コヘレト(=コーヘレト、コーヘレス)の宗教は旧約聖書に出てはいるものの、現代においてはユダヤ教よりもキリスト教…それも否定神学的ではあるが神秘主義的ではないです。コヘレトをペンネームとする記者はソロモン王に扮してはいますが記者は一人ではないらしく、内容的には民族主義的意識は薄いです。自分にとってキリスト教という宗教はあくまでも聖書的宗教が説く救済の媒体であり、教会組織は個々人が聖霊のはたらきによって対神関係を得て救われるための媒体にすぎないのであり、私自身はコヘレトの宗教を参考にしたいと思っています。関根清三氏によれば「実際コーヘレスは終始、他者と出会っていない」と言われ、四章1-4節に関しては「結局は虐げられた他者のために労さずただ拱手傍観している、そういう知者の姿が図らずも露呈されて」いると言われています。二章18-19節については「後世に対しては、自分の子も含めて関心を示しません。親や隣人は視野にすら入ってきません。女性も概して軽蔑の対象でしかありません。その他たとい他者に関心を抱く場合もコーヘレスは結局、己の利益になるか否かというエゴイズムの視点でしか見ることができなかったように思われるのです。例えば『一人より二人の方がよい』(『コーヘレス書』四章9節)と言われますが、その理由は『二人なら、一方が倒れても他方が助け起こしてくれる、二人で一緒に寝れば暖かく』て、得だ(『コーヘレス書』四章10-11節)というわけです。」とのことです。但し、岩波書店版の勝村弘也氏の解説では、「友人はいた方がよいのに決まっている(四7以下)。」と書かれています。いずれにせよ、コヘレトは関根氏が言うほど他者との関係を「己の利益になるか否かというエゴイズムの視点」だけで見ていたとは自分には思えません。

神観についても「コーヘレスが応報の神を否定した先に発見した神は、他者を排除した次元で、己一個のエゴイスティックな快楽において辛うじて感じ取られるような神でしかなかった、と言わざるを得ない(中略)コーヘレスは終始エゴイズムを抜け出せず、他者については、これを排除するか、己の利益の問題に還元するか以外、遇する術を知らない」などと、散々な言われようで(以上、『倫理の探索』中公新書 p24~27)、関根氏自身はそのようなコーヘレス(=コヘレト、コーヘレト)の神観は、応報の神の否定という点では時代的な因果応報の考え方の破れの認識として承認しつつも、それだけでは限界があり倫理にはダメであって、「他者関係をも視野に収めた、新しい神」を旧約聖書(の特に専門とされているイザヤ書)に求めるというわけです。しかし関根氏のこのようなコヘレト批判には、それこそ知識人で学者としての社会的地位を得ている人の健常者中心的な考え方が滲み出ていて、家族に恵まれない人…特に社会的に孤立した境遇にある少数者の心理などがどこまで考慮されているのか疑問です。

 

(コヘレト嫌いの聖書科教師の女性への書簡)

ある時私は貴女に、太宰文学についての感想を問うてみたのでした。私は『風の便り』という太宰の書簡小説が好きで、「ヱホバを畏るるは知識の本なり (愚なる者は智慧と訓誨とを軽んず)」という箴言1章7節が効果的に引用されているところなどは特に興味深いのです。貴女も『風の便り』はとても好きな小説だと言っておられましたね。書簡体で聖書の言葉が引用されている短編小説と言えば『トカトントン』も挙げられます。私はそんな太宰作品の影響もあって、聖書は文語訳で読む習慣がつきました。だからキリスト教の神さまに対する呼び方は、「エホバ」がいちばんしっくりくるのです。私は太宰氏に対抗するわけではないですが、「ヱホバを畏るるは知識の本なり」(箴言1:7)よりも「ヱホバを喜ぶ事は汝らの力なるぞかしと」(ネヘミヤ8:10)という聖句の方を好んで引用します。創造主との関係に身を置くことが何より生きる力になるからです。そんな話は、将来この手紙を公開した時には、読者の大半がどうでもよいつまらぬ話題であると思うだろうことは重々承知のうえで今書いているのですが、私自身にとってはどうでもよくはなく、それはあなたの場合も同様のはず。私たちにとって、聖書の神関係の話題こそが三度の飯と同じくらい重要ですよね? そうですよね? こんな喩えは適切かどうかがわかりませんが、よく皇位継承問題で熱のある議論を闘わせておられる先生方を見ると、この人たちにとっては皇統とか国体といったことが三度の飯と同じくらい重要なんだろうなあ…と思うのです。