西村俊昭氏の『「コーヘレトの言葉」注解』(日キ教団出版局)では5章18節について、「働くものが労働の実を所有することは、『すべての人に』起こる、通常のことであろう・・・しかし人は、これは実際には神が与え、神が望む時には取り去る神の賜物であることを知らなければならない。『神が与え、楽しむことができるようにする』ということは当然のことでない。人生は論理的でなく、報いも労苦と知恵の行為に対して常に与えられるとは限らない。それゆえ人々が彼らの富を楽しむことを許されるという一般的規則は、神の恵みの表現である。これは当然のことではない。それは実際には神からの賜物なのである。」と記され、「労働の実を所有すること」が「神の賜物」だと解されているようだが、私は自分自身の経験を踏まえ、コーヘレトにおける「神の賜物=神からの贈り物」をもうすこし広くとらえて労働に直結させて解さず、(たしかに衣食住全体が労働による対価で維持されるのではあるが)、労働に多くの時間を費やされる生活の中に得られるささやかな楽しみというふうに解したい。単に(いかに「空の空」とは言え)「・・・当然のことでない」とか「・・・限らない」とかいった否定的意味だけにとどまらないポジティブな人生観の知恵をコーヘレトの言葉から受けとめたいと思う。コーヘレトなる偽名を用いた人物は都市定住のインテリとも放浪のラディカリストとも言われているが、私のような現代日本社会の底辺に生きる者にとっても人生観として参考になる点は多々ある。特に、労苦の時があるからこそ、余暇のささやかな楽しみの時があり、それが「神の賜物」として感じられるのだということ。スコラな哲学者などには、そういう体験はないだろう。

