2023年2月3日にこの出版物について「外形編」として投稿した。今回は「内容編」を投稿する。
 本書が取り上げているのは、筑波大、東京大、慶応大、立教大、青山学院大、学習院大、法政大、明治大、早稲田大、中央大(掲載順)の10大学である。
小林和幸編『東京10大学の150年史』(筑摩叢書、2023年1月)

 本書の「はじめに」に、「本書は、明治初年に創設された学校を起源に持つ、10大学の歴史とそれぞれの大学における歴史編纂について紹介し、また学校の歴史を編纂することの意義について考えることを目的」とするとある。
 そして、年史編纂では、公文書などの公的記録、関係者の個人資料など、「学校内外の多様な資料を閲覧・利用して行われる。収集される資料からは、一学校の歴史に留まらない日本の近現代史全般に関わる史料が見いだされることもある」として、(1)創設者や支援者は日本近代史上の重要人物であることが多い、(2)教員や卒業生が政治・外交・経済・社会事業、芸術などに顕著な業績を残した場合、学校史編纂の過程で関係資料を収集していれば、近現代史研究における史料的インフラ整備となる、(3)創設の目的は、官吏・教員・法律の専門家などの養成や、宗教を基盤とする人格教育である。そのことから学校史研究は関連する分野が幅広く、学校史編纂の過程で収集した資料や成果は、近現代史研究の発展に寄与する、と指摘している。
 「はじめに」の終盤では、「編者としては、各大学の校友をはじめ、大学などの受験を控えた人たちやそのご家族の手に取ってもらえることを願っている」とし、「各学校の歴史に根差した違いや、各学校が何を目指そうとしているか知るよすがとなると思う。また受験を考える方々が各学校の建学の精神を理解して、最も惹かれる学校を主体的に選んで入学するようになるのであれば、それに勝る喜びはない」と述べている。

 本書は、各大学について、その大学の歴史、年史編纂事業の2つで構成され、「各大学に所属する日本近現代史研究者による」(「はじめに」p.11)ものである。

<各大学のページ構成と執筆者>         敬称略

大学名 歴史のページ数 年史編纂事業のページ数 執筆者
筑波大学 15 3強 中野目 徹(筑波大人文科学系教授)
東京大学 16 4強 鈴木 淳(東京大大学院人文社会系研究科教授)
慶應義塾大学 5強 10強 小河原 正道(慶應義塾大法学部教授)
立教大学 10強 5強 太田 久元(立教大立教学院史資料センター助教)
青山学院大学 15 3強 小林 和幸(青山学院大文学部教授・青山学院大青山学院史研究所所長)
学習院大学 15強 1 千葉 功(学習院大文学部教授)
法政大学 15強 3 内藤 一成(法政大文学部准教授)
明治大学 16 3 落合 弘樹(明治大文学部教授)
早稲田大学 13強 7強 真辺 将之(早稲田大文学学術院教授・早稲田大歴史館副館長)
中央大学 15強 3 宮間 純一(中央大文学部教授)

 

 以下は、この本をこんなふうに読んだという読書記録である。

 いくつかの切り口で「内容編」を構成する。

 大きく3つの観点である。
 まず歴史上の大きなトピック、2つ目は女子教育、最後は記述の特徴(重点内容)である。

 なお、本書の「はじめに」にある、「それぞれの大学における歴史編纂」(年史編纂事業)に関しては、大学によって個別の事情があるので、この記事では取り上げない。
 

1 歴史上の大きなトピック

 大学は、国家、社会などの外部環境、内部環境に対応してきた。100年以上の歴史を有する大学で共通するのは、創立、アジア太平洋戦争、学園紛争であろう。そこで、この観点からまとめた。

1)創立

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 国立(官立)学校から出発した筑波大、東京大は創立に関して「主体的」に述べることは難しいかもしれない。選んだわけではないからである。
 したがって、この項目は他の2点とは色彩を同じくしない。

(1)筑波大
 1872年の師範学校の開設が筑波大の淵源であるが、「師範学校から東京師範学校へ」という節を設けている。
 学校設置の経緯については「はじめに」で、1872年の学制の制定、「それにさきだち文部省は、東京に師範学校を設けて新たに開設される小学校の教員養成を担わせることにしたのである。」と述べている(pp.15-16)。なお、草創期の「法人文書(かつての公文書)の所在は確認されていない。」と述べている(p.17)。


(2)東京大
 「東京大学の成立」という節を設けている。
 1869年、旧幕府の昌平坂学問所、蕃書調所を起源とする開成所、種痘所を起源とする医学所を継承して、昌平学校、開成学校、医学校としていた明治政府は「大学」」を発足させた。1871年に「大学」は廃止され、文部省が置かれた。1872年の学制公布のもとで、第一大学区医学校などを設置、1873年に東京医学校と開成学校となった。
 1877年、「東京医学校と開成学校の合併により東京大学が創設される」。