そしてじゃあ僕は…? と思った時に、そうだなあ、たしかにこんなちっぽけな日本国も僕にとっては祖国であり、その国の中に生まれ育っていろんな恩恵を受けているが、それもまた僕にとっては創造主エホバの定めであり摂理によるのであって、いかに祖国は大事であり自衛のための戦闘であれば協力も辞さないとは言え、しょせん人間の事柄には自分個人の人生も人類の未来も託せないから、いちばん重要なのは天皇陛下ではなく創造主エホバだなあ(ここで多くのクリスチャンはイエス・キリストだなあ…と言うのでしょうが)…、聖書の唯一神との関係だなあ…と思うわけです。それってべつに矢内原忠雄氏の(戦後は天皇の現人神信仰を完全否定したとは言え)天孫降臨の神勅を唯一絶対神エホバの経綸によるものとし、現実の天皇は国家的において神性であるなどと言った二重性というか詭弁的な思想を考慮してということではありません。誰が言ったというわけではありませんが、我に執着するから西洋流の個人主義はダメで日本人は忠の精神が大切だ、忠君愛国だ、国柱会に入った宮澤賢治の如く個人の幸福の前に国家および世界人類の幸福を考えよ、世のため人のためだ・・・などといった声が聞こえてきそうですが、現実には幸福の観方など人によって違うわけで、真理は不変かつ普遍であるとしても、イエスが言ったように聞く耳のある人しか聞かないわけであって、誰であっても傾聴し、どんな状況に在る人でも関心を向けるようなテーマといったものは高次では無いわけで、その置かれている状況に関係なく誰でも関心を向けることはマズローの欲求階層で言えば欠乏欲求…それも低次の生理的欲求や安全欲求の対象であって、どうしてもエゴが出がちになりますよね。よく、社会に役立つかどうかが一番の決め手だとされますが、まず自分自身にとって役立たなければ社会に役立つかどうかなんてわかりません。だから自分自身の人生にとって必要な事として、私たちは神信仰のことを考え語り伝えているわけです。人生全体にとっての指針となる成長欲求の対象となるようなものは多様だし、関心の度合いも人によって生活環境が違うので当然異なります。そうだ、そうだ、と首肯しておられる貴女の麗しき御容姿を想像いたします。皇位継承問題といったテーマは、本当なら全国民にとって関心あるはずでしょうが実際にはいわゆる保守と呼ばれるような一部の自称愛国者たちの最大関心事となっており、一般国民にとってはそれよりもっと切迫して関心ある課題が日々の暮らしの中でたくさん生じるわけです。ましてや対神関係のテーマも一部の宗教者にとっての関心時であり、多くの非宗教的国民にとっては無関心であると言っても過言ではないでしょう。しかし実は、いったんこの対神関係に入る恵みの機縁および信仰を得た者は、それが一国の民にとどまらず全人類にとってはかりしれない意義があることを体験することになるのです。そこでは引きこもりや自殺願望などの絶望的な問題も解消されます。人間が創造主の定められた生命の法理に適って信念をもって生き得る道が開き示され、その道を歩んでゆけるように聖霊によって心が変えられてゆくからです。無論、対神関係は対人関係から乖離してはいないので、聖霊のはたらきも脳内物質の作用などを媒介せずしては起こらないでしょうけど、唯物論者に如く諸宗教的現象を脳内の現象に置き換え、せいぜい自然界に内在するはたらきによるものとして説明することは無理であり、どうしても自然環境をも超えた外からの超越的な他力のはたらきを想定しないではおれないのです。命を尊び救おうと志す人は創造主との関係に入ることを抜きにしてはあり得ないわけで、創造主を畏れず科学の力だけで医療や介護で成果をあげようとしても矛盾する事態を招いてしまいます。だからこのようにして人間の自力の限界と聖霊の他力の恵みを啓発する使命を持つ私たちは、当然ながら対神関係こそ人生の最大関心事として常に心を向けるわけです。ちなみに小室直樹氏は天皇神格化とキリスト教との関係について次のように述べておられます。「天皇は神である。天皇が正しいことをするのではない。天皇がすることだから正しい。これが、天皇イデオロギーの教義(ドグマ)。この教義が復活した。復活することによって、天皇は『真の神』となった。カルケドン信条における『真の神』のごとき神となった。これぞまさしき、キリスト教的神である。イエス・キリストは『真の人』であり、『真の神』である。