手元に、クロス板紙に "UNIVERSITY CHUO | J. | 1.ST CLASS | A REGISTER OF NAMES" と金文字(箔押し)で表示された名簿がある(|は改行を表す)。綴じひもで綴じられ、中身はもともと存在したであろう表紙(および標題紙もか?)がなく、奥付に「東京中央大学法科大学第一学年級会発行部」発行とある。
構成は以下のとおりである。
1)学長、理事、監事、教務主任、教員の写真 3葉9人
2)校舎の写真 1葉2景
3)中央大学校歌 校旗、歌詞
4)法科応援歌(その1) あゝ武蔵に燃る日の・・・ (アムール河譜)
5)法科応援歌(その2) 城西一里中野なる・・・ (ワシントン譜)
6)学長以下教員、理事、監事、教務主任の名簿
法科大学第1学年担任講師の名簿
法科大学第1学年級会委員の名簿
7)東京中央大学法科大学第一学年学友会員(イロハ順)(3ページから35ページ)
850人が出身地とともに掲載されている。
8)奥付
大正10年11月12日発行許可
発行所 東京中央大学法科大学第一学年級会発行部
発行兼編輯者 真鍋寅太
上部に横書きで 非売品不許複製
発行された1921(大正10)年11月は、前年の1920(大正9)年に大学令による「大学」として認可された翌年である。それまでは、専門学校令による中央大学であったものが、大学令によって位置付けられて大学に「昇格」した年の翌年である。
事実上、それまでの「大学部」が大学令による「大学」に、「予科」が大学令による「予科」に衣替えしたわけである。そして、それまでの「専門部」はそのまま専門学校令による「専門部」のままとしたわけである(注1)。
注1: 以下の表1(制度)に示すように、専門部の学則は、大学令による中央大学の認可の時点では改正されていないようだ。1922(大正11)年12月の学則改正申請には「先般大学令ニ拠ル学部学則ヲ相定メ候ニ付テハ右学則ト併行候様専門部ノ学則改正ノ必要ノ生シタルニ因レリ」と改正理由が示されている。一方、1919年12月の大学令による大学の設置申請には、以下の表1(制度)に示すように学則が添付されている。 |
この間の経過を、『官報』、『中央大学百年史』史料編(『百年史』史料編)、『中央大学史資料集』(資料集)、『ウェブ版中央大学年表』(年表)から作成したのが以下の表1(制度)である。
表1 制度
時 | 事項 | 備考 |
1903(明治36)年8月 | 社団法人東京法学院大学定款認可(5日)、同学則認可(12日) | 年表 |
1903(明治36)年8月13日 | 私立東京法学院ヲ私立東京法学院大学ト改称シ専門学校令ニ依ルノ件認可 | 官報 |
1903(明治36)年8月27日 | 私立東京法学院大学ニ対スル徴兵令第13条ニ依ル認定ノ効力ハ専門科別科生及ヒ研究科別科生ニ及ハス(文部省告示)(注2) | 官報 |
1905(明治38)年8月 | 私立東京法学院大学の私立中央大学への改称の件認可 | 官報 |
1919(大正8)年5月 | 社団法人私立中央大学解散 | 官報 |
1919(大正8)年7月7日 | 財団法人中央大学寄附行為認可 | 『百年史』史料編937ページ |
1919(大正8)年7月17日 | 財団法人中央大学登記 (目的:法律政治経済商業ニ関スル専門ノ学術及予備ノ学術ヲ教授スル大学並ニ之ニ附属スル学校ヲ経営スルヲ以テ目的トス) |
官報 |
1919(大正8)年12月 | 大学令による中央大学設置申請 | 『資料集』第1集137ページ;申請に添付した学則は資料集に採録されていない |
1920(大正9)年4月 | 大学令により財団法人中央大学が設置する中央大学認可 | 官報 |
1920(大正9)年12月 | 中央大学学部・予科について、徴兵令第13条第1項、第2項による中学校の学科程度と同等以上と認定(陸軍省・文部省告示第9号) | 官報 |
1922(大正11)年12月 | 専門部学則改正認可申請(翌1923年3月認可) | 『資料集』第2集7ページ、『百年史』史料編1054ページ |
注2: その後、東京法学院大学が補修生制度、傍聴生制度、外国語専修科などを設置したが、そのたびに徴兵令の適用の可否について文部省告示で明示された。例:明治38年5月20日の第95号告示。 |
名簿を見ながらいくつかの疑問が涌いた。
1)850人が掲載さているがいずれの所属か?。
2)名簿作成の目的は何か?。
3)どうして制度上存在しない「中央大学法科大学」という名称を使ったのか?。
4)応援歌に、アムール河譜、ワシントン譜とあるのは何か?
