以下、私にとってポイントとなる聖句を下に10個挙げておきます。

 

●「日の下で労苦するいっさいの労苦は人間にとっていったい何の益があろう。」(1:3)・・・ここでいわれる「労苦」(アーマール)は「彼の」が付いています。西村俊昭氏の注解では「原因としての『仕事』、『努力』から、その労働が導く結果としての、『獲得されたもの』、あるいは『苦悩』に至るまでの意味を両方含み得る」と言われ、また、「神に対しては人間の悩み(中略)、苦しみの表現であり、人生はつらい労働だという嘆きと認識から、人間の運命の表現となる。敵に対しては悪しき、偽りの行動を表現する」と言われています。1章13節の「労苦」と訳されている言葉は「アーマール」とは別の語で「課題」と訳されており、「知恵の探求」でした。これが「苦しい、悪の」と修飾されており、知的労働としての苦しみですが、好きでやっているなら職業的苦労とは違ってあまりストレスにはならないでしょう。コーヘレトはその知的「労苦」を「神の賜物として受け取った」わけです。

3章10節の「私は見た、神が人の心に与えて耐えさせる(関わらせる)労苦を。」の「労苦」と訳された語も「アーマール」ではなく、それ自体に「苦」という意味があるのかどうかはよくわかりませんが、とにかく1章13節で「労苦」と訳される語と同じもので、ミルトスの対訳では「務め」と訳されています。語源は動詞の「アーナー(ハ)」(悩む、苦しむ、虐げられる、へりくだる/答える、証言する)だから、やはりそれ自体にも「苦」という意味があるのかもしれませんが、「労苦」という訳が適当かどうかは大いに疑問です。しかも岩波版のように、別々の語を同じ「労苦」と訳すとわかりにくくなります。ちなみに西村氏の注解では新共同訳も引用されており、1章13節は西村氏が「課題」と訳した言葉を「労苦」と訳しています(「神が人の子らに与えて骨折らせられる(耐えさせる)労苦』」)。3章10節の解説では、「労苦」は「人間への神の賜物であり、人間を人間たらしめるところのものである。世の中で起こることについての意味の問いでなく、自己の生において成すことと、自己の生についての問いである。循環的繰り返しが問題ではない。グラッセは『神が耐えるように与えた苦しい条件』と解す。」と書かれています。

同じく「労苦」と訳される言葉ではあっても、「アーマル」自体は神が与えるもの(賜物)ではなく、その「労苦」に「幸せを見出す」(2:24、5:17他)ことや「労苦」を「喜ぶ能力」(5:18)が神の賜物だということのようです。だからコーヘレトの言う「労苦」を「神の試練」みたいに解する必要はないと思います。むしろ「苦」から解放され救済されるために「神」の他力を受けることをコーヘレトの信仰から学びたいのです。

現代社会における「アーマール」としての「労苦」には、いじめやセクハラやパワハラなど現代のストレス問題にも通じる対人関係における心労の「苦」も含まれてきます。なのでコーヘレトの知的労苦を拡大解釈しなければ生活への適用は難しいです。2:22~23では、「実際、日の下で労苦し、労苦の限りを尽くし、心で辛い思いをする人に、いったい何が残るというのか。/実に、彼の全生涯は痛みの連続、その営みは憂いそのものであって、夜も心は休まらない。これもまた空である。」と、精神的な苦痛への顧慮も見られます。

特に学業や勤労が他人との共同作業である場合、その「労苦」は心身両面に及びます。キリスト教の非現実的で観念的な教理では、人間にとってのいかなる苦しみも「神」の摂理によるものである限り、本人の救いのために教育的意味がある、などということにされますが、救済宗教への関心は「苦」からの解放であり、意味があるで済まされたんじゃそれこそ意味がないわけです。だからこの著者の「いったい何の益があろう」という率直な気持ちに共感します。そこから「コーヘレト的生活」はスタートするのです。

 

