2:22 実際、日の下で労苦し、労苦の限りを尽くし、心で

     辛い思いをする人に、いったい何が残るというの

     か。

  23 実に、彼の全生涯は痛みの連続、その営みは憂いそ

     のものであって、夜も心は休まらない。これもまた

     空である。

  24 食べて飲み、自分の労苦に幸せを見てとること、

     これ以外に人の幸せはない。

     私は見きわめた、これもまた神の手による、と。

  25 たしかに、本人をおいて誰が食べ、誰が煩うのか。

  26 たしかに、神は善人と判断される人に知恵と知識と

     快楽を与えるが、罪人には〔富〕を集め、かつ蓄え

     る務めを与え、〔その蓄えを〕神に善人と判断され

     る人に与えてしまう。これもまた空であり、風を養

     うことにほかならない。

西村氏の注解では、22節が「まことに人間にとって、日の下で労する彼のすべての労苦と心の追い求めに何があるか?」、23節が「一生彼の労苦は痛み(憂い)と悩み 夜も彼の心は休まらない。これもまた空である。」、24節が「人にとって食べることと飲むこと、彼の労苦で得た良いものを彼の魂に見させることより良いことはない。これもまた神の手によることを見た。」、25節が「私以外に、誰が食べ、誰が楽しむのか。」、26節が「神は彼の前に良い者には知恵と知識と喜びを与え、間違うものには労苦を与え、集めて積ませ、神の前に良い者に与える。これもまた空であり、風を追うことだ。」と訳されている。24節で言われている「幸せ」については注釈で、<分に応じた現前の生の享受の勧めとも読めるが、「労苦」に「幸せ」を見るという点は逆説的。>とある。コーヘレトの「神(観)」については解説にあるとおり、固有名詞の「ヤハウェ」とは言われず普通名詞の「エロヒーム」で表わされているが定冠詞の付いた箇所もあり、それによって「あの神」と言うような関係性が示唆されている。25節は「神なしに食べて楽しむことはできない」と解することも可能なのだそうだ。そうであればまさに「神」にこだわり、「神関係」を第一とすることは飲食と同じくらい切実で大切なことだということになる。決して観念の遊戯などではないのだ。生活がかかっている。23節の「憂い」は今の自分にとって痛感し得るところである。24節の知足の幸は、「神の手による」もの、すなわち摂理として見きわめられなければあり得ない。その見きわめは、いくら言葉を尽くして伴侶に伝えても理性より感情が先に出るからなかなか難しい。とても現状に「幸せ」を見出すことは出来ないようだ。鬱のマイナス思考は深刻である。本人も頭ではよくないとわかっていてもどうしようもないらしい。26節は現代社会に置かれた自分にとっては資本主義とか格差社会の矛盾、不条理と関連付けて読んでしまう。正直者はバカをみる・・・ではないが、頑張る人がその分、報われる社会というのはキレイゴトである。私は個人作業にこだわるのも、これまでチームワークの仕事では自分が真面目にやっても不真面目な人のために報われないこと、それより要領がいいとか社交性があるとかいった人が真面目さとは関係なく得をするケースを経験してきたからである。
特に老子の言葉を想起させられた。44章の「知足不辱、知止不殆」は、「足るを知れば辱(はずか)しめられず、止(とど)まるを知れば殆(あや)うからず」と読む。文脈は名誉や財産を重んずる生き方の批判である。つまり「名誉や財産にとらわれず満足する事を知れば屈辱などとは無縁になり、ほどほどを心得ていれば自らを危険にさらす事も無い」ということ。

五木寛之氏が『人間の覚悟』で、憲法二十五条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」について、<権利がある、ということと、国によってそれが保障されている、ということはまったく別物なのです。国があり国民があるということの意義は認めつつも、国や法律が自分自身の身の周りの様々なことまで守ってくれる、と考えるのは見当違いです。もちろん、生老病死といわれる人生の「四苦」、心の中の苦しみなどは国の関知するところではありません。>(p90)と述べていることはけだし至言であると思う。日本人は良くも悪くも、国立,国産幻想、公務員幻想が強すぎる。とにかく出来得る限り、生活保護の受給申請などせずに済む人生設計をし、厳しい経済状態の中にあっても自助努力を惜しんではならないと思う。日本的「恥」の感覚には悪用された部分もあるが、有意義な部分も含まれている。その「恥・辱」の感覚までもが失われたら人間おしまいと思うくらいの危機意識が必要だ。「知足不辱、知止不殆」・・・この後に「可以長久」(もって長久なるべし)とくる。つまり「この様にして安らかに暮らす方が良い」ということ。