(3)慶応大
 「慶応義塾の創立」という節を設けている。
 1858年の福沢諭吉による蘭学塾開設が創設年で、1868年に慶應義塾と命名。幕臣であった福沢が幕府に見切りをつけ、同年山口良蔵宛の手紙で、「国家を治めるには知識が必要であるとし、これを育てるには「学校ヲ設ケテ人ヲ教ル」ほかなく、自分は学校を開いて日夜生徒とともに勉強しており、「此塾小ナリト雖モ、開成所ヲ除クトキ者江戸第一等ナリ。然ハ則日本第一等乎」と記している」(p.74)。
 「大学部設置から現代まで」の節で、1896年の福沢の演説を紹介している。「慶応義塾を一つの学塾に止めることなく、その目的は日本国中における「気品の泉源」「智徳の模範」たらんとするところにあり、ただ口で理想を言うだけでなく、実践躬行して、「全社会の指導者」となれと語っている。<中略>今日、「気品の泉源」「智徳の模範」「全社会の指導者」「独立自尊」といった精神が、義塾の建学の精神とされる所以である。」(p.77)。

(4)立教大
 「創立者C. M. ウィリアムズと立教学校の設立」という節を設けている。
  ウィリアムズが東京で私塾を開設した1874年が創立で、校名を「立教」とした。1880年代、「基督教に基づく6年制の学校で英学を中心に教養科目を設置」、その後、1891年の「私立立教学校規則」には、「立教学校教育ノ旨趣」に「本校ハ実ニ普通教育ニ従事スル、一私立学校」とされた。
 「立教の日本化改革と文部省訓令第12号問題」の節で、草創期の重大なこととして、1899年の文部省訓令第12号をとりあげている。訓令では、「官公立学校、文部省に認可された私立学校での課程内外での宗教教育、宗教儀式が禁止」された。これを承けて、東京府に陳情を行なう。それは、立教中学ではキリスト教教育を行なわない、キリスト教教育は東京英語専修学校、立教専修学校と寄宿舎で行なう、教会での平日礼拝の義務化、中学校長を寄宿舎でのキリスト教教育の責任者とするもので、了承された。「立教は中学校認可を返上し課程内でのキリスト教教育を維持した他校とは異なる独自の対応を取った」と述べている(p.104)。

(5)青山学院大
 冒頭、「メソジスト監督協会から派遣された宣教師たちと、その強い意志に共鳴した先駆的日本人の協力によって設立された3つの学校を源流とする」とあり、「女子小学校」、「耕教学舎」(後の東京英学校)、「美會神学校」をそれぞれ節として述べている。東京英学校と美會神学校が合同して1883年に東京英和学校を開校、その後、1894年に青山学院と改称した。
 立教大と同様、「文部省訓令第12号」という節を設け、「青山学院は、同志社・明治学院などと共に、徴兵令の猶予を受ける特典と高等学校入学資格を断念してでも、キリスト教主義教育を維持するため、学制上の中学を廃する決断をする。」、そしてキリスト教主義を維持しながら「特典」を獲得する運動を展開。

(6)学習院大
 「学習院の創設」、「華族女学校の創設と学習院の展開」という連続する節を設けている。
 1877年の私立学校としての創設までの前史を述べ、1884年の官立学校実現、1885年の華族修学規則によって、「学齢期の華族男子子弟は学習院入学が義務づけられる」と述べている。1890年の「学習院学則」で「学習院ハ専ラ天皇陛下ノ聖旨ニ基キ、華族ノ男子ニ華族ニ相当セル教育ヲ施ス所トス」とされた。そして、初等学科・中等学科・高等学科・別科・陸軍予科・海軍予科・撰科から構成された。

(7)法政大
 冒頭、「法政大学も数々の苦難を乗りこえてきた歴史を有する。しかし、ながら、これらを限られた紙幅で網羅することは不可能である。ゆえに本稿では、叙述の重心を東京法学社から旧制の法政大学の成立」におくと述べている。
 「東京法学社の創立」の節で、1880年前後の東京に、私立法律学校が次々と誕生した理由について、「近代的な法制度の確立が国家的急務とされるなか、1880年7月に刑法・治罪法が公布され、翌月には最初の代言人試験が実施されるなど、この時期、法律にかかわる知識や技能への需要が高まっていたことが大きい。」とある。そして、東京法学社は講法局(学校)、代言局(法律事務所;代言人育成を含む)を設けたと述べている。

(8)明治大
 「三人の創立者」、「明治法律学校の成立-仏法学の競合と法典論争」、「組織の拡充」の連続する3つの節を設けている。
 3人の創立者の経歴を紹介し、創立の経過を述べている。1880年「12月に「法理を講究し其真諦を拡張」することを標榜して明治法律学校が成立する」(p.208)。背景として、「1880(明治13)年から代言人試験が実施される。私立学校が短期間にあいついで創設されたのは、代言人試験合格を志す青年が増えたためである。」(p.209)と紹介している。
 1903年、専門学校令により明治大学と改称したことを紹介し、創立者のひとりである岸本辰雄の「明治大学の主義」という演説を引用している。「「学問の独立、自由を保ち自治の精神を養ひ、人格の完成を謀ること」が建学の精神であると唱えた。また、教育方針については「徹頭徹尾開発主義なり、自由討究主義なり」と、自主性の育成と『個』の成長を訴えている。」(pp.211-212)。