関根清三氏は、コーヘレスに対してニヒリストとかエゴイストといった厳しい見方をしているが(『倫理の探索』〔中公新書〕p19~27参照)、月本昭男氏は前述のように、「人生や世界の不条理性、幸・不幸の区別の無意味性などを指摘し、伝統的な思考の枠組みを根柢から衝き崩そうとした」ラディカリストとしての面を指摘している(岩波版の最終節の注)。すなわち、12章14節「じつに、神はいっさいの業を審きにわたそう、善であれ悪であれ、隠されたことのすべてについて。」という言葉は、最終編集者の付加であると言う。編集理由は本来の著者(コーヘレト)の「一種のラディカリズムを緩和し、その思想的『破壊性』を律法主義的立場から繕おうとする」からだとのこと。
また、前掲の西村俊昭氏の注解では、「コーヘレトには個人の人格・思想が余りに強く表面に出ている。ただしコーヘレトの自我は、意識野を制限し、現実を無視することによって自我を破局へと導く、近代の自我とは異なる(ノイマン『深層心理学と新しい倫理』参照)。またこの自我は解体、拡散、また対象の転移等によって、解消する自我でもない(西村、1981、215頁参照)。従ってこれを箴言と呼ぶにはふさわしくないと考えたからであろう。確かにコーヘレトは箴言を利用した。しかしコーヘレトの文体はそれらを超えて、極めて個性的である。特に『私』が表面に出ている点で、旧約の他の文書に見られない特色を有する。」との指摘があり、有賀氏が、コーヘレトは「一種の実存主義者と呼ぶべきであろう」とか、コーヘレト書の背景にあるヘブライ思想について「それは一つの実存哲学として首尾一貫した思想をなしている。」(前掲書)と述べていることにも通底するだろう。これに関して参考になるのは岸田秀氏が言う、「現代においては自我の安定が崩れるのは他者との関係においてです。」との指摘である(『希望の原理』〔青土社〕p93)。この観点からコヘレト書を読むことは、私にとっては有意義である。関根清三氏は、「実際コーヘレスは終始、他者と出会っていないのです。」と批判しているが(前掲書p24)、しかしコーヘレトは、「神」という絶対なる「他者」に出会っているのだ!
ちなみに並木浩一氏は次のように述べている。
「真面目な読者がこの書物に腹を立てても不思議はないでしょう。腹を立てついでに、『お前は信仰的には傍観者に過ぎない』などというレッテルを伝道者に貼るかもしれません。実は少なからぬ人々がこれまでそうしてきました。この国でも、伝道の書に対してこのようなレッテルを貼った高名な旧約学者がおられました。もっとも、もしコーヘレトが今口を利くことができれば、『それは誤解ですよ』と抗弁することでありましょう。」(『人が孤独になるとき』〔新教出版社〕p11)
3章14節「私は知った、神のなすことはすべて永遠〔の世界〕に属するのだ、と。それにつけ加えるものもないし、そこから取り除くものもない。神が〔そう〕したのは、彼らが神を畏れるようになるためである。」(岩波版 月本昭男訳)の後半については、「恐れる」(月本訳では「畏れる」)とは「信仰を持つ」という意味だと言われている。そしてコーヘレトは、「限界設定は、人間が神を恐れるようになるための神の挑発であり、その意味で神の深い配慮であること」を信ずるのだと言う。そうなると神義論は成り立たない。
また、勝村弘也氏は、「コーヘレトが自己の省察から虚無主義的な結論を引き出した形跡は見当たらない。彼があまりにも多くの世界の不条理を前にして、伝統的な意味での神による世界統治を信じていないとしても、世界が美しく造られてあることは認識されている(三11)」と言う(岩波版の「コーヘレト書」の「解説」p212)。「伝統的な意味での神による世界統治」すなわち「行為と帰趨の連関」とか「因果応報」が成り立つような意味での「統治」は否定されてはいても、「伝統的な意味での神」と無関係な全く別の「神」を観ているとは思わない。それなら旧約聖書に収められている意味も無い。
ところで西村氏の注解では、コーヘレトが「より一般的であった『天の下』ではなくて、『日の下』を用いたことは、近東に一般的なシンボルとしての太陽を、この世的なものにとどめ、神格化せず、また反対に世界の意味の説明原理として元素化することもなしに、ひたすら、この世を凝視しようとしたからであろう。」と言われている(p70)。 「日の下」に生かされているという被造物としての限界を弁えてこそ積極的意味での「諦める=明らかに究める」ということも出来る(五木寛之著『人間の覚悟』〔新潮新書〕、同『人間の運命』〔東京書籍〕参照)。コーヘレト書の最大の魅力は、一方で空しい現実を直視して率直に表現していながら、もう一方では創造主信仰を堅持し(3:11、7:14,29、12:1他)、単に創造だけではなく聖定者・摂理者としても信仰していることだ(3:13,17、5:17~19他)。人間は神の聖定(創造と摂理の業に於いて)についての信仰にもとづいてこそ、被造物としての自覚と自己限定によって考え過ぎ・思い煩いを回避して最も大切な神関係(=神の国・神の支配)に集中できるのであって(マタイ6:31~34、ルカ12:29~31参照)、それが人生最高の知恵だと思う。だから自分は改革派神学で言われる意味での固定的・閉鎖的「聖定」の概念は、コーヘレト的「神」信仰に合わないものとして斥けるが、コーヘレト書の理解の上でも「聖定」という言葉自体は活用するのだ(3:17の読み替えの「サーム」解釈など)。そしてその自己限定の知恵によって無用な疑問にとらわれず、日々の生活を飲食にせよ労働にせよ、そこに逆説的に益を見出し、「知足」を観念で終わらせず現実に経験できるのだ。真の幸いとはこうした諦観によって得られるものであり、自己の限界を無視した考え方では空しくなるばかりだ。
ところで、上村静著『キリスト教の自己批判 明日の福音のために』(新教出版社)の「第3回 黙示思想とコヘレトの書」では次のように述べられている。
「・・・少しでも現実を見るならば、必ずしも応報は実現していない。こうして現実の不条理に直面すると、『神義論』が問われるようになる――『義なる神』は義しい人間によい報酬を、悪人には罰を与えるはずだが現実にはそうなっていない、では神の義はどうなったのか、と。この問いに正面から向き合おうとしたのがヨブ記である。ヨブは自らの無実を主張し、理不尽な災難を与えた神を執拗に告発する。ついに神がヨブに現れ、自らの創造の業についてお前は知っているのかとヨブに問う。この結末はあまりはっきりした回答ではなく、あいまいな不可知論にとどまっている。ヨブの問いに明確な答えを与えようとしたのが、第3世紀に登場した黙示思想である。黙示思想は、終末時における運命の逆転を語る。すなわち、この世で義人として生きたのにそれにふさわしい報いを得られなかった者は、来るべき世において報いられ、悪人でありながらこの世で幸いを享受した者は来るべき世で裁かれる、と。黙示思想は、世界を『この世』と『来るべき世』に、人間を『義人』と『罪人』に二分し、この二元論的世界観にもとづいて神義論を貫徹したのである。それは、究極の応報思想と言いうるものである。こうした思想状況のなかで書かれたのがコヘレトの書である。コヘレトは、ヨブ記に見られた不可知論を徹底し、神義論そのものを放棄する。」(p37~38)
ここで特に重要な点は、コヘレトの「神義論」放棄ということだ。コヘレトはユダヤ教の伝統的神観を否定して、意図的であるかどうかはともかくも、現代人にも広く通用する実際的神観を提示し得たのだ。

 