参照:http://blog.mage8.com/roushi-44

コーヘレトの思想に近い感じがする。ただ、「神関係」を前提としているか否かの違いが大きい。なお、33章では「知足者富、強行者有志」(=「足るを知る者は富み、つとめて行なう者は志有り。」=「満足する事を知っている人が本当に豊かな人間で、努力を続ける人はそれだけで既に目的を果している。」)、32章では「名亦既有、夫亦將知止。知止所以不殆」(=「名亦た既に有れば、それ亦た将に止まることを知らんとす。止まることを知るは殆(あや)うからざる所以(ゆえん)なり。」=「名前がつくと他の物との区別が生じてそれが行き着くと差別となる。だから物事の区別は程ほどにしなければならない。程ほどにしておけば危険が生じる心配が無い。」)とある。

3:1 日の下では、すべてに時期があり、すべての出来事に

    時がある。

  2 生むに時があり、死ぬに時がある。

    植えるに時があり、植えられたものを抜くに時があ

    る。

  3 殺すに時があり、癒すに時がある。崩すに時があり、

    建てるに時がある。

  4 泣くに時があり、笑うに時がある。

    嘆く時があり、〔喜び〕跳ねる時がある。

西村氏の注解では、1節が「すべてに時期(季節)があり、天の下のすべての出来事に時(機会)がある。」(「時(機会)」は「あることを正しくするための正確な時(後略)。」と記されている。)、2節が「生まれるに時、死ぬに時、植えるに時、植えられたものを抜くに時。」、3節が「殺すに時(があり)、癒すに時(がある)、壊すに時、建てるに時。」、4節が「泣くに時、笑うに時、悲しむ時、踊る時。」と訳されている。

この3章の「時と永遠」の箇所は、教会では葬式で読まれることもある。しかし3節の「殺すに時があり」は場違いな感が否めない。ATDでは「時」に関して次のように記されている。

<広がりを持った時、期間ではなく、点としての時、カイロスと解されるべき「時」の重要性についてコーヘレトが考えているので、彼もまた、まさに一般的知恵の思想線上にあるようにまずは見えるかもしれない。「存在と時間」や実存の「歴史性」という問題に悩んでいる時代にとって、人生のすべてが「時(カイロス)」に結びつけられていることについて徹底して問うコーヘレトは、意外なほど同時代的であるように思われる。(中略)期間と時点と区別して理解すること、すなわち、コーヘレトの「時の陳述」の理解の規範に対するこのような鋭敏でない理解は、九章11節の(※)エート・ヴァーフェガア「時と偶然」という表現によって否定される。「突然に訪れる時」についての主張は九章12節によって示唆されている。>(※はヘブライ語表記。)

インタープリテイション日本版の第63号「特集 コヘレトの言葉」に収められている《テクストと説教の間》コヘレトの言葉3章1-8節(~E・C・ブリッソン)113頁以下から一部引用。<この哲人の知恵に関する最も一貫した肯定的見解は、時に関する彼の教訓の中にあり、それは『コヘレトの言葉』第三章の冒頭に置かれた、強烈な印象の、そして今となっては有名な詩のなかで表されている。この詩――その少なくとも一部はどこかに典拠を持つものかもしれない――は、今が何の時であるのかを知ることの徳を賢者に終始一貫して勧めている。その詩は人間の行為と経験についての一四の対照的な組合せとして展開する。ここで与えられた文言によって、時を知ることと知恵との関係についてのコヘレトの見解(三の二―八)を、読者や聴衆が吟味できる。大きく捉えてみると、これらの一四組の対立項は詩に完全さの響きを与え、また一四の数は、複雑な世界を創りあげ、またさらに水浸しにするのに必要な日数を象徴しているのかもしれない(中略)。三章五節の石を集めたり投げたりの曖昧なくだりについてコメントなしに済ますことはできまいが、説教者は、あるいはおそらく教師もまた、話を聞く共同体のためには、これらの組合せの対比を一々詳しく説明するのを避けたほうがよいだろう。一行ごと、あるいは組合せの縦横なパターンについて一つ一つ扱うよりも、コヘレトの思索が展開する広い舞台の上でいかに詩が機能するか、これを示唆し得るイメージを喚起する方が、説教や講話において有効だろう。>(p116)・・・・こう言って記者は、「宙づりになった車輪として時をイメージする」比喩により説明している。傑作だと思ったのは終わりの方で、「私は二つの行いを勧めたい」(p117)と述べ、「説教や講話の際、大きな声でコヘレトに四たび感謝の言葉を述べよう。見者としての彼に、その営みにおける勇気と率直さとに感謝しよう。次に宗教哲学者としての彼の教えに、すなわち、契約における正しき応答へのいざないとして、困難のときも順風のときも、時を知らねばならない、という教えに感謝しよう。詩人としての彼に、(中略)巡礼者としての彼に」感謝することを勧めていることだ(p118)。コヘレト教とでもいった宗教が生まれそうだ(笑)。