(9)早稲田大
 「創設者大隈重信と明治14年の政変」、「学校の実務担当者」、「学問の独立」の連続する3つの節を設けている。
 大隈が政府に憲法意見書を提出したことをきっかけとして政府から追放された。「政変後も大隈は、政党政治の確立という理念を持ち続け、立憲政治を担う政党や人材の育成を急務と考えるようになる。そして政変で下野した官僚や都下の知識人を中心に1882年4月に立憲改進党を結成し、ついで、学校を設立するに至るのである。」(p.226)。
 開校式での小野梓の演説「学問の独立」について、2つの意味があると紹介。第1は、外国の学問からの日本の学問の独立であり、「東京専門学校は、高等な学問を、外国語ではなく、日本語を用いて教授するという方法を打ち出した」。第2は、政治権力からの学問の独立である。第2点について、「在籍する学生たちは、この政治権力からの独立という理念を、改進党員の養成機関ではないことの宣言というよりも、時の政府からの圧迫に屈しない反骨精神の表現として受け取ることが多く、「学問の独立」の語はこの意味を付加して、後年に受け継がれていくことになる。」(pp.229-230)。
 なお、1902年の創立20周年記念式/早稲田大学開校式での高田早苗の「実用的人物」、「模範的国民」の育成という演説を紹介し、後の「学問の独立」、「学問の活用」、「模範国民」という大学の教旨につながったと述べている。

(10)中央大 
 「英吉利法律学校から中央大学へ」、「英吉利法律学校の創設」、「「實地應用ノ素ヲ養フ」」の3つの節で述べている。
 「1885(明治15)年、中央大学の前身にあたる英吉利法律学校が、イギリス法を本格的に教える教育機関として神田錦町(現千代田区)に創設された」。「日本が、諸外国から「文明国」として認められるためには、欧米諸国と同水準の法制度が必要だと認識されていた。制度だけではなく、それを運用できる裁判官・検察官・弁護士といった専門家の要請も求められる。私立の法律学校は、そうした社会的要請を背景に設立されたのである。」。(以上p.247)。
 1885年に東京府あて提出した「私立学校設置願」には「「本校設置ノ目的」には、日本語で英吉利法律学を教授し、「其実地応用ヲ習練セシムル」と記されている。あわせて、「教授法ノ要旨」には「英米法律ノ全科ヲ修メシメ、其実地応用ヲ習練セシメ、以テ法律ヲ業トスル者ノ学力ヲ養成スル」ことが掲げられた。」。(以上pp.250-251)。
 「どの大学にも「建学の精神」とされる理念があるが、中央大学の場合はこの「實地應用ノ素ヲ養フ」(中央大学では旧字を使用)が選ばれている。」。1885年7月の学生募集の新聞広告には、「日本には英米法を専門的に教授する学校が見当たらず、「實地應用ノ素ヲ養フ」教育機関が存在しないことを嘆いて英吉利法律学校を創立したと謳われている。」。(以上pp.254-255)
 

2)アジア太平洋戦争

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(1)筑波大
 ほとんど触れていない。1文があるだけである。
 「開学後ようやく成果が出はじめた昭和10年代になると、教官や学生が出生して戦死、行方不明となったり、1945年5月の空襲で本館と東館が焼失する被害を受けるなど、文理大は時代の大きなうねりに翻弄されることとなった。」(p.24)。

(2)東京大
 「戦争と東京帝国大学」という節を設けている(pp.51-53)。
 1877年の東京大学創設時からの軍と大学との密接な関係を述べ、後半でアジア太平洋戦争に関する記述が現れる。1943年の在学中の徴集猶予の廃止、昭和期の卒業・在籍者の戦没者の数の紹介、軍の要請による第二工学部の設置が取り上げられてる。
 なお、第二工学部に関する記述に「研究も軍からの委託によるものが増加したが、軍の側で大学に研究を委託する実務の多くは、東京帝国大学で学んだ軍人によってなされた。」とあるのは印象に残る。

(3)慶応大
 ほとんど触れていない。1文があるだけである。
 「関東大震災での被災、さらには、太平洋戦争における空襲に被害など、幾多の苦難を経て、戦後、1949(昭和24)年に新制の慶應義塾大学が開設される。」(p.77)。

(4)立教大
 「戦時下の立教大学とキリスト教主義の断念」という節を設けている(pp.107-108)。
 1936年の天長節祝賀礼拝で、学長の教育勅語奉読が不敬であるとの指摘を受け、学長が辞任し、その後、「御真影を奉戴」することとなったチャペル事件の紹介。「学内で皇道主義に基づく教育方針の徹底を求める動きが強ま」り、1942年に、「立教学院寄附行為」から「基督教主義ニヨル教育ヲ行フ」を「皇国ノ道ニヨル教育ヲ行フ」に変えたこと。文部省から「大学ニ理工科又ハ之ニ代ル学科新設」の打診があり、1944年に立教理科専門学校を設置したこと。「戦時下の理工系重視の文教政策の中で、文系学部しかなかった立教大学は存続の危機を迎え」、文学部を閉鎖し、在学生の一部を慶應大文学部に委託学生として編入する措置をとった。