●「私は日の下で行なわれたすべての業を見たが、なんと、そのすべては空であり、風を養うことにほかならなかった。」(1:14)・・・これは人間の自力業、すなわち対神関係なき対人関係だけの現実における幸福追求の虚無性を表わしています。現代でもテレビを中心とするマスメディアがどれだけ差別や偏見を助長する言葉の濫用を行なっているかを思うと、まったくもって今の世の中に「空」を感じざるを得ません。

 

●「食べて飲み、自分の労苦に幸せを見てとること、これ以外に人の幸せはない。私は見きわめた、これもまた神の手による、と。」(2:24)・・・この後で、「私は知った、その生涯の間、楽しんで〔自ら〕幸福を造り出すこと、これ以外に人の幸せはない、と。/また、すべての人が食べて飲み、そのあらゆる労苦に幸せを見てとること、これこそが神からの贈り物である、と。」(3:12~13 ※原文には「幸福を造り出す」などといった言葉はない!西村訳:「私は知っている。人間にとって彼の生涯の間楽しんで幸いに暮らす以外に『良い(幸いな)こと』はない。/しかしまた(知っている)、すべての人が食べ飲みそして彼のすべての苦労に楽しみを得るのは、それは神の賜物である。」、関根正雄訳:「人にとってよいことは楽しむこと、その生涯で善をなす以外にないとわたしは知った。/またすべての人が飲み食いし、そのすべての労苦に善を見うるのは、神の賜物としてなのだ。」、ミルトス直訳:「私は知った、彼らに良いがないことを そうではなく そして彼の命のうちに良いを行なうことに喜ぶこと/そして全ての人間が食べるところの そして飲む そして彼の全ての労苦のうちに良いを見るもまた それは神の贈り物」)や、「私が見きわめた幸いとは、すなわち、神が与えてくれる限りある生涯の間、心地よく飲み食いし、日の下で労苦するあらゆる労苦に幸せを見いだすことである。これこそ人の〔受ける〕配当なのだ。」(5:17)のように似た文句は出てきますが、肝心なことは対神関係の中では空の現実も、日々の生活の中に幸せを見出すことができるということです。 9章では、「さあ、歓びの中であなたのパンを食べ、心地よく、あなたの葡萄酒を飲め。神は、すでに、あなたの業を喜んでくれたのだから。」(7)と言われています。問題は直訳で「良い」と訳されている「トーヴ」をどう解するか?である。谷川政美氏の文法書に付いている単語集では動詞は「良い、楽しい、嬉しい」。形容詞は「良い、善良な、純粋な」。名詞は「幸福、繁栄、良い物、善」。西村氏の注解では、2:1 , 26では、「善と悪の倫理的対立の意味(12・14)でなく、『幸い』。しかし慣習的知恵文学では、幸いは人生の意義と一致しているしるしであり、悲しみは不一致のしるしである。」(p130)とか、「道徳的な意味で『善』ということよりも、神に『恵まれた』、『喜ばれる』人に近い(7・26参照)。人は生の意味を見出すことができなかった(2・1)。」(p183)とあるので、関根訳はその点で倫理的解釈に偏向している感がある。また3:10の注解で「労苦」(イネーヤーン)については「これは人間への神の賜物であり、人間を人間たらしめるところのものである。(中略)グラッセは『神が耐えるように与えた苦しい条件』と解す。」とあるが、「労苦」と訳す以上、救済宗教としては現実の人生苦である「怨憎会苦」や「愛別離苦」も含めて解されて然りであり、それはけっして美化し得ない「苦」なのであるから、インテリ・ブルジョワの学者の見解は批判的にとらえないと実存主義的信仰の立場には合わない。