(中略)キリストは神であるかどうかをめぐっては、熾烈な論争が繰り返された。この論争の重要さは、強調されすぎることはない。キリスト教を理解するためにも、キリスト教を補助線とする天皇教を理解するためにも。(中略)イエスは、復活によって、真の人、真の神になった。死んで、また復活。これが、キリスト教の根本教義。(中略)神としての天皇の死と復活の過程も、これと同型。『天皇は神である』とする古代以来の天皇イデオロギーは承久の乱で死んだ。そして、崎門の学を中心とする論争過程を通じて幕末に復活する。子の死と復活の過程を通じて、天皇の神格は確立された。真の人、真の神として。人間の肉体をもった神として。現人神として。キリスト教的な神として。」(『天皇の原理』文藝春秋社)ところで、子どもの頃から内向的だった私が、文章を書いて飯を食う仕事で生活するという唯一の生きる目標を大学中退によって見失って以来、他力によって乱れがちな精神をなんとか支えて頂く以外には、正気で生きてゆける術を持ち得ない半死半生の自分がいるのです。具体的には、どこかのキリスト教会に通って一人の信者としての生活を送ることを抜きにしてはあり得ないわけで、それが人生のベースになるってことなんですが、それにしたって私が自分に対して思うことは、到底、ふつうの教会の一信徒としてコツコツやってゆけるような状態ではないってことなんです。最早、ふつうのキリスト教ないしはふつうの宗教ではダメなのです。しかし貴女に会えるという目的を得て私は、ずっと通い続けるわけではないという気楽さも手伝って、久々にふつうの教会に行く勇気を得たのです。私は貴女に会うたびに聖母マリアさまのように見えてどんどん敬愛するようになっていました。しかし私の印象では、貴女は太宰をあまり好きではないようでした。さらに貴女が好ましくないということで紹介なさったのが旧約聖書のコヘレト書です。ニヒリスティックなところがなじめないと言ってましたよね。しかし私にとってはそれこそがコヘレトの魅力の一つなのです(以下、私は引用文での呼び方に呼応してコヘレトと呼んだりコーヘレトと呼んだりして一貫しませんが、どっちの呼び方でもいいと思っているので気まぐれです。ただしコーヘレスという呼び方は引用文の中では認めますが、自分は採用いたしません)。太宰にせよコヘレトにせよ、貴女が批判的に言えば言うほど、そのあげつらわれる事柄が私にとっては自分が求める何かとの出会いを仲介してくれるように感じられたのです。まずもって神さまのお名前のことです。貴女は、聖書が示す神さまを「エホバ」と呼ぶことは好まれませんでしたね。たしかに「エホバ」は、今どきの教会では避けられる神の呼び名です。学者さんは発音が正しくないとおっしゃるし、牧師さんは異端とかカルトだといわれるあの団体の名称に関連付けて批判なさいます。しかし私はそれでも聖書が示す神は「エホバ」という名で呼びたいのです。私が聖書の中でいちばん好きな『傳道之書』すなわちコヘレト書においては、神は「エロヒーム」の訳語としての「神」と呼ばれて、「エホバ」は5章1節の「汝ヱホバの室にいたる時には」云々と、同7節の「汝ヱホバを畏め」くらいしか見当たりません(ヘブライ語原文では「エロヒーム」)。そのことに関しては貴女も学生の時にハマったと言われた有賀鐵太郎博士の御著書で次のように言われてますよね。「かれは神をヤハウエとは呼ばず、ただエローヒームと呼んでいるから、民族的色彩は稀薄であると見なければならないが、それにしてもかれの体系(それをそう呼ぶことを許されるとすれば)は神の存在を要請する。(中略)かれの『神』(elohim)は伝統的ヤハウェ神の概念とは甚だしく離れているようであるが、なおかれの哲学をヘブライ思想の流れの中に把握することは可能でもあり、又それが妥当でもあると考えられる。けれどもコーヘレトの神は自己啓示の神ではなく、全く自らを隠す神、近き神ではなく遥かなる神である。その神の意志や計画を人間はその知性を以てしても又その道徳的規範に照らしてみても測り知ることはできない。しかしながら、その知られざる神、交通不可能な神が実在するということは、これほど確実なことはかれにとって無いのである。コーヘレトは神をただ天上高きところに祭り上げているのではない。むしろ、かかる神の存在の要請がかれの思想を成立させる根底にあることを見逃してはならない」。そして次のようにまとめておられます。「コーヘレトに宗教がないとは言えないことは既に見た処によって明らかである。