1)850人が掲載さているがいずれの所属か?。
名簿には850人の氏名と出身地が掲載されている。奥付には「東京中央大学法科大学第一学年級会発行部」とありこの表現では所属がわからない。
<資料 在学生数、入学者数、卒業生数>に当時の数字をまとめた。この名簿の入学年である1921(大正10)年を眺めてみても、850人に相当する所属が見いだせない。
強いて挙げれば、表3の1921年の予科(985人)、表4の1921年度の入学者数(2571人)である。しかし、表3の予科は法、経済、商を合算した数である。表4の入学者数は、『東京市統計年表』第20回には大学令による大学との注記があり、専門部と明示した人数の記載はない。また、予科についても触れられていない。
したがって、推測するにも材料不足である。
傍証として「永山忠則」について述べる。
この名簿の「法科大学第1学年級会委員の名簿」に永山忠則の名前がある。中央大学評議員会議長を学園紛争期に務めた永山忠則と同姓同名であることから、永山の伝記である土屋達彦『ゆずり葉の記 : 永山忠則伝』(永山忠則伝記刊行会、1986年5月)を調べた。
「第2章 村長から県議へ」でいくつか中央大学との関係に触れている。まず、永山自身のメモに「夜は中央大学の夜間部法科に通い<後略>。夜は夜間部法科専門部に行きましたが、弁護士になるには、予備試験をパスしなくてはならぬことがわかりました。<中略>昼は予科、夜は法科専門部に通学することにしました<後略>」(pp.49-50)とあるという。著者は「その年[引用者注:1924(大正13)年]の3月、忠則は中大専門部卒業と同時に決めた」(p.56)としている。永山自身のメモに「私は中大予科を出ているから、英語教師の資格があるので、英語を担当し<後略>」(p.58)とあるという。
また、巻末の「年表」には「大正10年4月 東京市西町尋常小学校の訓導に(-10月)。中央大学法科専門部に通う。その後、同大予科に入学」、「大正11年3月 中央大学予科を卒業」、「大正13年3月 中央大学法科専門部を卒業」、「昭和43年3月 中央大学評議員会議長に選任される」との記事がある。
さらに、伝記には出生地として広島県比婆郡敷信村とあり(p.15、「年表」冒頭)、今回取り上げた名簿の出身地欄にも広島県比婆郡敷信村板橋とあることから同一人物と判断する。
この永山の伝記から、この名簿は、1921(大正10)年入学の専門部法科の名簿と推測して間違いないようである。昼間部法科と夜間部法科合同の名簿なのかもしれない。
表5(卒業式と卒業生数)をみると1924年の専門部法科の卒業は241人とある。入学時には少なくとも850人いた学生が、標準修業年限で卒業したのは28%以下であったとわかる。
余談だが、入学時の学生数が卒業時に減少していることは、教育密度(教員一人当たりの学生数)が高くなっていったということである。一方、財政面から見ると、定員どおりに入学者を受け入れても、財政見積もりに大きなぶれが生じていたということになる。どのような見積もりをしていたのだろうか、取り上げてみたいテーマだが資料が圧倒的に少ない。。
2)名簿作成の目的
3)制度上存在しない「中央大学法科大学」という名称
この2つは相互に関連していると推測する。
冒頭に書いたが、もともと存在したであろう表紙(および標題紙もか?)が欠落している(破かれた跡がある)。この欠落部分に目的が書かれていたのかもしれない。
以下はあくまで推測である。
「中央大学法科大学」という名称を使う理由のひとつのヒントは、大学令に基づく「大学」となった中央大学と、専門学校令に基づく「中央大学専門部」とのステータスの差ではないかと考える。
すでに書いたが、1920(大正9年)年に大学令により中央大学は「大学」に昇格した(帝国大学と制度上は肩を並べた)。1903(明治36)年に専門学校令により認可された「東京法学院大学」が、1905(明治38)年に名称を中央大学に変更した。そして、1920年を境に「中央大学」の意味内容が変化したわけである。
前々年の1919年に入学した学生は大学部と専門部の違いはあっても、同じ中央大学(専門学校)の学生である。しかし、1920年以降の入学生は、制度としての大学の学生、制度としての専門学校の学生(正確には「生徒」といわれた)という国家制度上の違いを背負うことになった。
設置の根拠法が異なれば、異なる名称を付与するのが通例ではないだろうか。したがって、この場合、財団法人中央大学としては、「中央大学」、「中央大学専門学校」が順当な選択ではないだろうか。しかし、多くの法律専門学校がそうであったように、そうはしなかった。曖昧であることが法人にとっても都合がよかったのかもしれない。「中大法科」という俗称は、大学も専門学校も含めた「中央大学」を意味する方がよかったのかもしれない。