締めくくりの要所は、「クロノス(量的時間)の無視や軽視、乗越えや廃棄ではなく、クロノスをさらに高めた時、時そのものの瞬間毎の究極的な悦ばしき贖いと再創造によって、実に、時自体が更新され、その時は満ち足り、空しさではなくなる。」(p118)というところだろう。でも意味はよくわからない。イエスの「時は満ちた(ペプレーロータイ ホ カイロス)」(マルコ1:15)の終末的な「救いの時」が今成就した(「ペプレーロータイ」は「プレーロー」〔満たす、成就する〕の三人称単数の現在完了形の受動態)、その「時」と関係ありか?

月本訳(岩波版)では、この箇所の要点は注で記されている。<以下、一四対の相反する行為を列挙し、一方で、日常的な行為や出来事にはすべて一定の「時」があると語り、他方では、そうした「時」は神によって定められた永遠の相の下にあり、人間には見きわめ得ないという(三11、七14、八7他参照)。「時期」の言語ゼマンはアラム語からの借用語。巻末用語解説「時」参照。> とのことで、まず、参照聖句を挙げておく。

3:11   神はすべてをその時にかなって美しく造り、加え

     て、それらの中に永遠〔性〕を付与した。※ だが

     人は、神が造った業の初めから終りまでを見いだす

     ことは〔でき〕ない。

(注)※<すべての事象が永遠の相の下におかれているということ。「彼ら(=人の子ら)の心の中に永遠〔性〕を与えた」とも読めなくはないが、原語上、多少の不自然さがのこる。>