(5)青山学院大
 「関東大震災と戦争」という節を設けている(pp.135-136)。
 1920年代から計画していた大学昇格計画が関東大震災による被害により変更を余儀なくされたこと。軍国主義化が進むなか、「再び計画された大学昇格は、理系・科学技術を重視する国策のなか、文系学部中心の青山学院では実現せず」、国策によって「専門部(文学部、高等商業学部)の閉鎖とその明治学院への合同を余儀なくされた。そして「将来の発展のため、1944(昭和19)年4月、高等教育を維持する目的で青山学院工業専門学校を開設する」。

(6)学習院大
 「1930年代から戦時中にかけての学習院・女子学習院」、「学習院の存続交渉」という連続した節を設けている(pp.157-160)。
 日中戦争開始直前の1937年に、修身・国語及漢文・歴史・地理などの教授要目が「皇国の道」「国民精神」を強調した内容に変更された。戦争開始後には、初等科で英語の廃止し、修身の時間数を増。1938年からの勤労作業を実施し、後の「学習院報国隊」、「勤労報国隊」につながって行く。1943年の学徒出陣、勤労動員。1944年のサイパン島陥落後の学童疎開。1945年の空襲による目白校地の木造校舎の焼失。
 戦後、「学習院・女子学習院はGHQの政策と相いれない特権階級の学校であると目され、早晩廃止を迫られる可能性が浮上した。先手を打って1945年12月に学習院学制が改正され、門戸を広く一般市民の子弟に開放した<後略>」。その後、1946年に宮内省はGHQの示唆を受け、宮内省から分離して私立学校とする方針を固めた。GHQはこれを認めたが、財団法人の財産について政府からの支援は少なく、学習院長は資金調達に奔走した。

(7)法政大
 「戦後の法政大学」(p.191)の節で触れている。
 「戦後の復興は、戦時中に大学総長・理事長の座にあった竹内賀久治(1875-1946)の影響力を排除することからはじまった」。
 竹内は卒業生で「著名な右翼の政治活動家」でもあった。戦時中の法政大学では、「陸軍皇道派の中心人物であった陸軍大将荒木貞夫を顧問に迎え」、「陸軍将校のクーデター未遂事件「3月事件」「10月事件」にも参画したことで知られる大川周明が大陸部長に就任するなど、国粋主義傾向がつよかった」。
 竹内は「学生らによる全学ストライキなど相次ぐ批判の末に、1946年2月に辞任に追い込まれた」、後任には「リベラリストとして知られる野上豊一郎が就任した」。

(8)明治大
 1930年代後半以降、2000年代にいたる60年以上の間に関する記述は極めて少ない。
 「伝統から新たな展開へ」の節で、1935年に「京王線松原駅を帝都線(現在の京王井の頭線)西松原駅まで移動させ、明大前駅と改称した。しかし、すでに戦火の暗雲が漂い、やがて勤労動員・学徒出陣を迎える」(p.220)とある。

(9)早稲田大
 まったく触れていない。

(10)中央大 
 冒頭の約4ページを使って「略史」を述べ、「ここからは、年史編纂の成果などを参照しながら中央大学の歴史に関するいくつかのエピソードを紹介していきたい」(p.250)として、「英吉利法律学校の創設」など6つの節を設けている。
 戦争に関しては、「中央大学の歌」の節で、1945年に「戦地へ赴く学友との別れの歌として作られた」惜別の歌を紹介する箇所で、「中央大学から学徒出陣を強いられた学生も多く、在学生の戦没者は401名(朝鮮半島や台湾からの留学生も含む。ただし、これが全てではない)にも及んだとされている。「惜別の歌」は、ただ別れを惜しむ歌ではなく、戦争の記憶を大学にとどめるための歌でもある」(pp.259-260)とある。
 

3)学園紛争

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 1960年代後半から1970年代にかけての学園紛争である。

(1)筑波大
 「筑波移転問題と新構想大学の開学」の節で触れている。
 「移転問題は折からの学生運動ともからみ合って非常に複雑な様相を呈してきた。この間、学生組織による大学施設のロックアウト、東大と並んで69年度入試の中止(体育学部を除く)、大学側の警察力導入によるロックアウト解除、検問実施下の授業再開など、学内は蒼然たる雰囲気に包まれていた」(p.27)。