いずれにせよ、著者コーヘレトが考えている暮らしは、実験的に行なったとされる贅沢なものとは違って庶民的です。

日々の労苦に幸せを見てとる(2:24の注には「自分自身をして自分の労苦のなかに幸せを見てとらせること」とあり、「『労苦』に『幸せ』を見るという点は逆説的。」と書かれている)というのは、「労苦」それ自体を幸福の要素とする考え方に変わったなどということではありません。「苦」を受け容れるということでもなければ、ましてや「苦」を自虐的に楽しもうとするものでも勿論ありません。勤勉なる国民を自負する日本人好みの労働礼賛ではありません。
ここで「日々の労苦に幸せを見てとる」とは、「労苦」は前に述べた対人関係における精神的な苦痛、心労をも含むものであり、できれば避けて通りたいことではありますが、人生は対人関係から離れてはあり得ないわけで、少々心が傷つくことも怖れることなく前向きに対人関係を生きようということだと解します。そのような意志の力が「神からの贈り物」なのです。

もちろん、心が傷つかないためにはなるべく対人関係を避けて通るのが無難です。傷とまではいわなくても、要するに対人関係での精神的負担をなるべく軽減するには適当に相手していればいいのです。それも生活の知恵です。しかしそれで済まなくなることもあるのが現実です。避けたり逸らしたりしてなんとかやれているうちはいいですが、相手は人間なのでどうしてもぶつかる時もあり得ます。だからその時にも、自分を失わずに対処できるとすれば、それこそ敵も争いもない平和(シャーローム)な状態であり、幸せということになるのです。

もっとも、その対処ができなければ逆に地獄の様相を呈することになるわけで、その成否は他力の信仰にかかってくるのです。この場合の対処とは何か、一言でいえば「許容」です。仮に相手が自分を軽んじるようなもの言いをしたとしても、それをいちいち悪いように気にせず許容してゆくのです。これができれば言い争うこもなく、相手を不快にせずに済みます。言わば不動心とか心頭滅却ではないけどそういう境地になれれば対人関係を恐れることはないのです。むしろ相手との友和に「幸せを見てとること」ができるのであり、そんな生活全体が対神関係の内にある、すなわち自力の業も「神の手による」ことを確信してこそ与えられる賜物です。

ところで詩篇には「嘆きのうた」といわれるものがあり、その代表として22篇を挙げることができます。その7~8節は「しかし私は、虫けらで、人ではない。ひとの笑い草で、民の軽蔑の的。/私を見る者はみな私をあざ笑い、唇をとがらし、頭を振る」といった言葉があります。この詩篇の作者をダビデ王とみなしたり、キリスト預言を読み込んだりした解説では、こういった生々しい言葉も色あせてしまいますが、私はこの22篇が「ダビデの歌」と書いてあるからといってそのまま信じたりはしません。

また、冒頭句がイエスの十字架上の言葉と重なるからといって、キリスト論的な読み込みはしません。編集の手が加わっているにせよ、もともとはひとりの民衆信者の言葉だと信じています。岩波版の詩篇22篇の注には、「おのが神に棄てられ、ひとに嘲られて虫けらに等しき身を嘆きつつも神に救いを求めて応えられた人の、祈りと賛美。」と書かれてあります。

とにかく、「ひとに嘲られ」るとか軽蔑されるということの苦しみは時代を超えています。それでも自力で解決しようとせず(復讐するは我にあり)、「神に棄てられ」たと言いながらも「神」を賛美しているこの人の力はどこから来ているのでしょうか?まさに絶対他力としか言いようがありません。我々は「神に棄てられ」るなどということはありません。そう思うほどに絶望することは、この詩人のようにあり得るのでしょう。でも、あらゆる苦しみからの救いを求める先には、創造主であり魂の父なる「神」おひとり以外にはないのです。それがイエスの教えの骨子にほかなりません。

 

●「誰が人を導いて、彼の〔死〕後に何が起こるかを見きわめさせてくれようか。」(3:22b)・・・その前の19節では人間も動物も同じ「霊」であって同じ場所に赴くと言われています(6:6参照)。また9章には「あなたが赴くことになる冥界には、業も法則も、知識も知恵もない」(10)とあり、12章には「塵はもと通りに地に戻り、霊はこれを与えた神に戻る」(7)とありますが、普段の死後についての思いはこの12:7の程度でよいのです(ヨブ記との関連では5:14も参照)。キリスト教の中には、死後のことで脅すようなこともあります。特に信仰的立場を異にする相手に対して地獄に堕ちるぞ、なぞと言う人があります。あるいは天国に行くために善行をするといった道徳目的とする人もいます。さらには死後の教えは怪しげな宗教の勧誘に使われやすいといったこともあります。そういったことで私などは、死後のことを見て来たように言う人の話は信用しないのです。それは死後の救いを信じないという意味ではなく、日常は考えずに生きるのです。

