映画「マチネの終わりに」観ました。
以前から、あれこれ書きましたが、観る前から小説とは異なるもの、と捉えて観たので、そこそこ楽しめました。
このプロモーション動画は、集客効果はあるものの、民放でよく放映される、ありふれた恋愛物に成り下がるのではないか、というリスクを感じさるものでした。
ただ、同時にこの動画は、「これは映画版であり、小説には到底敵わない。だから純粋に映画を楽しもう」という、ごく当たり前の発想にさせてくれたのでした。
いやー、しかし、この歳のオジサンが一人で、この映画を観るというのは恥ずかしかったーーー。苦笑
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小説とは違う、と割り切れば思えば、それなりに楽しめる作品だったと思います。
評価したい点としては、原作と違う部分もあったけど(多かったけど)、丁寧に映画を作ったなーという点。映像が美しかったです。
また、この種の映画は常に原作と比べられる運命にあるわけで、そんな中で映画化に挑んだのだから、それだけでも評価したいです。
逆に、小説を読んでない方々にこそ、楽しめる映画なのかな、と感じました。
さて、その上で、以下は観終わった方々を意識した、若干のネタバレを含む感想です。
映画を純粋に楽しみたい方は読まない方が良いです。
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小峰洋子さんについて
この映画を観たあとに改めて思うのは、小峰洋子さん役を誰にするかの難しさ。
石田ゆり子さんである必然性は全く感じなかったけど、石田ゆり子さん以外で誰が適役かと思うと、全く浮かびませんでした。
小説の小峰洋子さんの奥深さなのか。
日本の女優陣の人材枯渇が深刻なのか。
恐らく両方かなと思います。
日本の映画、ドラマが、日本の女優陣に求める役のバリエーションが乏しいことが、この年代(円熟の演技をしても良い年代)の女優の層でさえも、薄くしているのかなと想像しました。
僕の発想限界ですが、40代の日本の女優さんって、他に誰がいるのだろうと思えば、過去に流行った「不倫系」のドラマに出た女優しか出てこないーーー。
例えば、長谷川京子さん、鈴木京香さんだったことを想像すると、失礼ながら、ゾッとします。
そういう意味でも、比較的そのような色に染まっていない、石田ゆり子さんで、まぁ良かったのかなーと。
下世話な不倫系ドラマで短絡的に視聴率を稼ぎ、ワーワー騒いできた日本のテレビドラマの昨今の状況が、このような人材枯渇の現状や40代の女優さんの活躍範囲を狭めているように思えてならないーー。
我々観る側の責任とドラマ制作側の責任の両方なのかなーー。
じゃあ、欧米の女優だったらどうだっただろうか。
僕の知りうる範囲では、ナオミ・ワッツ、ルーニー ・マーラといった女優さんだったらどうだっただろうと思い浮かびます。
ちょい大物ですが、もうちょい若い頃のケイト・ブランシェットだったらどうだだろうとか。
日本語の問題はありますが、欧米の女優さんの方に可能性を感じました。
ソリッチが出てこないこと
小説での小峰洋子さんと父親ソリッチの再会の場面は、僕にとっては印象に残る場面でしたが、映画では大胆にも「無いこと」になっていました。
小峰洋子さんにとって父親との関係は、彼女の人格形成に大きな影響を及ぼしていたはず。
小説の終盤で、ソリッチがどうして母娘から離れたのかを語り、小峰洋子さんがそれに応える場面。
『「だから 、今よ 、間違ってなかったって言えるのは 。 … …今 、この瞬間 。わたしの過去を変えてくれた今 。 … … 」洋子は 、長い時を経て 、まるでこの時のために語っていたかのような 、初対面の日の蒔野の言葉を思い出した 。』
この場面にはグッときたーー。
最初の出会いで、そうした彼女の人格形成の深い部分を、「分かってくれる人だ」と直感したからこそ、小峰洋子さんは蒔野さんに惹かれたのではないかと。愛の必然性の一端を感じさせる場面でした。
なので、その大切な場面と経緯を母親に語らせたところは残念に思いました。
小峰洋子さんの母
加えて、風吹ジュンさん演じるお母さんが残念でした。
風吹ジュンさんは嫌いではないけど、彼女の存在感は、あの映画を大衆的なテレビドラマの世界に変換してしまうだけの破壊力がありました。
いきなり朝の連ドラの「おばあちゃん」が出てきたみたいなーー。
風吹ジュンさんよりメジャーでなくても、ユーゴ出身の映画監督が惹かれた女性であることを感じさせる女優さんは他にいなかったのでしょうか。
登場しただけで、「なるほど。この人ならユーゴ人も夢中になるな」と感じさせてくれる人。