(2)東京大
 「新制東京大学と紛争」の節で述べている(pp.53-57)。
 1948年、1949年の学生ストライキ、1952年の「ポポロ事件」、「60年安保」などに触れた後、1968年、「研修医制度をめぐる医学部の学生・若手医師による運動の過程で、教官に対する病院内での集団的追及事件が生じた。」。「この関係学生等の処分を医学部教授会が決めた際に錯誤が生じたが、教授会は修正に応じず、評議会もそのまま認めて処分を確定したところから、6月15日、学外者を含む闘争団体が本部のある大講堂を占拠した。」。これに対して大学は警察の機動隊を導入して排除する。「尚早な警察力の導入は、学内の広範な反発を招き、紛争は全学的に拡大した。」。その後、医学部の処分が撤回されが、全共闘系は大学の占拠を続け、1969年1月16日に「警察力の出動を要請し、18・19日の2日間にわたり学内で攻防が繰り広げられた。大講堂封鎖解除後、大学は改めて入試の実施を求めたが、政府は許容せず、1969年度の新入学者はなかった。」。
 次の「大学院重点化と法人化」の節で、1969年3月の総長選挙、総長室の設置、「大学改革を目指す委員会もつくられ、諸般の改革案が提示された。それが直接的に大きな制度変革をもたらしたわけではないが、教官・学生双方が様々な形で大学の再建に取り組んでいった。」(p.57)。

(3)慶応大
 まったく触れていない。

(4)立教大
 「戦後の立教大学の拡大」の節で触れている。
 「<前略>学生が教育条件の悪化や学費の高騰などを問題視し、1969年にフランス文学科教員の人事問題を機に「立大紛争」が起こった。全学に及んだ「大学紛争」は、カリキュラム改革や入試制度改革につながっていく。」(p.110)。

(5)青山学院大
 まったく触れていない。

(6)学習院大
 「高度成長と学習院」、「大学改革の模索」の2節に記述がある。
 「1960年代後半は敗戦直後のベビーブーム世代の大学進学期であり、「大学の大衆化」状況が到来した。増加する学生に対する施設面での遅れや教員数の不足、学生と教員の意識のズレといった問題が深刻化した。全国各地で「大学紛争」が激発することになる。[改行]学習院大学においても、1969年春から学生の一部が「校規・学則改悪粉砕」「輔仁会粉砕」などをスローガンに活発な運動を展開、次第に院祭(輔仁会学習院祭)の開催のあり方が紛争の焦点となってくる。その結果、1970年11月には「正門前事件」(大学祭実行委員会側の正門への突入にともなう衝突・乱闘事件)が起き、大学祭は中止となった」(p.164)。
 「大学紛争の高揚と並行して、大学内でも改革に向けての作業が始まっていた。1969年12月、「大学の将来研究委員会」が発足<後略>」、委員会提言を受けて、(1)財政の改善(学費改訂)、(2)長期計画の策定、(3)長期計画の実施(施設整備、2つの学科の新設(1974年・75年)、公開講座など)、(4)運営・事務組織の改善(常務会設置、法人事務組織の整備など)、(5)付置機関の充実、(6)研究・教育環境の整備(奨学金制度の拡充、法学部・経済学部研究棟の建設(1973年竣工)、学生・学外厚生施

設の整備)に結実したとある(p.165)。

(7)法政大
 まったく触れていない。

(8)明治大
 1930年代後半以降、2000年代にいたる60年以上の間に関する記述は極めて少ない。
 「伝統から新たな展開へ」の節で、1949年に新制大学として認可され、「6学部体制となり、生田キャンパスの確保、経営学部新設など拡充が進められた。この間、激しい学生運動など多くの課題を抱えたが、平成の時代に入り、<中略>時代に合わせた拡充を遂げた」(p.220)。

(9)早稲田大
 まったく触れていない。

(10)中央大 
 まったく触れていない。

 

2 女子教育

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 1949年に新制大学が生まれてから70年以上が経過した。その間、旧制大学では女子に門戸を開放していなかった、あるいは、制限付きでしか開放していなかった大学が、男女共学へと移行していった。
 実際、4年制大学への女子の進学率は、1994年に20%を超え、20008年には30%を超え、2016年には48.2%になっている(注1)。また、令和4(2022)年度の文部省「学校基本調査」によれば、4年制大学(学部)の女子比率は45.6%である。

  注1: e-Statの「学校基本調査 年次統計」による。

女子の4年制大学(学部)への進学率

 本書では女子教育をどのように扱っているのであろうか。

 

1)筑波大学
 ほとんど触れていない。1文があるだけである。
 草創期の記述に、1885年「女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)が東京師範学校の女子部となった時期もある(高師設立後の90年まで)。」(p.20)。
 しかし、少なくとも、東京文理科大学となった1929年に女子学生の入学を確認できる。『官報』(1929年6月5日;第728号)の「入学許可東京文理科大学(文部省)」記事である。