 

●「神の前では、言葉を出そうとして、慌てて口を開いたり、心を焦らせたりするな。なぜなら、神は天におり、あなたは地上にいるのだから。」(5:1)・・・注には「あせったからといって、祈りの言葉が天に届くわけではない。」とあるとおり、私はこの言葉から「神」と人間との距離の遠さを感得します。7:24の「存在するものは遠くて、深く、また深い。誰がこれを見いだしえよう。」を思い出させますが、この「存在するもの」とは、注によれば「存在の根拠」だそうで、神学者ではティリッヒあたりの神観に通じます。しかし啓示宗教である以上、「見いだしえ」ないことはありません。ただその「啓示」には「特別啓示」と「自然啓示」とがあり、前者の偏重がキリスト教におけるキリスト中心主義につながります。私は「特別啓示」を認めるとしてもそれはイエスの実体ではなく、彼と「神」との「父― 子」の関係であるとみなします。「子は親を映す鏡」という諺のとおりです。

とにかく、コーヘレトにとってイエス・キリストなどという人物は未知なる存在であり、少なくとも「神」ではないわけです。「神」は「地上」には認めず「天」にのみ認めるという姿勢が聖書宗教の要諦です。但し、イエスが告知した「神の支配」の現実は「地上」から懸け離れた「天」の話ではありません。自分の足下の現実から「神の支配」は始まっているからです。イエスの視線は極めて現実的です。「神の支配」と訳される言葉は「神の王国」をも意味し「天(の王)国」とも解されますが、その入口は我々の日常生活の中に見出されるものです。重性の現実においては物質界を超えた霊界において見出されるものです。

 

●「たしかに、人はその生涯を過度に案ずることはない。なぜなら、神が〔人に〕その心の歓びをもって、こたえてくれるのだから。」(5:19)・・・人生、考え過ぎるのはよくないです。過ぎる分が自ら心労を招くからです。能天気に生きてゆける人も、幸せなのかどうかはわかりませんが、やはりマイナス思考が心身によくないですね。でも自己啓発セミナーみたいなレベルで言うのではありません。あくまでも宗教的、それも聖書の、さらにはコーヘレト的に、です。6章では、「〔人は〕多言を弄して、空しさを増す。人に、一体、何が残るというのか。」(11)とありますが、発言に限らず、思弁を弄する無意味さの指摘ともとれます。

 

●「幸いの日には幸いであれ。災いの日には〔災いを〕見つめよ。人間が後のことを何一つ見きわめ〔られ〕ないようにと、神はあれもこれも造り出したのだ。」(7:14)・・・「災いを見つめ」るということは、まさに対神関係に身を置いた人間にして言えることです。極端な話、死の覚悟も定まっているような境涯を感じます。簡単に言えば、なるようにしかならないということ、「神の定め」の下に生きる信仰です。

恐れるべきは人間ではなく、畏れるべきは「神」なのです(8:12~13参照)。「体を殺しても魂を殺すことのできない者どもを〔もう〕恐れるな。むしろ、魂も体もゲヘナで滅ぼすことのできる者を恐れていよ。」(マタイ10:28)・・・太宰治は短編小説『トカトントン』の最後のところでこのイエスの言葉を引用していますが、その文語訳は「身を殺して霊魂(たましい)をころし得ぬ者どもを懼るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ」となっており、「この場合の『懼る』は、『畏敬』の意にちかいようです。」とわざわざ書いているので、その点では、「魂も体もゲヘナで滅ぼすことのできる者を畏れていよ。」と訳すほうがよいのかもしれません。信仰とはまずもって「神を畏れる」ということなのです。その「神」の何たるかは教理のように定義され一般的に説明されるような静的で客観的な事柄ではなく、当人自身が信頼することにおいて自覚され、また隣人に対して証しされる動的で実存的な事柄なのです。