八木誠一氏は、「神義論は人格主義的神論の問題である。他方、場所論的に考える限り、神は人間を通して働くのである。」(大貫隆他編『一神教とは何か 公共哲学からの問い』〔東大出版会〕p18)と述べておられるとおり、人格神観の最大の短所が神義論に陥ることである。コヘレトの神観は人格神ではあっただろうが、言わばその人格の程度が弱かったので、すなわち対神関係の距離感が遠かったので、その分、神義論に陥らずにすんだのではないだろうか。いずれにせよ非人格的神観は聖書的神観としてはメインではない。ほかでもなくイエスその人の神観からして人格的存在なのだから。

 

なお、繰り返すが神について言う「人格」はあくまでも比喩である。

「コヘレトの書が書かれたのは、大国支配下の前3世紀パレスチナであり。当時は一方で民族主義が高揚し、他方でヘレニズム化が進行するという相矛盾する勢力が生じていた。そうしたなかで屈折した保守派のセクト化と黙示思想の成立が促された。それゆえコヘレトは、応報思想のもととなった律法を前提としつつ、預言と知恵の融合である黙示思想に対峙する必要があった。コヘレトは、ユダヤ教の伝統的な神理解(応報思想=歴史に介入する神)を否定しつつ、ユダヤ教の神への信仰を保持させるという課題に応えようとしたのである。」(p42~43)
しかし、「神」との関係があっても飯は食えないと言われれば返す言葉は無い。ただし、飯を食うための労働の活力源が「神」であると思う人間もいるのだ。そしてコーヘレトのように、日々の生活の中でささやかな楽しみを「神の賜物」とし、それを与えて下さる「神の手」を実感しつつ日々を感謝して生きてゆければそれでよいと考える者もいる。あとは死んでわが身は滅びても、わが霊魂の源である「父=神」に帰ってゆくのだから平安がある。勝村氏は「コーヘレトは、人間に何かを与える神についてしばしば語る。しかし人間には神の意思が結局は知りえないのだとすると、感謝のような仕方での神への応答は不可能である。神と人間との人格的な交わりはここには成立しない。だとすると伝統的な意味でコーヘレトが神を信じているとは言えまい。」(岩波版「コーヘレト書」の「解説」p212)と述べておられるが、「感謝のような仕方での神への応答」は可能であると私は思う。感謝と言っても教会でやっているように会衆が声をあげて祈ったり歌ったりすることだけとは限らない。言わば個人の中での無意識的な沈黙の感謝とか礼拝というものもあり得る。コーヘレトには表立った賛美や感謝の言葉はあまり見られないかもしれないが、勝村氏も「コーヘレトは『神への畏れ』について語ることすら出来た(三14、五6、七18等)。それが伝統的な意味での敬虔を意味するのではないとしても、彼が或る種の宗教性にとどまっている証拠と見ることは出来る。」と指摘しているとおり(同上)、彼の心の奥には日々のささやかな幸せを与え給う創造主への感謝と賛美が充ちていたのではないかと思う。

 