2)東京大学
 「1946年度に入学すべき高等学校の新卒業者はなかったが、専門学校、師範学校、高等女学校、軍学校などの出身者を幅広く対象とする入試が行われ、初めての女子の合格者19名を出した。全合格者は1026名で2パーセント弱にあたる。」(pp.53-54)。
 学部学生数の推移を述べる文脈で、「入学定員は1992年から94年までの3586名が最高で、学生数は94年の16353名が最高となった。当時の女子学生比率は14.4%、現在は20.0%である。なお、学部別に見ると、1994年にトップだった教育学部はさらに女子比率を上げたが、それに続いた薬・文は比率を下げ、最下位だった工は法とともに2倍以上に増えるなど概ね平準化の方向に向かっている。」(p.58)。
 なお、1919年の帝国大学令改正の後、「東京帝国大学では経済学部を新設し、各学部の定める資格で聴講生を置くことを認めた。これにより、1920年の文学部から、女子の聴講生が許可された。」(p.50)とある。

3)慶應義塾大学
 まったく触れていない。
 なお、慶應義塾サイトの「福澤諭吉と女子教育」のページに、「1946(昭和21)年4月には慶應義塾大学への正式な女子の入学がスタート。ただし女子聴講生の受け入れは1938(昭和13)年から始まっており、また女子の職業教育の場として1918(大正7)年に設立された医学科附属看護婦養成所もあった。」とある(2023年4月23日閲覧)。また、大学本体ではないが、法人としての慶応義塾は、1947年に中等部を男女共学に変更、1948年に幼稚舎を男女共学に変更、1950年に慶應女子高等学校を設置している。

4)立教大学
 まったく触れていない。
 なお、立教女学院サイトの「創立者/沿革」のページに、創立者であるウィリアムズの説明のなかで、「1874年に立教大学の前身となる「立教学校」を設立。続いて女子教育の必要性を感じて、1877年に「立教女学校」を設立しました。生徒はわずか6名でした。」とある(2023年4月23日閲覧)。
 本書では創立期の記述には、1880年、ウィリアムズが私費で購入した築地に立教学校と三一神学校の建設が始まったとあるが、それ以外の記述はない(p.102)。

5)青山学院大学
 青山学院の源流として「女子小学校」、「耕教学舎」(後の東京英学校)、「美會神学校」を挙げて説明している。そして、「東京英学校」と「美會神学校」は合併のうえ、東京英和学校となり、1894年に青山学院と改称した。「その翌年、青山学院の敷地に移転していた女子小学校の系譜を引く女子系の学校(海岸女学校から東京英和女学校に改称)が、校名を青山女学院とする。」(pp.129-130)。
 「文部省訓令第12号」の節に、1903年に施行された専門学校令によって、1904年に青山学院高等科、青山女学院英文専門科、神学部がそれぞれ専門学校として認可されたとある(p.132)。
 「戦後の青山学院」の節で、1948年の高等部(当初は男子と女子に別れていた)の設置、1950年の「女子専門学校の伝統を受け継ぐ女子短期大学」の設置に触れている。
 青山学院大学の章は、初等教育から高等教育を運営する法人としての青山学院という色彩が強い。歴史の項の末尾は、「このように青山学院は発展し来たり、1874年の女子小学校開校から数えて150周年を2024年に迎えることとなる」と結んでいる。

6)学習院大学
 「学習院の創設」の節で、1876年の創設時、「男子小学・女子小学・中学から構成されたが、実際には女子の人数は男子の3分の1にも満たなかった。」とある。
 「華族女学校の創設と学習院の展開」の節で、教育令には男女共学を禁じる規定があったため、1885年に華族女学校を設置した。校長には谷干城、幹事研教授には下田歌子が就任し、「ここに華族の女子に対する本格的な教育が開始」された。1889年、生徒の増加に対応するため移転し、同時に「華族女学校規則」が制定され、教育目的は「彜倫」(引用者注:人が常に守るべき道)とされ、「小学科(初等+高等)・中学科(初等+高等)・専修科・別科から構成される。科目として「体操」が設置されたのは興味深い。のち1894年には華族女学校に幼稚園が付置されることになる。」。
 「学習院・華族女学校の合併と分離」の節で、1906年に新しい学習院学則が施行され、華族女学校は学習院と合併し、「初等・高等小学科が合同して小学科、初等・高等中学科が合同して中学科とな」り、学習院女学部となった。1918年に学習院学則が改正され、女学部は「女子学習院」として独立した。1922年に「女子学習院学則」が制定され、「女子学習院ハ両陛下ノ優旨ヲ体シ、華族ノ女子ヲ教育スルヲ以テ目的トナシ、特ニ婦徳ノ涵養及国民道徳ノ養成ニ力ムベキモノトス」(第1条)とされた。
 「1930年代から戦時中にかけての学習院・女子学習院」の節で、1938年のの文部省の指示による女子学習院の勤労作業、1941年の指示による女子学習院の「勤労報国隊」に触れている。
 「学習院の存続交渉」の節で、敗戦後の学習院・女子学習院について述べている。1947年、学習院初等科と女子学習院初等科を合併して男女共学に、中学校・高等学校は男女別学とした。
 「学習院大学・短期大学の開設」の節で、新制学習院大学では男女共学と改めたが、女子高等科からの進学者は少なく、1950年に短期大学部(後の短期大学)を設置して文学科、翌1951年に家庭生活科を増設した。
 「大学改革の模索」の節で、「受験生のニーズが短期大学から4年制へと変化していた。その変化を踏まえて、学習院女子短期大学から移行した「学習院女子大学」が1998年4月に開学した。」。国際文化交流学部と大学院で構成。