かれの宗教はかれをして、絶望ののちに、生命の貴さを改めて認識させる。人間が徒らに目的を追うて労苦するかぎり、生は厭うべきものであるに違いないが、それは生そのものが悪だというのとは異なる。人間が今ここに生きているという事実、これこそはかれにとって掛替えのない貴いことなのである。このように観点が変われば、悲観論は消える。『日の下に』あることはもはや苦痛を意味せず、却って喜びをもたらす。『そして光は快い、また太陽を見ることは目に楽しいことである』と言えることになる。その楽しみと喜びとは追い求むべき目的ではない。それが追究された時には喜びは忽ち失せる。喜びは今ここに、この太陽の光の下に営まれる生のうちに既にある。『人間が食い且つ飲み、その労働のうちに自分の魂を楽しますこと、それに優る善いことは人間にとってない。また此の事をわれは見た、即ち、それは神のみ手から出ているということを。』『われは彼らが喜びをなし、その生きる限り楽しみをなす以上に彼らにとって善いことはないと知る。また凡ての人が食い且つ飲み、その凡ての労働において楽しみを味わうことは神の賜物である。』生の喜びは勤労のうちにこそ味わわれるものであることをコーヘレトは強調する。それは神の御手から来る賜物である。それは神によって人間に与えられた『分』(heleq)である。それは君のものとして与えられている、それだけを自分のものとしてしっかり掴め、というのがかれの教えの結論である。」(赤字部分は私が特に重要だと感じた箇所です)。ちなみに「そして光は快い、また太陽を見ることは目に楽しいことである」という点は科学的にも正しくて、御存知のとおり日光浴は脳内のセロトニン分泌を促し精神の安定につながるので、散歩している時に日光を浴びると、とても楽しい感じになります。夏は別ですが、他の季節は晴れた日の朝、私も欠かさず散歩しているので実験済みです。紫外線を浴びる量が少ないとビタミンDが不足して免疫力が低下し感染症にかかりやすくなるのでやばいですよね。聖霊によって再生された理性で思考することが信仰的に有意義な生き方になるように、セロトニンによって安定した精神で生活することが幸せな人生の基本になるのだと思います。対人関係が円滑になってこそ人は幸福感を得られると思うからです。コヘレトはそのような幸せな生き方を対神関係にもとづいて実現していた人ですね。彼にとって対人関係は対神関係と不可分であり、対神関係が充実していたからこそ対人関係も充実していたのでしょう。コヘレトの神は絶対者だからこそ、空なる現実を相対視して冷静に受けとめることが出来たのだと思います。彼は現世利益や来世至福を得ることを主たる動機とするような宗教は否定していると言ってよいと思いますが、けっしてエイシストでもなければニヒリストとかエゴイストでもなく、むしろ虚無的で利己的な人間の現実世界の中でいかにして本来の人間らしくかけがえのない人生を肯定的に生き得るか? という知恵を示してくれているように思われます。その具体的で基本的な内容が、2章24節や3章13節や5章17~18節や8章15節で言われている「食い且つ飲み、その凡ての労働において楽しみを味わうこと」です。そしてそれは「神の賜物」であるとさえ言われています(3章13節、5章18節)。そして9章9節には「あなたの空しい一生涯、愛する妻と共に人生を見つめよ。それは、あなたの空しい歳月を通して、日の下で、〔神が〕あなたに与えたものである。これこそ、その生涯において、日の下で労苦するあなたの労苦において、あなたの〔受け取る〕配当なのだ。」といった言葉も見られますが(岩波書店版 月本昭男訳)、私たちのような庶民のそれも低所得世帯などとは別世界の高等遊民のような生活を送っていた可能性がある人物の言葉であるにもかかわらず、どういうわけかコヘレト書の教えは私にとって聖書全巻の中でも突出して心の中に響いてくるのです。おそらく社会階層の違いなど関係なく人間存在に普遍的な真実にふれているからなのでしょう。岩波書店版旧約聖書で「コーヘレト書 解説」を執筆なさった勝村弘也氏は次のように述べておられます。「彼はイスラエルの神ヤハウェについては一言も語らない。常に『神(エロヒム)』(合計四〇回)と言う表現をとるが、このうち二六回には定冠詞が付けられている——あたかも『あの神』と言うように——。(中略)いかにもコーヘレトは、人間に何かを与える神についてしばしば語る。