西村氏の注解では、<すべてを彼はその時に(かなって)美しく(ふさわしく)作った。また「(時空の)持続」を彼らの心の中に与えた。人は神が始めから終わりまでなす(なされる)ことを見出すことのないままに。>と訳されている。その他、詳しくは後述。ヘブライ語の「時」は女性名詞「エート」(または「エース」)でギリシャ語の「カイロス」に相当する。3:1で「時期」と訳されている語は前記の引用で「ゼマン」と言われている。有賀氏は3章1~8節の箇所で「時機」(eth)という概念に注意を促して次のように述べている。<肝要なことは、その全体を通じての意味が何であるかを知ることである。そして、それはいうまでもなく繰り返し用いられている「時機」なる語の解釈にかかっている。それはギリシア語のカイロスに当たり、セプツアギンタでは正しくもその語を以て訳している。それにしても、それがここで如何なる意味に用いられているかが問題となる。それは何かを為すに「適切な時機」の意にも取られ得るし、或る事が正に生起すべき「定められた時機」とも取れる。もし前者の意味に取るならば、右に掲げた言葉は主として実践的な勧告でしかないであろう。だが、それよりも更に基本的な意味として「定められた時機」の意に取れば eth はもっと哲学的・原理的意味を得る。その時機が来れば必然的にその事は生起する、その必然性の原理がこの語によって表現されているのである。恐らく、この意味に解することの方が正しいと考えられる。それでは今一つの語
zeman―― ここには単に「時」と訳した ―― は何を意味するのであろうか。この語は旧約では極めて稀にしか出て来ないものであって、古代ペルシア語の zrvan 又は zrvana がアラム語を経てヘブライ語彙のうちに入ったものとも推定されている。けれども抽象的時間の概念は元来ヘブライ人には欠けていたので、この語も一般には `eth と同義に、すなわちカイロス(occasion;season)の意味に用いられていたのである。だがここにコーヘレトはこの語をそう解しているのか、それとも「時機」と区別された意味での「時」すなわち抽象的・客観的な時の意に用いているのか。いずれにせよ、セプツアギンタの訳者は両語の区別を認識して、zeman をホ・クロノスを訳している。もしそれがコーヘレトの真意を穿ったものであったとすれば、旧約聖書においてただこの一箇所だけに抽象的時間の概念が出て来るものと認めなければならないでもあろう。それがコーヘレト自身によってただ一回だけ用いられているとしても、かれの思想の全体と連関させてそれがかれにとって重要な意味を持つものと解することも可能であろう。少なくともマクドーナルドはその点を強調し、コーヘレトにとって一切は「時のうちに」起こるものと考えられていたと論じている。けれども、そうはっきり云えるかどうか、私には疑問がある。一つには、その語がただ一回ここにしか用いられていないということ、二つには eth の場合と同様 zeman の場合にも前置詞 be(=in)はついておらず、却って「一切」なる語の前に前置詞 le(=to)がついていること、三つには同義語を重ねて用いることはヘブライ対句の精神に一致していることなどが思いつかれる。だから、コーヘレトが抽象的・客観的時間の概念をそれほど明瞭に抱いていたとは思われないが、一切が正にその生起すべき時機または時点とともに生起するものであるとすることがコーヘレトの思想であることは疑う余地がない。かれは右の引用句において、生まれ・死ぬという人間存在の基本的対立と戦争・平和という社会的に最も重要な対立との間にさまざまな対立を置いている。それは一つの事が起これば、それの否定または反対の事実も亦必ず起こるということであろう。そして、その事は「何の yithroth もない」すなわち「差引して何も残らない」というかれの結論の根拠を成す一つの観察である。だからコーヘレトは三・一 - 八につづいて直ちにまた「働く者はかれが労するところによって何の益(yithroth)を得るか」と言っている。それは人間が事を為すのに正しい時機を見出すことを得ないという嘆きではなく、何を為しても必ずその反対の事が起こって元々に還元して了うとの意味に解すのが正しい。そして、その後に更に次の言葉が語られる。
「われは神が人の子等に与えて労せしめたもう労苦を見た。神は一切を、それの
時機において美わしく造りたもうた。彼はまた彼等の心に、測り知られないものを与えたもうた。それは人間が神のなしたもう始から終までの御業を見出し得ないためである。」
一切はその起こるべき時機に必ず起こるのであるが、その時機と必然性とはただ神にのみ知られているのであって、人間には断片的・部分的に知られるに過ぎない。神は一切の現象をそれぞれの時機に従って生起せしめるのであって、それは確かに「美わしい」に違いない。けれども人間にその「美わしさ」が完全に把握できるかと言えば、それは不可能である。神の必然は人間にとって偶然でしかない。そこに人間は不可解なものに出会う。ここに
コーヘレトが神の存在を疑っていないことは注目されてよい。かれは神をヤハウエとは呼ばず、ただエローヒームと呼んでいるから、民族的色彩は稀薄であると見なければならないが、それにしてもかれの体系(それをそう呼ぶことを許されるとすれば)は神の存在を要請する。一々の時点または時機において起こるべきものが起こるのであるが、時がそれを起こすのではなく、それを生起せしめる意志が別に考えられなければならない。何故ならここには自然科学の問題が取り上げられているのではなく、人間存在とそれに連関しての自然現象が問題とされているからである。その立場から、時点または時機なる概念と神の概念とは相互に要請し合うものであり、両者は相関関係のうちにある。先に抽象的・客観的時間、ガリレイ・ニュートン的ともいうべき時間の概念がコーヘレトにあったか無かったかを問題としたが、かれにとって中心的なものは、そのような時間ではなく、人間存在と連関して考えられたこの時あの時である。だからこそそこにかれは不可解なもの、そこに働く超越的意志を感得せざるを得ない。それゆえかれの「神」(elohim)は伝統的ヤハウェ神の概念とは甚だしく離れているようであるが、なおかれの哲学をヘブライ思想の流れの中に把握することは可能でもあり、又それが妥当でもあると考えられる。けれどもコーヘレトの神は自己啓示の神ではなく、全く自らを隠す神、近き神ではなく遥かなる神である。その神の意志や計画を人間はその知性を以てしても又その道徳的規範に照らしてみても測り知ることはできない。しかしながら、その知られざる神、交通不可能な神が実在するということは、これほど確実なことはかれにとって無いのである。コーヘレトは神をただ天上高きところに祭り上げているのではない。むしろ、かかる神の存在の要請がかれの思想を成立させる根底にあることを見逃してはならない。(中略)その神の意志は測り知ることを得ないとともに、また人間がそれをどうすることもできないものである。「われは知る、凡て神の為したもうところは永遠にかく有るであろうことを。何ものもそれに加えられることを得ないし、また何ものもそれから取去られることもあり得ない。神は人々が神のみまえに畏れんために、それを為したもうたのである」とコーヘレトは言っている。かれの教える「神の畏れ」は人間がその「日の下」「天の下」「地の上」なる限界を弁えてそれを超えようとしないこと以外のものではない。>