7)法政大学
 まったく触れていない。
 『官報』(1934年1月22日;第2114号)に掲載した法政大学の学生募集広告に、法文学部の項に女子について「文学科・哲学科に限り女子入学を許可す」として、「入学資格 女子専門学校文科卒業生」としている。しかし、当時は明治大学の予科(男子限定)を卒業した者を受け入れるのが主流で、この広告にも予科以外からの募集人員は「各科1年若干名」となっている。同一内容の広告が翌年にも掲載されている(『官報』(1935年1月30日;第2411号))。 
 なお、Wikipediaの「女子大生」の項によれば法政大学は、1934年に女子の入学を開始したとある。典拠は『法政大学百年史』所収の「法政大学百年史年表」40ページとある。
 女子教育とは離れるが、2014年に東京6大学で女性として初めて大学のトップ(総長)に就任した田中優子氏について言及はない。

8)明治大学
 「伝統から新たな展開」の節で、「関東大震災からの復興を遂げた明治大学は、時代を先取りしつつ特色を示していく。当時の国内では女子高等教育の展開が遅れていたが、1925(大正14)年に女子聴講生を受け入れ、さらに1929(昭和4)年には専門部女子部が開校する。その結果、中田正子など多くの女性法曹家を輩出することとなる。専門部女子部は系統的には戦後の明治大学短期大学(2007年廃止)につながっていく。」とある。

9)早稲田大学
 まったく触れていない。
 『早稲田大学百年史』第3巻第7編第七章「女子学生への門戸開放」(p.804)に、「昭和14年4月、満天下の期待を担って、学苑は女子を学部入学生として迎えた」とあり、1945(昭和20)年までの入学者数を掲げ、「学苑当局も、「他の官私立大学に率先して昨年度から各学部とも女性に門戸を開放することにしたが、選ばれたる少数の女学生達が皆真面目に専門の研究に従事」しているのを誇りとしている。それは入学条件において、「文部当局と再三折衝して、我が国の官公私立の女子専門学校の中で、一週三時間以上外国語を課し、三箇年間に高等学校の学科目四科以上を学修せしむる学校の卒業生を銓衡の上学部に編入」(『早稲田大学新聞』昭和十五年六月十二日号)させるという厳しい内容を伴っていたからにほかならなかった。」と記している。

 余談であるが、1962年に「女子大生亡国論」という社会的事件があった。火をつけたのは、早稲田大学文学部教授の暉峻康隆、慶応義塾大学文学部教授の池田弥三郎であった。暉峻康隆「女子学生世にはばかる」(『婦人公論』1962年3月号)、池田弥三郎「大学女禍論」(『婦人公論』1962年5月号)である。いずれも『論集日本の学力問題』 下巻 (学力研究の最前線)(日本図書センター、2010年5月)に再録されている。ちなみに、4年制大学への女子の進学率は、1952年に10%、1962年には16%に達していた。

10)中央大学
 「女子学生の誕生」エピソードで取り上げている。
 「ここまで紹介した大部分の歴史は、男性が作ってきた歴史である。」と始まり、「戦後の教育改革のなかで女子の高等教育が重視されるようになると、ようやく女性に門戸が開かれることになり、1946年から男女共学に移行した。」と述べている。同年の女子学生座談会で出された要望(女子用トイレの整備、女子の学修環境の整備)を紹介し、その後、大学が女子学生会を作ったことが述べられている。

 

3 記述の特徴(重点内容)

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 記述の特徴という観点を掲げるのは、各大学を担当した研究者の問題意識や読者への訴求点をどこに置いているかを知りたいためである。
 ただし、読者にだれを想定しているのかは、冒頭に紹介した「はじめに」を読んでも判然とはしない。「はじめに」には、「編者としては、各大学の校友をはじめ、大学などの受験を控えた人たちやそのご家族の手に取ってもらえることを願っている」とし、「各学校の歴史に根差した違いや、各学校が何を目指そうとしているか知るよすがとなると思う。また受験を考える方々が各学校の建学の精神を理解して、最も惹かれる学校を主体的に選んで入学するようになるのであれば、それに勝る喜びはない」と述べているからである。
 

