講談社現代新書の「今を生きる思想」シリーズの1冊として刊行された佐々木実『宇沢弘文 : 新たなる資本主義の道を求めて』を読んだ。
 私が宇沢氏の著作のうち読んだのは『自動車の社会的費用』(岩波新書、1974年)ひとつだけだ。
 著者略歴によれば、佐々木氏は宇沢氏に師事したとあるので興味深く読んだ。

 著者は、「この小著では、<中略>宇沢が「社会的共通資本」という概念をつくりだした経緯や思想的な背景に焦点をあててみたい」(p.7)とし、生い立ちからはじめて、アメリカ時代の経済学者としての地位の確立、ベトナム戦争批判、帰国後の水俣病との出会い、社会的共通資本概念の提唱という内容で、平易でわかりやすい著作である。また、アメリカ時代の大学の同僚などへのインタビューもあり、肉声による宇沢氏評価も盛り込まれている。

 著者は宇沢氏の神髄ついて以下のように述べている。少し長いが引用する。
 「宇沢は、経済学の問題をふたつの方向から考えるようになった。ひとつには、主流派経済学に対する内在的な批判だ。新古典派経済学はアメリカ・ケインジアンを含めて、均衡分析に終始しすぎている。結果として、失業や所得格差などの重要な問題を的確に分析できない。この問題に対して宇沢は不均衡動学理論を構築することを目指した。市場経済の不均衡状態を動学的に(長期分析として)捉える理論に挑戦したのだ。
 もうひとつは、より根源的な批判だ。主流派経済学は、分析の対象をあまりにも狭く市場的現象に限定しすぎている。この問題に対して、社会的共通資本の概念を導入し、社会的共通資本の経済学を打ち立てようとした。」(p.109)。

 また、宇沢氏の思想的背景には、アメリカの経済学者ソースティン・ヴェブレンの考え、また、同じくアメリカの哲学者ジョン・デューイの考え方が影響しているとする。
 ヴェブレンの新古典派経済学が前提とする「ホモ・エコノミクス(合理的経済人)」は実在しないという主張。「ホモ・エコノミクス」は、外界から力が加わった場合のみ、反応して行動を起こすという功利主義に基づく考え方で、人間に本来的に備わっている「社会性」(受動的ではなく主体的/能動的)が欠落しているとする。
 デューイについては宇沢氏の著作『宇沢弘文の経済学 : 社会的共通資本の論理』(日本経済新聞出版社、2015年)から引用している(pp.110-111)。
 「ジョン・デューイは、人間は神から与えられた受動的存在ではなく、一人一人がその置かれた環境に対処して、人間としての本性を発揮させようとする知性をもった主体的実体としてとらえる。そのとき、リベラリズムの思想は人間の尊厳を守り、魂の自立を支え、市民的自由が最大限に確保できるような社会的、経済的制度を模索するというユートピア的運動となり、学問的原点として、20世紀を通じて大きな影響を与えてきた。<中略;引用者=私による>どのような希少資源を社会的共通資本と類別して、どのような基準に従って社会的共通資本を管理、維持し、そこから生み出されるサービスを分配するかという問題はすべて、このリベラリズムの観点にたって決められる」。

 本書をとおして、新古典派経済学から始まった宇沢氏の学問が、その枠内では収まり切れない社会の課題に、氏がどのよう考え、模索し、社会的共通資本という考えに至ったのかを平易に教えていただいた。良書だ。

<つけたり>
 本書にはいくつものエピソードが紹介されているが、とくに印象に残ったものを紹介する。シカゴ大学でミルトン・フリードマンと対峙していた過去を持つふたりだったが、宇沢氏がベトナム戦争に異を唱えてアメリカを去った後、フリードマンは宇沢氏の日本語論文を英訳させて丹念にチェックしていたというエピソードだ(p.6)。