風吹ジュンさんと、写真の中のソリッチが繋がらないーー。
それこそ、オノヨーコさん的だっり、
岸恵子さん的な雰囲気の人。
他にいなかったのか。
非常に勿体ないなーと思いました。
福山雅治「蒔野聡史」にフォーカスした映画
そう考えると、あの映画は、小峰洋子さんという人間の人間形成に関わる大事な要素を大胆にカットした映画と言えるのかなーと感じました。
映画ゆえの時間の制約もあったのでしょうか。
日本の女性層に支持されている福山雅治さんを中核に据えて、シンプルに再構築した小説とは違う恋愛映画。そんな感じがしました。
だからこそ、福山雅治さんに対抗しうる、強い存在感溢れる俳優(ダブル主役的に)ではなく、福山雅治さんを引き立てるような配役にしたのではと。
仮に、あの映画の世界で小峰洋子さんが主役級の大胆な存在感を放ってしまったら。。。
あの映画で想定されているだろう、視聴者層にとって、商業的に言って、バランスを欠いたものになっていたのかも。。
それもアリだとは思うが。
三谷早苗にまつわる部分の原作との違い
三谷早苗にまつわる部分で、小説と大きく異なる部分がありました。
・コンサートに来ないで下さい(小説)
・コンサートに来てください(映画)
・会話からバレる(小説)
・自分から告白(映画)
・ニューヨークに旅立つ薪野さんに、「聡史さんの好きにしてください」(映画)
・小説にはなかった。。
三谷早苗はそんな都合のよいことを
言う人だっけ?
家庭をもっている責任があるなかで、
早苗への気持ちに苦しむなかで、
セントラルパークで洋子と再会するところがポイントなのに。
だからこそ、最後の場面の《幸福の硬貨 》の一節が生きるのに。
愛を感じる必然性は?どこ?
んんんーーー。
これ言っちゃうとマズいのかなーー。
恋愛映画って、言葉の端々とか、目線とか、表情などから、相手への「愛を感じる必然性」を感じさせてくれるからこそ、恋愛映画として成立するものだと思うんだけど、あの映画にはそれを感じなかったなーー。
「この人だけだ。自分のことを分かってくれるのは」感。感じなかったなー。
男女が何組か出てきますが、唯一、三谷早苗くらいかなーー「愛を感じる必然性」を感じたのは。
三谷早苗を演じた桜井ユキさんからは、ストーカー的?とも言える、蒔野さんへの愛情(執着)を感じましたが、他の人達からは何故か、相手を愛した必然性を感じませんでした。
特に、福山雅治さんの演技からは、「わがままな芸術家が、自分の演奏に悩んでいるときに、たまたま出会った素敵な女性に何故か惹かれた」としか感じなかったなーー。
小説よりも、わがままな芸術家に感じられてしまった。
それに、洋子さんが、蒔野さんの愛を受け入れる場面も、もっと超然と、はっきりと、受け入れる場面にして欲しかった。
小説ではそうだったように思う。
婚約者を捨てる苦悩と、蒔野さんの方も、その決断を洋子さんに強いる苦悩も、もう少し描いで欲しかったーー。
なんかそこが淡泊だった気がする。
仮に、福山雅治「蒔野聡史」にフォーカスした映画ならば、福山雅治さんに、狂おしいまでに小峰洋子さんに惹かれてしまった感を、もっと出して欲しかった。
そう感じました。
一目惚れに近い出会いの限界なのかーー。
でも一目惚れでも、匂い立つ「狂おしいまでに惹かれた感」を感じさせる映画はある。
批判を承知で言えば、福山雅治さんの演技は、独力で個性を放つより、周りの強い共演者によって、自らが生かされる演技が特徴に思える。
龍馬伝なんて、モロそうで、香川照之さんの個性で救われた点が多かったように思う。
今回はそれがマイナスに出ているように感じてしまいました。
福山雅治さんを打ち消さない、強烈な個性を放つタイプではない石田ゆり子さんを相手役にしたのに、逆に福山雅治さんが引き立たないーー。
噛み合ってない。
そう感じてしまいました。
一目惚れ映画
多くの映画を観たわけじゃないけど、一目惚れ映画でグッときたのは、僕の中ではダントツで、邦題「アデル、ブルーは熱い色」です。
同性愛の映画で、かなり過激な性描写で話題となった作品ですが、ここで描かれている二人の、狂おしいまでの「愛の必然性」
特にアデルがエマに一目惚れする場面は印象的です。
目つきだけで、愛の必然性を語る二人の演技。
レベルが高いです。
あんな恋愛映画を日本の映画でも観たいものです。
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というわけで、結果的には批判ばかりになってしましたが、感想でした。。。
やはり、小説「マチネの終わりに」を基にした映画版「マチネの終わりに」と呼ぶのが、相応しいんだろうなーー。