1)筑波大学
 東京高等師範学校から東京文理科大学への昇格時に抱えていた問題が、敗戦後の東京教育大学、その後の筑波大学への変遷のなかで影を落としているとの記述が印象的である。以下に紹介する。
 1885年、師範学校令の制定によって、それまでの東京師範学校が唯一の高等師範学校とされた(のちに東京高等師範学校と改称)。1918年、大学令の制定によって、東京高等商業専門学校が東京商科大学(現一橋大学)に、各地の医学専門学校が単科医大に、そして私立専門学校などが大学に昇格する。
 東京高等師範学校は、昇格に出遅れた。それは、長年校長の地位にあった加納治五郎が乗り気でなかったことと、大学令の第2条に定める学部に師範学や教育学がなかったことによる。その後、熱心な運動により、1924年に文理科大学として昇格を果たす。
 筆者は、この時点でのいわばねじれに着目している。それは、文理科大学は、東京高等師範学校の専攻科を大学に昇格させたという考えを持ち、東京高等師範学校は文理科大学に附属するが師範教育令のもとにある別の学校であるとの認識をもった点である。教員数は東京高等師範学校の方が多く、文理科大学に移行した教員との間で栄典の基準等で差を生じた。筆者は、「このような文理大と高師の教官の間の微妙な関係は、戦後の東京教育大学発足に際して校名をめぐり最後まで両者の合意に至らなかったという問題につながり、ひいては教育大の筑波移転をめぐる対立の伏線にもなったと私は考えている」(p.23)と述べている。

2)東京大学
 創立前史から1960年代までの歴史を丁寧に説明している。
 「大学院重点化と法人化」の節を設けて、大学の運営組織と大学院について述べている。
 紛争後に総長のもとに、企画、立案および各部局との連絡などを行なう特別補佐/補佐からなる総長室を置いたこと、「2003年には補佐のほか副学長3名を擁し、大学のあり方を明文化する東京大学憲章を制定した」。さらに2004年の大学法人化後には、総長室の拡充(いずれも複数の理事、副学長、監事、副理事)し、「総長特別参与や総長特別補佐も含めた本部の拡大は法人化後にも進展し、総合的な企画のほか、学生を対象とする全学的な事業や対外発信が積極的に行われている。」。
 1991年の法学部の大学院重点化に始まる重点化を述べている。重点化の完成後、1998年には修士課程2351名、博士課程1421名となり、「2021年には正規学生数でも大学院生1万4138名が学部生1万4033名を上回った。」。

3)慶應義塾大学
 まず、歴史に関する記述量が他の大学に比して少ないことが特徴である。また、あるいは、そのため、創立から「大学令によって、旧制の慶應義塾大学が開設」された1920年までが記述の大半を占めている。

4)立教大学
 「2 アジア太平洋戦争」の項で紹介した節「戦時下の立教大学とキリスト教主義の断念」、その他、「立教の日本化改革と文部省訓令第12号問題」、「戦後の立教大学の拡充」の3つの節で、大日本帝国下でのキリスト教主義教育の苦難が描かれている。

5)青山学院大学
 大日本帝国下でのキリスト教主義教育の苦悩を描く量はそれほど多くない。
 創立から1980年前後までを中心に記述しており、記述には個人の登場する個所が相当量ある。

6)学習院大学
 1877年の華族学校としての学習院の創設までの前史、そして、私立学校から1884年の官立学校への変更、華族女学校との合併、女子学習院の分離、敗戦後の新制学習院大学(男女共学)/女子高等科、その後の学習院女子短期大学、1998年の学習院女子大学の設置を、一部に説明不足の点があるが、几帳面に描いている。

7)法政大学
 ほとんどの紙幅は、創立から1920年代まで(大学令による法政大学の認可前後)の歴史に費やされている。

8)明治大学
 創立から大正時代までを中心に記述されている。
 印象に残るのは、他の大学では取り上げていない大学スポーツについて「学生スポーツの中軸」という1節を置いていることである。

9)早稲田大学
 創立から敗戦までを中心に記述されている。
 印象深いのは、「学生活動の隆盛」という節を設け、「戦前において「学問の独立」の理念は、学生の間に反骨精神と自主的・自治的気風の尊重という形で受け継がれ、<中略>特に学生や卒業生、さらには教職員の政治運動の活発さにおいて知られた。」と述べ、高田早苗の文部大臣就任をめぐっての騒動、軍事研究団体の結成をめぐる事件、大山郁夫教授解任をめぐる事件、早慶戦野球入場券の配布方法をめぐる学校と学生の対立などを簡単に紹介している。その後の戦時体制下では「学問の独立」を唱えることはほとんどなくなったとしている。その例として、1943年の学徒出陣の際に提案された「最後の早慶戦」に慶應大の小泉信三塾長は後援したが、早稲田大の田中穂積総長ら早大当局は最後まで開催を承認しなかったエピソードをあげている。
 なお、執筆者は同大の歴史館副館長の職にあることから個人の見解である旨断っているのであろう。

10)中央大学
 「2 アジア太平洋戦争」の項でも書いたが、中央大学は他の大学とは異なる記述をしている。それは、冒頭の約4ページを使って「略史」を述べ、「ここからは、年史編纂の成果などを参照しながら中央大学の歴史に関するいくつかのエピソードを紹介していきたい」(p.250)として、「英吉利法律学校の創設」など6つの節を設けていることである。つまり、編年での記述ではない。
 「英吉利法律学校の創設」、「創立者たち」、「實地應用ノ素ヲ養フ」で創立期に重きを置いて記述している。