しかし人間には神の意思が結局は知りえないのだとすると、感謝のような仕方での神への応答は不可能である。神と人間との人格的な交わりはここには成立しない。だとすると伝統的な意味でコーヘレトが神を信じているとは言えまい。以上のような解釈が一応は成り立つ」。・・・ということで、この手紙がレポート調になってしまって誠に恐縮です。貴女が有名なキリスト教大学を出て留学先では神学の博士号まで取っておられる聖書科教師であることを意識してしまって、手紙なのにこのような恐れ多い事態に立ち至ってしまっております。失礼をどうかご容赦願います。それにいたしましてもコーヘレトの神観は「伝統的な意味」での人格神観、すなわち因果応報的神観ではないとの説も成り立ち得る旨が言われておりますが、私にとってはそのような非人格的な神観の方が本来的神観である「霊」ないしは「空」に近くなるから良いとも思えるのです。旧約聖書学者の並木浩一氏が私に示唆して下さったように、人格神観には常に擬人神観に堕するおそれがつきまといます。特に現代のような無神論的人権イデオロギーが猛威をふるっている時代、神の主権というものが無視される傾向にある時代には、人格神観の強化は阻止されて然りです。この点は先に引用した有賀氏の「コーヘレトの神は自己啓示の神ではなく、全く自らを隠す神、近き神ではなく遥かなる神である。」という言葉とも関連するわけです。私はさすがに「自己啓示の神ではない」とまでは思えません。本来は人知でとらえようもない「霊=空」とでも言うしか表わせない「神」が自己を限定して「啓示」ということをなさったからこそ(…と擬人的表現になるのは人格神観の限界ですが、聖書的神観は人格的に表現せざるを得ない面を否定できないわけで、あとは近いか遠いかといった関係の距離感の違いであって…)、私たちはそれを「神」として認識できているわけで、それが聖書にいろんなイメージを喚起しながら描き出され物語られているのだと思うからです。勝村氏ご自身は、「しかしながら、コーヘレトが自己の省察から虚無主義的な結論を引き出した形跡は見当たらない。彼があまりにも多くの世界の不条理を前にして、伝統的な意味での神による世界統治を信じていないとしても、世界が美しく造られてあることは認識されている(三11)。(中略)コーヘレトは『神への畏れ』について語ることすら出来た(三14、五6、七18等)。それが伝統的な意味での敬虔を意味するのではないとしても、彼が或る種の宗教性にとどまっている証拠と見ることは出来る。」と言われています(同上)。つまり、因果応報的ではないにせよ、人格神観はある程度は受け継がれているということのようです。これに対して、言わずと知れた日本の旧約聖書学の大御所であられる関根正雄博士の御子息である清三氏は、コーヘレスが応報の神を否定した先に発見した神は、他者を排除した次元で、己一個のエゴイスティックな快楽において辛うじて感じ取られるような神でしかなかった、と言わざるを得ないのではないでしょうか。」(~『倫理の探索』中公新書)と、とても厳しい批判をなさっておられます。これではコヘレトの神観は、人格神観に至らない偶像的神観ということにもなりそうですが、他方では、「『全てを空』と断ずるならば、自分の神理解も『空』でないとは言い切れないという自己相対化の眼差しがあるようにも思われる。(中略)しかしその神は天に隔絶された存在だとしても、地にいる人にその働きすら全く感じ取れないというわけでもない。(中略)(コーヘレス書三12—14。他に同三22、五18、八15、九7-9)このような人生のささやかな愉悦において、コーヘレスはかろうじてこの隠れた神と出会っているのである。ただここにおいて、人生の空しさは微かであるが画然と満たされているというのが、コーヘレス書全編の結論のように思われる。コーヘレスの神はヘベルの対極に位置して人をその空しさから救い取る存在ではなく、かえってその洞察しがたい業において人間存在の空しさの窮極的な原因となっているという、アルベルツの先の指摘は従って、大綱において当たっているけれども、コーヘレスのこの結論部を不当に無視していると批判されねばならないだろう。」(~『旧約聖書の思想 24の断章』講談社学術文庫)ということで、コーヘレスが「かろうじて」ではあるが出会った「隠れた神」は、「天に隔絶された存在だとしても、地にいる人にその働き」(~コヘレト5:2「神は天にいまし汝は地にをればなり」)がいくらかは感じ取れるということだから、偶像とまでは言えないということにはなるのでしょう。