 この、「神の畏れ」が「限界を弁えてそれを超えようとしないこと」であるという指摘が非常に重要に思われる。この限界自覚が却って信仰に於ける自由を実感できる要件となるからだ。限界がなければどこまでも欲が働いて煩悩が尽きない。その苦しみは測り知れず、狂気に至ることもあり得るだろう。なお、ATDでは11節に関して次のように記されている。

<コーヘレトに固有の「なるほど~だが」という表現形式を用いて認識された事実を述べている本節の叙述は、その前半部で、創世記第一章の祭司資料の創造記事に精通していることを指し示している。神がすべてを「良く」創造された(一章31節では「すべてははなはだ良かった」と強められている)という称賛が、創世記では神の毎日の仕事を通じて響いているように、本節においても、神がすべてを「美しく」創造されたということが認められている。伝道の書三章11節の「美しい」は「良い」の全くの代替語であろうか、あるいはこの語に創世記一章に対する抑制した表現が意図されているのだろうかという疑問が生じることであろう。それ自体としては、神の創造行為に関してなにものをも減ずることはないが、コーヘレトに特有の、良いものを人間がつかみ取ることに存する限界を既に予感させる制限が、「それぞれの時に応じて」という付加の中に存在している。その点で、神の創造の優位性が、確かに、創造についての飾り気のない言葉から、まず最初に取り出されている。第二イザヤが明るい称賛の中で、彼の時代のあらゆる物事とまたすぐ次にくる事物の被造性について(※)バーラー「創造する」という単語で語っているように、コーヘレトもより一般的な(※)アーサー「作る」という単語で(創一7、16、25)、神が時の流れの中で創造し、生じさせることについて語っている。物事は神の前に調和して「美しい」とコーヘレトは信じている。いずれにしても、人にはそのよく意味深い関係を測定することはできない突然に訪れる時という謎の中で、人は神に出会うのである。更に進んで、神は人間の心に「永遠」を与えたと言われているのであるから、この点において、もちろん全く自由な新解釈の形ではあるが、再度創世記一章との関連が認識されるべきであろう。創世記一章26節は、それが人間を動物たちから際立たせる人間の神の姿への類似性について語っている。詩篇第八篇も参照できる。コーヘレトはこのような高揚した表現で人間の特別な「傑出」について語ることはできない。コーヘレトは、人間の傑出性を、人間の心に与えられている「永遠」について語るとき、彼なりに解説している。この(※)オーラーム「永遠」の詳細な定義は、確かに議論の余地が大きい。(中略)いずれにしても、テクストの変更は放棄して、「神は人の心に永遠を与えられた」というテクストを、一章13節が勧めていると思われる方向で理解しなければならないであろう。それによれば、神は人々に、「知恵によって」時間を超えて過去と未来について問うという、ひどい苦労を与えたのである。このような仕方によって、コーヘレトは人間の特殊性を見るのである。「人は自分の時を超えて問わなければならない」。人は「広大な時の経過」(=※)を見いだすが、そのことは、時の推移の定めと時(※〔カイロスの複数〕)の順序について問わなければならないということが人の心に定められているということを、すぐさま意味するのである。(中略)コーヘレトは、神の業の良さも、また聖書の創造記事に記されている人間の他の被造物に対する傑出性も、疑っていない。しかし、この神と人間の特殊性とへの信仰告白と並んで、まさに人間に特有の優越性に関連する人間の限界という苦難が、確かに存在しているのである。>(p344~347)(※は原語)

 

7:14   幸いの日には幸いであれ。

     災いの日には〔災いを〕見つめよ。

     人間が後のことを何一つ見きわめ〔られ〕ないよう

     にと、神はあれもこれも※ 造り出したのだ。

 

(注)※「幸いの日も災いの日も。」

西村氏の注解では、「順境には楽しめ、逆境には考えよ(見よ)。神はこれもあれと同じように造られた(造られている)。人が彼の後に何も見出さないためである。」(「見よ」については、<「考える、熟考する」。過去の業を見るのみならず未来の業を見ることをも含む。>、「神は・・・・造られた」については、<「神がなされた」こと、あるいは「神のなさる」こと。現在時制は、神の進行中の業を強調(後略)>、「これもあれと同じように」については、「人間の目には、理由なく、無秩序に、ということか。」と記されている。)と訳されている。