また、「法科大学」と名乗るのは、以下の事情もあるのではないだろうか。1919(大正8)年に東京帝国大学法科大学が東京帝国大学法学部に改称されている。法科大学と名乗る機関がなくなり、「我こそは法科大学である」という気概のようなものを私は感じるのである。
以上、ほとんど根拠のない感想程度のものである。
以下は、2023年11月10日の追記である。
偶然、国立国会図書館所蔵の雑誌『時事評論』第7巻第12号(1912(大正1)年9月)に掲載された中央大学の学生募集広告に出会った。そこには、法科大学、経済科大学、商科大学とある。
今回取り上げた名簿は1921(大正10)年の発行であるので、大正初年のこの募集広告とは20年の時間の差がある。したがって、大正初年から継続して法科大学などといった呼称を大学が使っていたかは不明である。しかし、ある時期、大学自身が法科大学などの呼称を使っていたことは確かだ。
2023年11月10日の追記終わり。
4)応援歌
まず、「アムール河譜」について。
(1)アムール河をテーマとする楽曲
東京大学ウェブサイトに「第一高等学校のホームページ」というページがあり、「寮歌集」ページに「第十一回紀念祭寮歌 《アムール川の》」が掲載されている。
また、「長岡高校昭和50年卒」ページの「長岡高校応援歌物語・第五章『応援歌(其の四)』」に「この曲は知らない人がいないと言っても過言ではないほど有名である。大部分の人は「聞け万国の労働者・・・」で始まる『メーデーの歌』を思い出すと思うが、軍歌『歩兵の本領』にも同じ旋律が使われている。実は、明治34年に旧制第一高等学校の第11回記念祭寮歌として作られた『アムール河の流血や』が元歌である」とある。
また、国立国会図書館が運営している「レファレンス協同データベース」の「歌い出しが「聞け万国の労働者」というメーデーで歌われていた歌について、歌詞は何番まであるのか。また、その歴史についても知りたい」の記事に、次のとおり情報があった。『日本流行歌史』上(古茂田信男〔ほか〕編,社会思想社,1994年9月)に、「1920年(大正9)5月2日、わが国最初のメーデーが上野公演[ママ]で開かれた。メーデー歌「聞け万国の労働者」は、22年(大正11)の第3回メーデーからうたわれ、作詞者は長い間秋田雨雀と伝えられていたが、戦後、当時池貝鉄工の労働者であった大場勇の作であることが明らかになった。曲は一高寮歌の「アムール川の流血や」を転用したものである」との記述あり」。
こうしてみると、当時はやっていた旧制第一高等学校の第11回記念祭寮歌として作られた『アムール河の流血や』(あるいは「アムール川の流血や」)(1901(明治34)年)の曲にオリジナルの応援歌の歌詞を載せたもの(替歌)であったことがわかった。
YouTubeに「アムール川の流血や 旧制第一高等学校の寮歌を歌う緑咲香澄」として掲載されてる(2023年7月19日閲覧)。
次に「ワシントン譜」について。
(2)ワシントンをテーマとする楽曲
共益商社楽器店編『唱歌教科書』教師用 巻4(共益商社楽器店、明35-40)という出版物に「ワシントン」という唱歌が歌詞、楽譜ともに掲載されている。
また、『世界音楽全集』第19巻(春秋社、昭和6)に「ワシントン」が歌詞、楽譜ともに掲載されている。NDL所蔵本は前半が欠ページで後半は部分が確認できる。『唱歌教科書』教師用 巻4の歌詞、楽譜と同様である。
YouTubeに「ワシントン 作詞者未詳・北村季晴作曲 Washington」として掲載されている(2023年7月19日閲覧)。
この応援歌も替歌であることがわかった。
さて、この名簿への疑問に一応の解を出すことができた。
<資料 在学生数、入学者数、卒業生数>
当時の在学生数などを各種の資料からまとめた。
当時の年度ごとの入学者数を『中央大学百年史』通史編の下巻に掲載の「表4 中央大学の教員、学生・生徒数の趨勢」(p.31)からまとめたのが表2(在学生数、入学者数(『日本帝国文部省年報』))である。出所は『日本帝国文部省年報』とある。
表3(在学生数(『財団法人中央大学評議会議事録』ほかから作成))は、在学生数を『中央大学百年史』通史編の下巻に掲載の「表5 1920年-1926年の学生数(学長報告)」(p.37)からまとめたものである。出所は「『財団法人中央大学評議会議事録』ほかから作成」とある。
表4(在学生数など(『東京市統計年表』))は、『東京市統計年表』から私が作成した。この統計年表はNDLデジタルコレクションで公開されている。1917-1918年は「第16回」であり、以降回次を追っている。
