この本は映画『否定と肯定』(2016年、イギリス、アメリカ;日本公開2017年12月)の原作だ。
 アメリカ人の大学教授であるデボラ・E.・リップシュタット(Deborah E. Lipstadt)が突然、イギリス人のデヴィッド・アーヴィング(David John Cawdell Irving)から名誉棄損で訴えられる。その裁判をめぐる物語だ。裁判が終わる2000年までの数年間を描いている。一般的にはドキュメンタリー分野に分類されるのだろう。(図書館の分類では民事訴訟とされている)。
 書誌的には、『否定と肯定 : ホロコーストの真実をめぐる闘い』(Deborah E. Lipstadt著 ; 山本やよい訳)(ハーパーBOOKS)(ハーパーコリンズ・ジャパン、2017年11月)。


 
以下は2024年2月29日の追記である。このブログ記事でもととしたのは第2刷の『否定と肯定』であった。最近、木村草太『「差別」のしくみ』(朝日選書、2023年12月)を読んだ。その「第3章 差別をする人はどんな行動をするのか?」(pp.27-38)は、この書籍を引用しながら述べている。「デボラ・E.・リップシュタット『否定と肯定』(原題<中略>同書の引用は邦訳・山本やよい訳・ハーパーBOOKS・2017年の頁数示して行う)は、差別をする者が、何を目標とし、どのようなふるまいをするかを学ぶ格好の素材だ」と述べて、いくつかの箇所を引用している。引用個所を確認しようとしたところ、引用したとするページにその文章が見当たらなかった。木村氏は第1刷を引用したものと思い、第1刷を確認した。なるほど第1刷の個所と一致致した。
 第1刷と第2刷を比べてみると、表紙が異なること以外に、第2刷には「まえがき」、「訳者あとがき」がなく、本文は、第1刷は17ページから、第2刷は13ページから始まっている。「まえがき」は映画の脚本を担当したデビッド・ヘア(David Hare)が書いている。
 ここからは推測だが、第1刷に収録されている「まえがき」、「訳者あとがき」が第2刷でなくなっているのは、筋を書きすぎたからではないかと思う。
 第1刷と第2刷の違いについて、国際基督教大学図書館は認識し、その目録に「第2刷 (2019.4)のページ付: 543p ; 第1刷 (2017.11)と第2刷 (2019.4)ではページ付けが異なり、内容に相違はないが、第2刷には訳者のあとがきがない」と注記している。「まえがき」については注記をしていないが。以上、追記終わり。

デボラ・E.・リップシュタット『否定と肯定 : ホロコーストの真実をめぐる闘い』第2刷の表紙
 興味深いのは、訴えられた当事者が著者であること、もともと研究者であり、書いて表現することは得意だろうから当然かもしれない。

 主な登場人物
 被告 デボラ・E.・リップシュタット(Deborah E. Lipstadt) エモリー大学教授  1947年生まれ
 原告 デヴィッド・アーヴィング(David John Cawdell Irving) イギリスの現代史家  1938年生まれ
 法廷弁護士 リチャード・ランプトン(Richard Rampton)  1941年生まれ
 法廷弁護士 ヘザー・ロジャーズ(Heather Rogers)
 事務弁護士 アンソニー・ジュリアス(Anthony Julius)  1956年生まれ
 事務弁護士 ジェームズ・リブソン(James Libson)  1966年生まれ
 高等法院判事 チャールズ・グレイ(Sir Charle Gray)  1942年生まれ


 ことの発端は、リップシュタットが1993年に出版した『ホロコーストの真実』(注1)について、アーヴィングが名誉を棄損されたとして、版元のペンギンブックスとリップシュタットを相手に訴えを起こしたことに発する。

 

 

 

 

 


 
注1: 原題は、"Denying the Holocaust : the growing assault on truth and memory"(Penguin Books、Free Press、c1993)で、邦訳『ホロコーストの真実 : 大量虐殺否定者たちの嘘ともくろみ』(滝川義人訳)(恒友出版、1995年11月)がある。


 イギリス在住のリップシュタットの友人から、アンソニー・ジュリアスという弁護士が弁護人を引き受ける、無償でもかまわないという提案をしていると聞かされる。リップシュタットは友人に、T. S. エリオットをテーマとする学位論文(注2)を書いたA. ジュリアスと同一人物かどうか確認する。また、イギリス皇太子妃ダイアナの離婚訴訟の弁護人でもあったかを確認する。

  注2: 学位論文"T.S. Eliot and the Jews : a study in literary form and anti-Semitism"(Thesis (University of London) 1993)。
なお、本書のなかでリップシュタットもタイトルを引用しているように市販本は "T.S. Eliot, anti-semitism, and literary form"(Cambridge University Press, 1995)である。