 

●「人々が語るすべての言葉に心を留めてはならない。そうすれば、あなたを呪うあなたの僕に耳を貸さなくて済む。/あなた自身が他人を幾度となく呪ったことを、あなたの心は知っているはずだ。」(7:21~22)・・・人間関係の現実から逃避するのではないが、余計な人の話に心を乱される必要はないわけで、聞いて嫌な思いがするようなことは訊かないでおいたほがよいのです。わざわざ自分を苦しめることはすべきではない。誰かが自分を嫌っているようなことを聞いたらどんなに不快にされるかは、自分自身が誰かを嫌う言葉を発してきた経験から想像されます。

 

●「あなたのパンを水の上に投げよ。多くの日を経て、あなたはそれに遭遇しよう。」(11:1)・・・注釈によると、「解釈が分かれる節」であり、「無駄に見えても、他者に善行を施しておけば、いずれその報いを得る、と解されることが多い」とのことだが、他にも「パンを水の上に投げる」は海上貿易のことで、危険を伴う投資が利益をもたらす」との見解もあるそうです。私の解釈は後者に近く、貴重な食糧であるパンを水の上に投げるというリスクを取る行為が、神信仰のダイナミズムを表わしている気がします。それは自分の利益のための投企ではなく他者のための投企であり、あくまでも他力の業であって、「多くの日を経て、あなたはそれに遭遇しよう」とは、その成果を生前か死後かはわらないが見せてもらえる時が来るという希望を示していると思います。だから出会いがあれば無駄に見えるような献金もします。

 

●「もし、あなたに向かって支配者の気が〔苛〕立っても、あなたの持ち場から離れてはならない。平静さが〔あなたを〕大罪から引き離す。」(10:4)・・・ここでの「支配者」に職場の上司などを当てはめると、そのまま現代社会でも通用する格言になります。いったんキレちゃったらおしまいです。ひとつ間違うと相手にケガをさせて警察沙汰になります。大罪とまではいかないにしても大きな損失です。そのためには対神関係による「平静さ」が必要です。これこそ聖霊の賜物です。安定した心は安定した対神関係から得られるのです。

 

以上の10句の他にも、3章の「~に時がある」(1~8/8:6参照)とか「日の下で、さらに私は見きわめた。公正の場、そこに悪徳があり、正義の場、そこに悪徳がある、と。」とか、7章の「あなたは義し過ぎてはならない。あまりに賢くあってはならない。どうして自滅してよいだろう。/あなたは悪過ぎてはならない」(16~17)とか、8章の「たしかに、あらゆる出来事には時と審きがある。たしかに、人の悪は自らに重くのしかかる。」(6)「戦争にくつろぎの時はない。悪徳が悪徳者を救うことはない。」(8)とか、9章の「義人も賢者も、彼らの働きも〔いっさいは〕神の手の中にある」(1)とか、「あなたの空しい一生涯、愛する妻と共に人生を見つめよ。それは、あなたの空しい歳月を通して、日の下で、〔神が〕あなたに与えたものである。これこそ、その生涯において、日の下で労苦するあなたの労苦において、あなたの〔受け取る〕配当なのだ。」(9)とか「あなたの手が届くことは何でも、力を尽くしてこれを行なえ。」(10)などは私自身のためにあるような言葉であり、さらに12章の有名な「青春の日々にあなたの造り主を思い起こせ。災いの日々が訪れて、もはやこれらに私の楽しみはない、などと言う歳〔月〕が近づかないうちに。」(1)など、挙げておくべき言葉もありますが、あえて私のブログ内容のポイント聖句は10句に絞り込みました。

 