表5(卒業式と卒業生数)は、ウェブ版中央大学年表から、この名簿の入学生が学部、専門部であるならば標準修業年の3年、予科であるならば修業年限の2年を終えて卒業した年の前後数年をまとめたものである。
表2 在学生数、入学者数(『日本帝国文部省年報』)
年度 | 在学生数(学生) | 在学生数(生徒) | 入学者数(学生) | 入学者数(生徒) |
1920 | 48 | 182 | 45 | 257 |
1921 | 182 | 446 | 346 | 387 |
1922 | 505 | 698 | 354 | 357 |
1923 | 526 | 884 | 183 | 436 |
1924 | 674 | 864 | 193 | 542 |
1925 | 623 | 939 | 272 | 555 |
表3 在学生数(『財団法人中央大学評議会議事録』ほかから作成)
日付は、中央大学評議会の開催日。学生数の基準日ではないことに注意を要する。
日付 | 学部(法) | 学部(経済) | 学部(商) | 専門部(法) | 専門部(経済) | 専門部(商) | 大学予科 |
1920年2月25日 | 140 | 132 | 158 | 1535 | 874 | 108 | 454 |
1921年5月30日 | 1700 | 1452 | 1062 | 学部に合算 | 学部に合算 | 学部に合算 | 985 |
1924年2月29日 | 334 | 127 | 171 | 1063 | 1166 | 642 | 884 |
表4 在学生数など(『東京市統計年表』)
年 | 在籍者(本科) | 在籍者(予科) | 在籍者(別科) | 卒業者(本科) | 卒業者(予科) | 卒業者(別科) |
1917-1918(第16回) | 665 | 513 | 737 | 99 | 102 | 132 |
1918-1919 | 393 | 536 | 1187 | 64 | 118 | 227 |
1919-1920 | 844 | 402 | 909 | 207 | 20 | 238 |
年 | 在籍者(学生及生徒) | 入学志願者 | 入学者 | 卒業者 |
1920-1921 | 3843 | 3545 | 3545 | 491 |
1921-1922 | 4622 | 2571 | 2571 | 760 |
専門部
年 | 生徒 | 卒業者 | 入学志願者 | 入学者 |
1922-1923(注3) | ? | ? | ? | ? |
1923-1924 | 2978 | 729 | 2175 | 2175 |
1924-1925 | 2963 | 700 | 2138 | 2138 |
注3: 1922-1923年の「?」は、関東大震災によって資料を焼失し、中央大学は東京市に回答していないためと『東京市統計年表』に注記されている。 |
大学(予科を除く)
年 | 学生 | 卒業者 | 入学志願者 | 入学者 |
1922-1923(注4) | ? | ? | ? | ? |
1923-1924 | 526 | 116 | 185 | 185 |
1924-1925 | 670 | 292 | 192 | 192 |
注4: 1922-1923年の「?」は、関東大震災によって資料を焼失し、中央大学は東京市に回答していないため『東京市統計年表』に注記されている。 |
表5 卒業式と卒業生数
卒業式 | 卒業生の詳細 |
1922(大正11)年4月 | 第37回卒業生に卒業証書交付(卒業期を4月に変更) 卒業生-大学部法科26人、専門部法科287人、大学部経済科26人、専門部経済科186人、大学部商科36人、専門部商科10人、予科204人、学部学科不明89人 注:1919年から4月入学に変更。 |
1923(大正12)年4月 | 第38回卒業式を講堂で挙行 卒業生-法学部22人、経済学部6人、商学部16人、専門部法学科263人、専門部経済学科280人、専門部商学科197人、予科185人 |
1924(大正13)年4月 この名簿(1921年入学)に該当 |
第39回卒業式を講堂で挙行 卒業生-法学部51人、経済学部11人、商学部58人、専門部法学科241人、専門部経済学科300人、専門部商学科216人、予科198人 |
1925(大正14)年4月 | 第40回卒業式を講堂で挙行 卒業生-法学部148人、経済学部77人、商学部78人、専門部法学科285人、専門部経済学科303人、専門部商学科156人、予科252人 |
1926(大正15)年4月 | 第41回卒業式を講堂で挙行 卒業生-法学部114人、経済学部28人、商学部23人、専門部法学科294人、専門部経済学科281人、専門部商学科112人、予科243人 |
セル | セル |
1926年を除き法学部は2桁、専門部法科はいずれの年も3桁である。