 このようにして弁護人の中心となる弁護士が決まり、訴訟ティームが編成される。ジュリアスを中心に裁判方針/戦略が練られる。
(1)陪審員裁判とせず、アーヴィングを自らの弁護人とするよう仕向ける。
(2)ホロコーストがあったかなかったかを争うことはしない。
(3)アーヴィングが歴史学者ではなく、反ユダヤ主義者で、人種差別主義者で、ヒトラーを擁護する人物であることを証明する。
(4)アーヴィングの著作、講演、日記などから一次資料の取扱いが、意図的で、自分の主張(最終的にはヒトラーは無罪)に合うように摘出し、あるいは、改ざんしていることを明らかにする。そのために研究者に依頼して徹底的に調べる。
(5)ホロコーストの生還者など直接、間接の被害者を証人としない。
(6)リップシュタットを証人としないし、法廷で発言しない(させない)。
   (被告人席には座るが、発言はなしということだ)。
(7)法廷で発言しない以上、マスコミなどとの会見、インタビューなどには応じない。

 イギリスの裁判制度は興味深い。名誉棄損訴訟では訴えられた被告側が名誉棄損ではないことを証明しなくてはならない(日本や英米法といわれるアメリカ合衆国とも異なるわけだ)。リップシュタットはこのことに驚愕する。
 また、弁護の制度も、事務弁護士と法廷弁護士との役割分担があり、事務弁護士は裁判の裏方として仕事はするが法廷では発言できない、法廷で原告や被告とやりあうのは法廷弁護士の専権事項だ。
 余談だが、後に紹介する映画『否定と肯定』は、イギリスの裁判制度を理解するのに良い映画だ(陪審員がいないのでその点は割り引くとして)。

 裁判方針/戦略で、大きく貢献したのは次の点だろう。

(1)陪審員裁判とせず、アーヴィングを自らの弁護人とするよう仕向けるという点。
 専門的とならざるを得ないテーマ=ホロコーストに充分な知識を持たない一般人は、アーヴィングの演説に「ホロコーストはなかったかもしれない」と思ってしまうかもしれない。ホロコーストの有無を印象で戦われては弁護するのが難しいという判断だ。
 また、アーヴィング自身を弁護人となることを仕向けるのも、裁判を業とする弁護士と同格に争えないようにする良い手だろう。

(2)ホロコーストがあったかなかったかを争うことはしない点。
 その有無を争うのではなく、アーヴィングのホロコーストなどに関する論考に潜む、一次資料の取扱いが、意図的で、自分の主張に合うように摘出し、あるいは、改ざんしていることを明らかにすることで、研究者として失格であることを明らかにする。そして、資料の改ざんなどを行なう理由が反ユダヤ主義、人種差別主義であることを明らかにする。

(5)ホロコーストの生還者など直接、間接の被害者を証人としないという点。
 アーヴィングの過去を調べぬいたすえに、生還者などが第二の侮辱を受けないためだ。生還者に対してアーヴィングが法廷で「○○さん、あなたは終戦後その入れ墨(注3)でどれだけ稼ぎましたか?」などという暴言を吐かせないためだ。

  注3: 強制収容所に収容されたユダヤ人には、腕に識別番号が入れ墨された。


(6)リップシュタットを証人としないし、法廷で発言しない(させない)点。
 アーヴィングとの間でホロコーストのありなしの議論が展開されてしまうことを避ける方策だ。ありなしを裁判ではっきりさせるのではなく、アーヴィングの言説が反ユダヤ主義であり、人種差別主義者である点、そして、自分の出したい結論に資料を恣意的に利用するような「嘘つき」であり、研究者ではないことを明らかにするためだ。
 法廷でしゃべらず、法廷外でしゃべることは裁判官の心証を悪くすることから、必然的にマスコミなどとの接触を禁じている。


 さて、本書は本文だけで500ページを超える。そのうち、法廷を中心とした場面が340ページほどを占める。法廷でのリップシュタット側とアーヴィングとのやり取りは省略するが、裁判は順調に進み、最後は被告勝訴、裁判費用200万ポンドをアービングに課す内容で終わる。

 しかし、最終弁論の法廷で裁判官グレイが、被告リップシュタット側に次の質問を投げかけ、リチャード・ランプトンとのあいだでやりとりがある(pp.464-466)。
 やや長いが引用する。
 ”「もし誰かが反ユダヤ主義者であり・・・過激論者であるとしても、それは本当にその人物の考えであるがゆえに、その考えを支持し、口にしているのなら、純粋な反ユダヤ主義者として、純粋な過激論者として認めてもいいのではないでしょうか?」”<中略>”「わたしたちには、反ユダヤ主義というのはまったく別の申し立てであり、アーヴィング氏がデータを改ざんし、記録を歪曲したという、被告側のより広範囲にわたる、おそらくはより重要であろうと思われる申し立てには、ほとんど関係がないように見えるのですが。それとも、何らかの形で関係していると思われますか?」”
 この場面で、ティームのジェームズ・リブソン、アンソニー・ジュリアス、リチャード・ランプトン、誰もが動揺した。
 そして、ランプトンが”「「おそらく関係があると思われます」しばらく躊躇してから、ためらいをやや克服した口調になった。「関係があるのではないかと思われます」それから、自信に満ちた口調をとりもどし、落ち着き払った態度になった。「ホロコースト否定説と、反ユダヤ主義の立場に立ったヒトラー擁護説のあいだに橋をかけるのは、きわめて簡単なことです。反ユダヤ主義の歴史家がヒトラーを擁護する場合、歴史に関して嘘をつくことで何年ものあいだそれを試みてきたのなら、ホロコーストを否定する以上に理想的な方法が他にあるでしょうか?」”<中略>
 ”「ランプトンは首を前後に振りながら、「歴史学の面から見た場合、ホロコーストを否定すべき理由がなにもないことからすると、アーヴィング氏には別の目的があるに違いありません。筋金入りの強硬な反ユダヤ主義者がかならず行うのが・・・ホロコースト否定説に飛びついて・・・世界に広め、他の反ユダヤ主義者やネオファシストの連中に訴えかけることです」グレイ裁判官はランプトンの言葉をじっくり検討する様子で考え込んだ。「別の目的がある。そう言いたいのですね?」ランプトンの口調から、ためらいながちなところがすべて消えた。「はい、別の目的とは・・・反ユダヤ主義を広めることです・・・ホロコースト否定説にまっとうな歴史的根拠がいっさいないことを考えれば・・・そのふたつのあいだに橋をかけるのはきわめて簡単なことです」”