そして、私がこの「コーヘレト書」に学んだ内容のポイントは、下に引用した有賀鐵太郎氏の言葉に示されており、特に赤を付けた箇所です。

すなわち、ここではコーヘレト宗教の徒とは実存主義者であり、生活保守主義者であって、聖書的宗教とは必ずしもキリスト教のような社会改革者である必要はない、「正義の選手」になれなくたっていい、ってことです。偽善者にならなくてすむのです。とにかく自分たちのために働いて生計を維持してゆけばよいのです。そこに意識の中心を置くならば、それが対神関係の中である限り、自ずと「神からの贈り物」としての幸せな生活が与えられてくるのです。
「一切は空しいとの命題から出発したコーヘレトは、それにも拘わらず、この世における生だけは人が神によって与えられた確実な賜物であり『分』であるから、それを充分に楽しめとの結論に達したのである。ただし、その楽しみは日々の勤労のうちに、またその結果としてのみ味わわれる。コーヘレトの立場はその点において独特である。一切は空なるが故に世を逃れ欲を断てというのではなく、また静寂な趣味や思索のうちに楽しみを見出せと教えるのでもない。そうかと言って、この社会を改革して不正を除き正義を実現するために献身せよとも勧めない。かれの指し示すところは日常の勤労生活そのものであるそれを、その有りのままに受け容れて、そこに喜びを見出せというのである。もとより、それは悪しき生活であってはならない。悪に過ぎることは身を滅ぼす所以である。けれどもまた、善に過ぎてもいけない――理想主義者、社会をその理想に適うように改造しようと焦る正義の選手、かれらも亦その身を滅ぼす。『正義に過ぎてはいけない、あまりに賢くなり過ぎてもいけない。なにゆえ君は己を滅すべきであろうか。悪に過ぎてもいけない、愚者となってもいけない。なにゆえ君は君の時(eth)の来る前に死のうとするのか。』そのような事はいずれも神の賜物と時とを無視するものである。『神のみわざを見よ――それは、かれが曲げたものを誰が直くすることを得よう』それをも人間が矯正しようなどとは何たる不遜か。(中略)死は一切を還元する。生とその営みと価値とは死によって完全に否定され、差引して何ものも残らない ―― 一切はhebhel hebhalim である。だが、それなるが故にとて、若人よ、悲しむな、日の下に、限定された存在とその期間とを素直に受けて勤労のうちに謙虚な日々を楽しめという、そこにコーヘレト哲学の要諦がある」(~『キリスト教思想における存在論の問題』〔創文社〕第一部「ヘブライ思想における特殊性と普遍性」の「第三章 コーヘレト哲学」〔p97~〕)最後の箇所に「限定された存在」とありますが、まさに対神関係を生きるべく選び出された人間はイエスの死に様に象徴されているとおり、「神」の前に磔(はりつけ)にされ釘づけにされているのであり、その自己限定があればこそ無用な関心に心を奪われて貴重な人生の時間を無駄にすることも防げるわけです。

人間にはいろんな可能性がありますが、そのひとつひとつを追っかけていたのではキリがありません。結局、真理をつかめずに人生が終わってしまことにもなりかねません。だから自己限定して、聖書・・・特にその中でも旧約聖書の「コーヘレト書」に示されている対神関係をモデルに生きる、それが私の残された人生なのです。妻と共に。

最後に『ATD旧約聖書注解15  箴言・伝道の書』から、特に重要と思われる部分を引用しておきます。

 