そこいらへんは自分にはよくわかりませんが、そんなことより、関根氏が「自分の神理解も『空』でないとは言い切れない」云々の、その「空」の神理解こそ伝統的応報神を越える新しく窮極的な神観ではないのかなと自分は感じました。ド素人のくせに生意気なもの言いでしょうか? しかしそれは「神は霊である」という聖書の証言に合致するし(ヨハネによる福音書4:24)、伝統的な因果応報の物語における擬人化された神イメージというのは啓示のうえでの比喩であり、真の神を表わているわけではないと私は思うし、擬人化を避けられないと云われる人格神観は乗り越えられなければならないとも思うので、ますますコーヘレトの神信仰が私自身にとってのそれにつながってくる爽快感を得ました。

私にとって宗教は、何よりも人間関係でのストレスを緩和するために必要です。この世で生きてゆくうえでは対神関係だけではなく対人関係も避けられません。心理学者の岸田秀氏が、「実際、現代においては自我の安定が崩れるのは他者との関係においてです。」と述べておられるとおりです(『希望の原理』青土社)。学校や職場や地域での他者との関係こそがストレッサーであり、現代人の多くを鬱病などで苦しめる元凶です。そこで多くの人が救い主とみなすのが心理療法であり、特に今は認知行動療法が注目されておりますが、私は認知の歪みを変えるのに最も有効であるのは神信仰だと確信しています。確かに宗教が不適切なスキーマとなって認知を歪めることもありますが、そのリスクを冒してでも矯正しないと立ち行かない精神状況もあるわけです。よく、登山など大自然に包まれる経験をすると日常生活での対人関係での悩みがちっぽけなことのように思われて心が解放感で満たされる…みたいな話を聞きますが、それと似たようなことが対神関係において体験されるので、私はそれを信仰的認知行動療法と呼んでいます。もちろん両関係は不可分で不可同であると同時に不可逆であり、人生の最終的な救いはコヘレト書に示されているように対神関係の優位性の中に実現されるのではありますが、その境地を体験するには日々の労働における諸々の困難や苦悩もひとつひとつ乗り越えてゆかなければならないし、その個別で特殊な過程の経験においてこそ弁証法的に、普遍的で永遠なる救済の真実を味わうことができるのでしょう。「神」は聖なる「霊」であり、自己限定および自己対象化としての「啓示」によって、おもに「愛」と「義」のはたらきをする人格的存在である創造主にしてイスラエルの神・エホバとして聖書に物語られ、この世の諸々の価値が絶対化される偶像崇拝を打破すべく常に超越・絶対なる主権者として歴史的社会的現実を統治するのです。その主権者である神の聖霊によって私たちは自分を束縛するあらゆる権威から解放されて自由になれるのですよね。それではイエスとは何者なのでしょうか?イエスがキリスト(救い主)であるということは、私たちの対神関係において、どのような意味を持っているのでしょうか?すくなくとも言えることは、イエス・キリストは神の子ではあっても神の化身ではないし、彼を神とみなす場合には、その「神」の意味は賛美の表現であって、御父を創造主なる神と言う場合の「神」とは意味が異なるということです。その点で現在の日本でパウロ神学研究の第一人者と目される青野太潮氏は、「イエス・キリストは『創造主』なる神ではない以上、『創造主』なる神があってはじめてイエス・キリストも『存在』する。つまり、『キリスト論』の前に『創造主』についての『存在論』がなくてはならないはずである。」と述べておられます(~「『障害者イエス』と『十字架の神学』」)。そうです、コロサイ書などのキリスト神話においてイエスを創造主であるように書いてありますが、それは「ディア」という前置詞の意味をよく受けとめずに「よって」と解し訳したことによる誤解です。テモテ一2:5にあるとおりイエスは「神」ではなく「人」であり、商者の仲介者…すなわち媒体です。彼自身、神という目的に至るための「道」だと述べているとおりで、彼自身は目的ではないのです。私にとって新約聖書における所謂「キリスト神話」は歴史的事実とは異なる次元での事実として、すなわち科学的に追及し得る客観的事実ではなく信者の共同主観的事実として信じ告白される事柄です。貴女にとってはいかがでしょうか? ではこのへんでペンを置きたいと存じます。どうぞお元気で。在主