 

8:7 たしかに、人は〔将来〕何が起こるかを知らない。

    たしかに、誰が人に〔将来〕起こることを告げうる

    か。

 

西村氏の注解では、「というのは何が起こるかを知るものはいないのだ。なぜなら何時起こるかを誰が彼に告げることができようか。」と訳されている。

次に、月本訳(岩波版)の「時」の解説を写す。

時(`et) 抽象的な時間の流れではなく、事が起こる、神ないし人が事を起こす個々の時期ないし時点(カイロス).コーヘレト書によれば、すべてのことに時があり(3:1、8:6)、それは神の定めによるが(3:17)、しかし人間にはそうした時を見通し得ない(3:11、8:7、9:12).コーヘレト書において「時」以外の訳語をあてたのは8:9「時代」、9:8「つねに」(<「すべての時に」).9:11では「時と偶然」を「不慮の災難」と意訳を試みた.>

ここでも参照聖句を挙げておく。

 

8:6 たしかに、あらゆる出来事には時と審きがある。

    たしかに、人の悪は自らに重くのしかかる。

 

3:17 私は心の中で言った、

    義人と悪人とを神は〔区別して〕裁くであろう、と。

    すべての出来事に時があるということは、

    あらゆる業を神が定めた※、ということだから。

 

(注)※<原語の末尾「そこに(シャーム)を「据える、定める(サーム)」と読み替える。>

西村氏の注解書では、8:6が「まことにすべてのこと(経験)にふさわしい(裁きの)時がある。しかし人の悪が彼の上に大きいのだ。」、3:17が「私は心に思った。義人も悪人も神は裁かれる、というのは、すべての事柄に、すべての業(実現)に関して時があるからだ。かしこには。」(「神は裁かれる」について、<神が裁きをされるというのは、コーヘレト自身の考えか(5・5、11・9参照)。コーヘレトは死後の裁きに関して関心を示さないので、17節aを編集者の付加、また引用とするものが多い(略)。だが、コーヘレトは裁きそのものを否定はしていない。今すぐには裁きはないように見える。(略)神は時を定め(9・1にあり)、遅かれ早かれ、神は裁く。だがゴーディスは、この地上にではなく「かしこにおいて」、すなわち他界、死後の時として風刺的にとる。裁きは人間の認識を超える。すべての実現はこの世でなされるとは限らない。>と記されている。)と訳されている。

 

9:12 実際、人は自分の時さえ知りえない。

    不幸にも網にかかる魚のように、

    仕掛け網に捕まる鳥のように、

    不意を襲う災厄の時、

    人の子らもまた絡めとられる。

 

西村氏の注解では、「まことに人間はその時さえも知らない。魚が不運な網に捕らえられ、鳥がわなに捕らえられるように、人の子らは悪い(不運な)時に、突然それが襲う時、わなにかかる。」と訳されている。

※他の9章の参照聖句は今日のテキストと直接関係ないので省略する。

「時」は観念であり実体は無い。時間と空間の枠というのはカント的によれば「一切の感性的直観の二つの純粋形式であり、これによってアプリオリな綜合的認識が可能になる」といわれる。要するに主観の形式であり、時間と空間それ自体は実在しない。人間の思考・認識は直観にはじまる。人間の認識は基本的に「対象認識」であり、それはポスト・モダンの哲学などではネガティブに言われる。