 以上、『否定と肯定』を紹介した。500ページあるが読みごたえがあった。

 現代日本でも、関東大震災時の朝鮮人虐殺はなかった、あるいは、南京事件(1937年)もなかったといった言説が横行するなか、当事者とはいえ研究者の研究活動とはいえない裁判の経過を社会に発表することに敬意を払う。

 

 最後に:
 この翻訳には、原典として "Denial : Holocaust history on trial"  Copyright 2005 by Deborah E. Lipstadt とタイトルページの裏面に記述されている(訳者による解説や原典に関する文章は収録されていない)。しかし、本来は "History on trial : my day in court with David Irving"(Ecco, c2005) なのではないだろうか。なぜなら、"Denial : Holocaust history on trial" として同出版者から刊行されたのは2016年であるからだ。
 

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 さて、付けたりで映画『否定と肯定』の紹介をしておく。
 法廷劇といってよい、あっという間に最後まで観た。

 監督:Mick Jackson(ミック・ジャクソン)
 出演:リップシュタット役=Rachel Weisz(レイチェル・ワイズ)、ランプトン役=Tom Wilkinson(トム・ウィルキンソン) アーヴィング役=Timothy Spall(ティモシー・スポール)、ジュリアス役=Andrew Scott(アンドリュー・スコット)、グレイ裁判官役=Alex Jennings(アレックス・ジェニングス)
 2016年/イギリス・アメリカ/110分/英語/(日本公開は2017年)
 原題:DENIAL

映画『否定と肯定』
© DENIAL FILM, LLC AND BRITISH BROADCASTING CORPORATION 2016

 映画ではエンターテイメントとして、人物造形が重要だ。この映画でも原作にはない事柄を付加したり、工夫している。
 批判ではないがいくつか挙げておく。

 法廷弁護士 ランプトン
  映画ではアウシュヴィッツ強制収容所跡の調査はランプトンも当然のこととして語るが、原作では「とくにランプトンにアウシュヴィッツをじいかに見てもらうために計画されたものだった」(p.114)。また、ロベルト・ヤンがアウシュヴィッツの施設の周辺を歩こうと提案するが、ランプトンは「かなり激しい口調で彼を諭した。」、「われわれへの提案は審理の役に立つことだけにしてほしい。これは追悼の旅ではない」と言う、最終的には「不承不承同意した」(p.126)。しかし、映画では、調査当日、待ち合わせ場所にランプトンは遅刻する。そして、ロベルト・ヤンが周辺を歩くことを提案すると、ランプトンはすでに歩いた(それも歩測して)という。つまり遅刻は歩測のためだった(32分経過ころ)。また、法廷でアウシュヴィッツのガス室をアーヴィングが「防空壕」と詭弁を弄したとき、ランプトンは親衛隊の隊舎からこの「防空壕」まで重装備の兵が4キロメートルも走るのか、現実的ではないと一蹴する(68分経過ころ)、そしてリップシュタットがランプトンにアウシュヴィッツでの遅刻を無礼だと思ったことを謝るシーンで「距離を測っていたのね」と言う(74分経過ころ)。
 おそらく、映画製作にあたって、法廷で縦横無尽にそして準備にも抜かりないランプトン像を形成したかったのであろう。

 デボラ・E.・リップシュタット
  映画では、初めてリップシュタットがアンソニー・ジュリアスに合う場面で、ジュリアスが"T.S. Eliot, anti-semitism, and literary form"の著者であることは事前に知っていたが、ダイアナ妃の離婚訴訟で弁護人を務めたことは知らなかった(12分経過ころ)。原作では初めて会う前に少なくとも依頼人のひとりにダイアナがいたことは知っていた(p.68)。
 おそらく、映画制作にあたって、リップシュタットはいわゆる学者で、世間のことに疎い人物として印象付けたかったのであろう。