たしかにコーヘレトには死後の救いへの希望は希薄だ。この点はキリスト教よりもエホバの証人の考えに近いかも知れない。エホバの証人(JW)では、人は死後、無意識となり霊魂の死滅、存在の否定がいわれるからです。いちいち引用まではしませんので、JW.ORGのサイトの「聖書は魂について何と述べていますか」と「人は死ぬとどうなりますか」と「人は死ぬとどうなるか」を読んで下さい。https://www.jw.org/ja/

死者には意識がないということはともかく、「人は死ぬと存在しなくなります」はいくらなんでも言い過ぎでしょう。存在しなくなったら復活も審判もありませんから。死後も魂としての自己同一性が必要なはずです。後者ではその意識状態の場である「シェオール」について書かれています。私見では死者はこのシェオールに、無意識ではあれ霊魂として存在して復活および審判の時を待つのです。意識が無いという点では、もはや優劣関係もないわけですからその点では天国とも言えますが、本当は意識があって優劣関係は無いというのが理想です。しかしその場合も、意識は信仰に要する分しか認められないと思います。無用な自意識が過剰な自尊心を生ぜしめて自我を苦しめるのだからです。その自我が元凶である以上、無意識やむなしかもしれません。手術前の全身麻酔のような状態が終末まで続くと想像はできます。但し、同じ無意識、同じ睡眠であっても、対神関係の上でのそれと、そうではないそれとでは大違いです。

(新世界訳2019改訂版)
「私は横になって眠り、再び目を覚ます。エホバが支えていてくださるから。」(詩篇3:5)
「私は横になって穏やかに眠ります。エホバ、あなただけが私を安心して暮らせるようにしてくださいます。」(同、4:8)
(新改訳2017改訂版)
「私は身を横たえて眠りまた目を覚ます。主が私を支えてくださるから。」(詩篇3:5)
「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ眠りにつきます。主よただあなただけが安らかに私を住まわせてくださいます。」(同、4:8)
 
以下、こちらの都合で濃い字になってしまっていますが、特に意味はなく、私個人の感想にすぎません。
JWの死後観で興味深いのは、人間は無意識になり存在がなくなるというのだから記憶も消えるということです。しかし死者はエホバ神が記憶してくださっているから終末になって復活できる、再創造されるというのです。ただし、私は「エホバの証人」を支持しているわけではないのでくれぐれもお間違いなきよう。是々非々の態度で、異なる立場からも部分的に共感したり参考になると思われることは積極的に取り上げているというだけです。
私見では、「人の記憶」は失われても、その人間を創造主なる神は記憶して下さっている……、この「神の記憶」という教理は健忘症者にとって福音ではないでしょうか?自分なりに敷衍して解するなら、それこそ「神を知る」とは「神に知られる」ことであるということにも通じます。これは他律ではなく他力、絶対他力であり、いわゆる植物状態といわれるような重度の意識障害の人であれ、ひいては脳死状態の人であれ、そして亡くなった人であっても、神との関係の中にある以上、神に憶えられており、その人の実体は失われることはないということです。
但し、神が「記憶」するという言い方は神を擬人化しすぎていると思います。人格神観と擬人神観とは異なります。私は前者を認め、後者には批判的です。自分自身の対神関係は、生前は「遠い神」であり死後に「近い神」になると思っています。生前に「近い神」だと生活が窮屈で圧迫感を伴うからです。これはイエスの福音によって示された信者の自由で開放的な生と合いません。
また、魂の死ということも、信者の実体が不明になってしまいます。聖書では信者は死後も個としての連続性を有し、その霊的実体は霊とか魂といわれるものだと思うので、復活前の霊魂の滅びという聖書理解に同意することはできません。究極の平安(シャーローム)とはその救済のことだからです。

エホバ(=ヤハウェ)に縁あって生まれてきた信者は、そのエホバとの関係(=対神関係)の中で眠るのです。その「眠り」が「死」であり、無意識状態なのであって、すべてエホバにおまかせであって、能動性や主体性はまったく無いが、それでも平安であり得るのは、エホバが魂の父であり愛あるお方であることを先天的に知っているからです。

 

(新世界訳2019改訂版)
「私は横になって眠り、再び目を覚ます。エホバが支えていてくださるから。」(詩篇3:5)
「私は横になって穏やかに眠ります。エホバ、あなただけが私を安心して暮らせるようにしてくださいます。」(同、4:8)
(新改訳2017改訂版)
「私は身を横たえて眠りまた目を覚ます。主が私を支えてくださるから。」(詩篇3:5)
「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ眠りにつきます。主よただあなただけが安らかに私を住まわせてくださいます。」(同、4:8)

 

 
以下、岩波書店版『コーヘレト書』の「解説」より引用。

(以下、引用開始)
伝統的信仰に対するコーヘレトの批判的態度は、本書における「神」の用法にもよく現われている。彼はイスラエルの神ヤハウェについては一言も語らない。常に「神(エロヒム)」(合計四〇回)という表現をとるが、このうち二六回には定冠詞が付けられている――あたかも「あの神」と言うように――。
(以上、引用終わり)