半頃)」とされる写真があり、24人が写っている。そのうち2人を除いて服装は法衣である。また、同書には、大正大学創立時の「教授及講師」が掲載されているが、その名から僧と推測する教員が40人以上掲げられている。豊山大学の章には、1911(明治44)年から1925(大正14)年までの4種の「教職員表」が掲載されている。そこには、教授、助教授、講師、嘱託との呼称で担当科目とともに教員名が掲載されている(pp.175-183)。1911(明治44)年10月現在の教職員表にある宗乗余乗担当の権田雷斧学長兼教授は、仏教学者、豊山派管長・豊山大学学長・大正大学学長を歴任した真言宗の僧である(注5)。また、宗乗余乗担当の宮崎慶淳教授は、おそらく、新長谷寺(目白不動別当新長谷寺)の住職で真言宗大学林の教員であった人物である(注6)。また、「豊山大学々則(大正8年7月改正)」が掲げられ、大学に職員を置くとして、学長、学監、教授、助教授、講師、幹事、書記と規定されている。

  注4: 論文筆者が大正大学について、専門学校令による学校で「大学」名を冠した学校でその後大学に昇格したと認識しているようであるが、論文では対象に取り上げていない。詳しくは別のブログ記事「第2回 研究対象候補校選定:博士論文『明治・大正期の私学における大学昇格準備過程に関する研究』」を参照いただきたい。
注5: 権田雷斧については、ウェブ版『精選版 日本国語大辞典』による。
注6: 宮崎慶淳については、『風俗画報』臨時増刊第356号(明治40年1月25日)の14ページに「雲照律師の法嗣たる新長谷寺住職宮崎慶淳師は、真言宗大学林勤務の余暇<後略>」とある。


2)立正大学
 「翻刻本法寺所蔵「日蓮宗大学林関係資料」学則・関連法規篇」(『立正大学史紀要』創刊号(2016(平成28)年3月))に、1904(明治37)年4月の日蓮宗大学林の専門学校令による認可時の資料が紹介されている。
 そのなかの「日蓮宗大学林学則改正届並御聞置願」に「日蓮宗大学林学則」があり、大学林に職員を置くとして(第51条)、林長、教頭、教授、助教授、講師、舎監、会計、書記、校医と規定されている。
 また、教員採用の文部大臣認可書(1904(明治37)年4月2日付)には、18人の人物が列記されている。そのうち、名から僧籍を持つと推測する者が10人以上掲げられている。


 以上、明治後期から大正初めの時期の「専任教員」、「教授」など教員に関わる史料を紹介し、コメントを付した。

 論文筆者は、このような当時の現実について、どのような認識をもったのであろうか。大学令第17条「公立及私立ノ大学ニハ相当員数ノ専任教員ヲ置クヘシ」の専任教員という名辞にこだわるあまり、当時の実態について「ごく少数の専門学校を除いて専任教員はいなかった」という、0か1かの陥穽にはまったのではないだろうか。

 私立学校が教授、助教授などの名辞を持つ身分の呼称を使ったのは、もちろん帝国大学官制に定める教授、助教授などに影響を受けたものであろうが、それ以外の講師とは何らかの差異があったはずである。それは、すでに述べたように大学昇格以前に、早稲田大学には「教授会」を構成する「教授」という身分があったこと、明治大学には専任と推測する「教授」が存在したことで明らかだ。
 また、性格は異なるが、仏教系の学校には僧籍を持ちながら教師に就く形態があったことは、現代でいう専任教員(たとえば大学設置基準の運用ルール)を相対化する。つまり、専任教員かどうかという基準、あるいは、教員という範疇では測ることのできない「教師」が存在したのである。
 なお、私立学校を取り上げる際には、教員と同時に次世代の教員養成(卒業生の留学制度など)への取り組みの違いも大きな視点である。
 さらに付言すると、仏教を背景とする学校では教員(僧侶)の海外留学を、「大学昇格」とは別の次元で行なっていた。このことも視野に入れると、一律に「日本近代私立大学」という西欧に追いつくことという面だけではない私立学校の近代化が見えるのではないだろうか。