ちなみに、有賀氏のコーヘレトについての結論は以下のとおりだ。
「コーヘレトは智慧を求めて、それの到底見出し得ないことを悟ったのであるが、その何者をも掴み得ないところにこそかれの説きたい真の智慧があるのである。人間はただ地上に、時間とともに、存在する者ではなく、彼の存在をそこに限定する『深くして深い』(amoq amoq)ものを意識する有限的存在として『日の下に』生きる。コーヘレトはその限界を自ら突破して神秘の懐に憩おうとするのでもなく、またその限界のかなたから自らの姿を現わす恩寵の神と遭遇するのでもない。それにも拘わらず、コーヘレトに宗教がないとは言えないことは既に見た処によって明らかである。かれの宗教はかれをして、絶望ののちに、生命の貴さを改めて認識させる。人間が徒らに目的を追うて労苦するかぎり、生は厭うべきものであるに違いないが、それは生そのものが悪だというのとは異なる。人間が今ここに生きているという事実、これこそはかれにとって掛替えのない貴いことなのである。このように観点が変われば、悲観論は消える。『日の下に』あることはもはや苦痛を意味せず、却って喜びをもたらす。『そして光は快い、また太陽を見ることは目に楽しいことである』と言えることになる。その楽しみと喜びとは追い求むべき目的ではない。それが追究された時には喜びは忽ち失せる。喜びは今ここに、この太陽の光の下に営まれる生のうちに既にある。『人間が食い且つ飲み、その労働のうちに自分の魂を楽しますこと、それに優る善いことは人間にとってない。また此の事をわれは見た、即ち、それは神のみ手から出ているということを。』『われは彼らが喜びをなし、その生きる限り楽しみをなす以上に彼らにとって善いことはないと知る。また凡ての人が食い且つ飲み、その凡ての労働において楽しみを味わうことは神の賜物である。』生の喜びは勤労のうちにこそ味わわれるものであることをコーヘレトは強調する。それは神の御手から来る賜物である。それは神によって人間に与えられた『分』(heleq)である。それは君のものとして与えられている、それだけを自分のものとしてしっかり掴め、というのがかれの教えの結論である。九・七-一〇には次のように勧めている。
『いざ、喜びをもって君のパンを食らえ。楽しい心をもって君の葡萄酒を飲め。神は夙に君の業を嘉したもうからだ。いかなる時にも君の衣服を白くあらしめよ。君の頭のために油を欠かすな。日の下に彼が君に与えたもう、君の空しい生命の日のかぎり、君の愛する妻を持って人生を楽しめ。けだし、これこそが人生における、また日の下に君が労する労苦における、君の分であるからだ。凡て君の手が為すべしと見るところを力を込めてなせ。 君が行くところのシェオールには、業もなく謀もなく知識もなく智慧もないのだから。』
一切は空しいとの命題から出発したコーヘレトは、それにも拘わらず、この世における生だけは人が神によって与えられた確実な賜物であり『分』であるから、それを充分に楽しめとの結論に達したのである。ただし、その楽しみは日々の勤労のうちに、またその結果としてのみ味わわれる。コーヘレトの立場はその点において独特である。一切は空なるが故に世を逃れ欲を断てというのではなく、また静寂な趣味や思索のうちに楽しみを見出せと教えるのでもない。そうかと言って、この社会を改革して不正を除き正義を実現するために献身せよとも勧めない。かれの指し示すところは日常の勤労生活そのものである。それを、その有りのままに受け容れて、そこに喜びを見出せというのである。もとより、それは悪しき生活であってはならない。悪に過ぎることは身を滅ぼす所以である。けれどもまた、善に過ぎてもいけない――理想主義者、社会をその理想に適うように改造しようと焦る正義の選手、かれらも亦その身を滅ぼす。『正義に過ぎてはいけない、あまりに賢くなり過ぎてもいけない。なにゆえ君は己を滅すべきであろうか。悪に過ぎてもいけない、愚者となってもいけない。なにゆえ君は君の時(eth)の来る前に死のうとするのか。』そのような事はいずれも神の賜物と時とを無視するものである。『神のみわざを見よ――それは、かれが曲げたものを誰が直くすることを得よう』それをも人間が矯正しようなどとは何たる不遜か。(中略)死は一切を還元する。生とその営みと価値とは死によって完全に否定され、差引して何ものも残らない ―― 一切はhebhel hebhalim である。だが、それなるが故にとて、若人よ、悲しむな、日の下に、限定された存在とその期間とを素直に受けて勤労のうちに謙虚な日々を楽しめという、そこにコーヘレト哲学の要諦がある。 」
自分の場合は若人ではないが、「日の下に、限定された存在とその期間とを素直に受けて勤労のうちに謙虚な日々を楽しめ」と言われても、この物質界だけが現実世界だと思っていたのでは空しいだけ。やはり将来に希望を持てなければ心の底から今を楽しむことはできない。

「塵はもと通りに地に戻り、霊はこれを与えた神に戻る」(12章7節)とあるとおり、コーヘレトもけっして唯物論者でもなければ現世主義者でもなく、霊の所在を知る神信仰者である。

有賀氏は3:19~21について、「人間の運命も獣の運命も畢竟は一つである、死は凡ての終わりであると言っていることによって、コーヘレトが人間死後の問題についての想像的願望を斥けていることを知るのである。人間の生気――それは生魂とも霊魂とも訳し得る語であるが――が死後上に昇り、獣類の生気は下に降るということは、当時或る人々の間に行なわれていた来世観を指しているのであろうが、コーヘレトはそれを経験論的立場から否定する。生命はただ『日の下に』『地の上に』おいて有り得るばかりである。人間と獣類という基本的差別すらも死は遠慮なく没却する。いわんや人間相互の間における一切の価値的差別も死の前には何者でもない。」と述べているが(前掲書)、救いとはすでに実現している神関係の原事実である。それは滝沢克己氏の言う「インマヌエルの原事実」にも通じ得ることなのだろう。ただしその前置詞「イム」(~と共に)は、べったりの関係ではなく、つかず離れずの自由な関係。その「つかず離れず」というのは私見では「遠くて近い神」〔ブルトマン〕に対応する。聖書が示す創造主なる「神」は存在すること自体が被造物にとって救いとなるようなお方であり、存在するだけで何かしないなら意味がないということではない。

 

以下、(4)に続く。