私は理性第一主義者であり、その理由は宗教は理性を第一にしないと福音派原理主義やカルト宗教のように狂信および精神異常という人として最低最悪の状態ににつながる危険があるからだ。聖書の神話的記述はあくまでも現代人の理性に耐え得る範囲内に制限されて然り(非神話化)。いかに聖書を神の無謬の言葉だと規定してもこれを文字通り信じ込んで逐一歴史的・客観的事実であると認めることは信仰的にみても、けっして健康的なことではない。また、歴史的現実以外の現実を認めることも程々にしないとリアリティーを得られない。リアリティーなき宗教はイデオロギーの浸食を受けて形骸化する。もっとも「理性」(~ディアノイア/ロゴス、ラチオ、レイゾン、リーズン)とひとことで言っても定義はいろいろであり、カントのいう理性なら実践理性といったところだろうか。人間の精神の能力は、「感性」「悟性」「理性」の3要素に分けられ、それぞれ根本形式を持つ。「感性」は外界の印象を取り入れてまとめあげる。すなわち感官を通して事物対象を表象し受け取る「直観能力」。「悟性」はその「表象」を統合して判断にもたらす「概念的判断の能力」。この「悟性」の形式に「カテゴリ-」(純粋悟性概念)、「先験的統覚」、「図式」、「原則」がある。つまり「感性」に「時間、空間」という形式があるように「悟性」にも対象を概念的に判断するための「分量、性質、関係、様態」といった基本形式があるのだ。ちなみに「カテゴリー」について言えば、カントはアリストテレスの10(実体、分量、性質、関係、場所、時間、位置、状態、能動、受動)を批判的に縮小して前記の4つにした。「理性」はその判断された諸対象から推論によって世界の全体像に迫ろうとする(主として)「推論の能力」。それが思考である。この中で「感性」は基礎となる要素であり、どんな対象も「感性」を通してやってくるが、「感性」は外的対象をそのまま取り入れるのではなく、それを一定の形式におき直して取り入れている。感性の形式性は先天的・生得的である。時間と空間はこの「感性」の根本形式である。「時間」も「空間」も枠組みであって客観的には「無」であり「事物」ではない。だから、「時間」と「空間」は感性のアプリオリな形式性原理といわれる。あくまでも「直観の形式」であって「経験的に認識される対象」ではなく、「人間の感性の基本形式」なのだ。だから人間はどのような対象であれ、時間と空間という基本的枠組みを通して捉える。つまり「リンゴ」であれ「ネコ」であれ、それらの認識対象の「それ自体」を知ることは出来ないのだ。何故なら感性(五官)というフィルターを通さずして、それを直接、把握することは不可能だからだ。そこに「事象そのものへ」というフッサールの現象学的還元の前提がある。要するに人間は先入見なしに認識できないので、その先入見を入れずに直接、意識に現われるものを捉えること、八木誠一氏が「カッセルの体験」で得た「廓然無聖」の「純粋直観」である。それは前述の「対象認識(=<この世界もしくは自己内部に現われる一局面ないし一局部を孤立的にそれだけで立て、これを中心として全体の「統一」を志向する>)に対するものだという(『神はどこで見出されるか』〔三一書房〕p261)。<私は驚いて立ち上った。何ひとつ変ってはいない世界の相貌が一変して見えたのである。しばらくあたりを見廻していた私は窓外を走り去る木立を眺めながらしみじみとこう感じた。「いままで樹は樹だと思っていた。何という間違いだったろう」。>(同、p67)奇妙な話ではあるが、日々の生活に追われている者からすればしょせん観念論者の錯覚であり、大した意味はない。そんな「直観」で労働し、飯を食べてゆけるわけでもない。しかしこれも「神」が定めた個々人の分であり、それ相応の持ち時間とタラントなのだ。八木氏のように宗哲者としてのタラントを得ていない者が妬むのはおかど違いだし、自分の限定を抜きにして考え過ぎてはいけない。時間と空間の形式は、宗教的には「(創造主なる)神による規定」と言い表すことになる。それでよいのだ。神ご自身がその規定を身に受けられたなどと考える神学者は私見では愚か者である。しかもそのくせ己が思想を「歴史的」であるなどと放言するからなおさら愚かしい。歴史現実は一つ。史観は多様であり得ても史実はいろいろであってはならない。従って歴史認識に正誤,白か黒かが争われるのは当然のことだ。しかしどこまでいっても歴史記述に相対性はつきものだ。「神」はカント哲学に於いて「絶対的最高存在者」としての「純粋理性概念=理念」であり、「自由」と「霊魂」も純粋理性の推論によって得られる。自然法則を扱う理論理性では及ばない「神、自由、霊魂」は、道徳法則を扱う実践理性により道徳的行為の根拠として要請されるが、それが(不可知の)「物自体」というのではなく、「物自体=世界それ自体」の世界である「叡智界」に属す事柄という意味である。すなわちこの「可想界・叡智界」は「神」の知性によってのみ認識され得る世界であり、これに対して人間が認識する現象的世界は「感性界」であり、こちらの法則は「因・果」である。上記のとおり人間の認識対象は感性(五官)を通して現われてくるものであり、「物自体」を認識すること、対象化することはできない。しかし意識の上では「物自体」を得ていることもまた事実である。あとは自分がリアリティーを実感できる「(創造主である)神」を信じるか信じないかだけのこと。そこに「啓示」ではなく「要請」(公準)というものがあり、私見ではコーヘレトの宗教(哲学)もその傾向がある。しかし「啓示」と「要請」とは分離できない。カントのような理性宗教も啓示宗教であるキリスト教を背景にして成り立っている。「要請」するにしてもその媒体となる啓示・啓典(=聖書など)なしに歴史的現実に通用する宗教は生まれ得ない。私のような下層の肉体労働者にとっては(宗教)哲学などかじる余裕もなく、ただ、コーヘレト書から学ぶ「創造主との関係に於ける知足、知止」の実際的知恵により進み行くのみである。そう、もはや遠くはない定められた「死ぬ時」に向かって、永遠の「神関係」(救い)を信じつつ・・・。

3:5 石を投げるに時があり、石を集めるに時がある。

    抱擁するに時があり、抱擁を避けるに時がある。

  6 探すに時があり、失うに時がある。

    守るに時があり、棄てるに時がある。

  7 裂くに時があり、縫うに時がある。

    黙るに時があり、語るに時がある。

  8 愛するに時があり、厭うに時がある。

    戦いの時があり、やすらぎの時がある。

西村氏の注解では、5節が「石を投げるに時(があり)、石を集める時(がある)、抱くに時(があり)、抱くことから遠ざかる(止める)時(がある)。」、6節が「探すに時、破壊(消失)するに時、(見)守るに時、捨てるに時。」、7節が「裂くに時、縫うに時 黙するに時、語るに時」、8節が「愛するに時、憎むに時、戦いの時、平和の時。」

月本訳の注釈によると、5節は家造り(石=基礎の石組み)、男女の交わり(隠喩)、商取り引き(石=計量石)など様々に解釈されるが、いずれも確証を欠くという。私は、「抱擁する」との関係で男女の交わり(隠喩)説に関心はあるが、隠喩といっても意味がよくわからない。8節はわかりやすい。ついでに夫婦喧嘩にも時があり、仲直りにも時があり、また最悪の場合、別れるにも時があり、寄りを戻すにも時があると言いたい。でも今の自分にとっては引っ越しにも時があるということ。全ては創造主の聖定の中にしか生起しない。

ちなみに(私はカルヴァン主義とは関係ないが)ウェストミンスター大教理で「神の聖定」についてどのように言われているかと言うと、<神のみ旨の計画(1)の、賢く、自由な、きよい決定であり、それによって神は、永遠から、ご自身の栄光のために、なにごとによらず時間の中に起こってくるすべてのこと(2)、特に、み使と人間に関することを、不変に予定された>のであり(1 エペソ1:11、ロマ11:33、9:14、15、18 / 2 エペソ1:4、11、ロマ9:22、23、詩33:11)〔問答12参照〕、何を聖定したかと言えば、<神は、永遠不変の聖定によって、彼の全くの愛から、その栄光ある恵みがたたえられるため、定められた時に現わされるように、あるみ使を栄光に選び(1)、またキリストにあって、ある人間を永遠の生命と、それへの手段に選ばれた(2)。また、彼の主権的み力と、(それによってみ心のままに愛顧を施したり、差控えたりなさる)ご自身のみ旨の測り知れない計画に従って、その正義の栄光がたたえられるように、残りの者を見捨て、彼らの罪に対して加えられる恥と怒りにあらかじめ定められた(3)>のである(1 Ⅰテモテ5:21/ 2 エペソ1:4-6、Ⅱテサロニケ2:13、14 / 3 ロマ9:17、18、21、22、マタイ11:25、26、Ⅱテモテ2:20、ユダ4、Ⅰペテロ2:8)〔問答13参照〕。そして、この聖定を神はどのように実行されるかと言えば、<神は、その誤ることのない予知と、ご自身のみ旨の自由で不変な計画に従い、創造と摂理のわざにおいて、その聖定を実行される>とある(エペソ1:11)〔問答14参照〕。

 

 

 


ど併照。」とある。12節の「その生涯」は、<原文「それら」。七十人訳は「影のように」を「闇の中に」と訳す。>とある。10節の「存在するもの」という言葉を見て対照的に連想するのは7:24「存在するものは遠くて、深く、また深い。誰がこれを見いだしえよう。」も一句である。こちらの「存在するもの」は被造物ではなく、注で「存在の根拠」とあるから創造主なる「神」をさすのだろう。ただし西村氏の訳は10節の「存在するもの」についてと同じく「起こっていること」(1・9、3・15、6・10)で、<「神の業」と同じ。>と記されている。