「コーヘレトは深い意味においては懐疑主義者ではない。神は彼のあらゆる問いを越えた妥当な現実として、またすべてのものを保護する支配者として、決して疑問の対象に据えられて論ぜられることがない。神が不確かな光の中に押し出されるようなことすらもないのである。コーヘレトはその点では旧約聖書の人間であり続ける。だが、知恵が問うことを常とする人間論的な領域においては、彼の問いの下にすべてのものが粉砕されている。彼自身、創造主(この言葉は一二1における締め括りの格言的論述において、ただ一度だけ極めて慎重な仕方で強調しつつ表現されているが、これは決して削除されるべきではない)としてすべての物事を掌握し意のままにする神の領域においては、イスラエルの神表現に見出される表現を断固として保持し、その表現に従う。確かにコーヘレトは、神がイスラエルを相手として、これを導いた特別な歴史については語らず、また特徴的なことだが、ヤハウェという名すら避けて通る。しかし、その際コーヘレトは、広く知れ渡った知恵がそれ以前既に枠づけた空間の中にすんなりと納まっている。事実箴言においても事情は似ており、ヤハウェの名があちこちに散見できるのであるが、そうだからと言ってヤハウェと契約の民イスラエルの歴史に関する言及を捜し求めてみても、それは無駄な努力と言うものである。具体的な神名の代わりに『神』という普遍的名称を用いることについては、しかし、周辺世界の知恵にはっきりとした並行例がある。このような創造神学の中に、比較的古いイスラエルの知恵もまた納まっており、この創造神学の枠組の中で、間違いなくコーヘレトの神は、あらゆる運命、あらゆる時、あらゆる偶然の支配者であり続ける。それだけでなく、神が万事をその時に応じて良しとされ(三11)また神が人間をも『正しく』造られた(七29)ことは、創世記一章とのはっきりとした関連を持っている。つまり、人間には、時を掌握しそれを意のままにすることは断固として根本的に拒まれているのである。人間は『天の下』や『太陽の下』という空間の中で生きるのであって、そこではただその空間の上にあるお方を恐れさえすればよい。いかにも神の御手から来るに相違ない(七13)世の物事の歪みが『権力者から出る禍い(失政)』(一〇5、これはコーヘレトが語りうる最悪のもの)に妥当すると思われるところでも、人間には理解しえなくとも、すべてのものを時に応じて良しとする神を恐れることへの呼びかけは断固として保持される。しかし、コーヘレトはこのような否定的な確認では終わらない。時と偶然は打ちのめすことがあるのみならず、恩恵を与えることもあるのだ。このような恩恵を与えることにおいて、神は贈与するのである。(中略)このような贈与に即して言えば、時機という与えられた『分け前』の形でのみ、分与されるものを把握し、またそれによって神の賜物を、そのままで受け取られるべきものとして認識する、という勧めである。(中略)
コーヘレトは『神を恐れること』によって、分与する神を、探求しえない存在として崇める。その神たるや、人間を試そうとして(三18)、人生の幸福や成功において全部をつかもうとする企てを繰り返したたきのめし、人間存在のむき出しの断片性と脆さの中へと人間を否応なく追い込む。そもそもコーヘレトの促す楽しみは、すべからく現在の所有物を人が自ら楽しむことに外ならないが、人が所有するところは彼に臨む時によって与えられるのであり、神は時の陰に隠れているのである。(中略)

コーヘレトはその人生の始動状態にある若者をも促すことができる。すなわち、このような上昇期にあることを、配分された分け前として今や自覚的に受け入れ(一 一9ー10)、またその際、いつでも自分の『創造主』を覚える(一二1)よう促すのである。その時若者は、青春の後には労苦と共にいやがおうでも老いの衰えがやって来るという事実に気がつくことになる(一二1ー7)。あらゆる点ではっきりすることがある。それはコーヘレトが共同体の規範的敬虔並びにその神礼拝の義務に対する公平な弁護者では、もはや決してありえないということである。いや、事実また人間の敬虔は、処世術や出世の可能性として誤解される誘惑にたえず晒されているのである。人間が神に接近できると思うまさにそのところで、コーヘレトは人生の可能性 ―― 正しく『敬虔な』人生の可能性 ―― の抑制へ、またその限界の正しい認識へ、執拗に促さずにはいられない(四17ー五6〔五1ー7〕)。『神は天に、あなたは地にあるのだから、あなたは口数を少なくせよ』(五1〔2〕)。この箇所では、人の祈りは単に無意味なものだと考えられているのではない。むしろ、そこでは人間の限界が指摘されている。その指摘はまさに、人間が自らの熱狂的敬虔の業績によって義や神の側からの報酬さえも手中にできると思い込む、その点に向けられている。人間にとっての『財産』を考える際に(六12の問いを引き受けての七1ー14)コーヘレト自身が最終的に『良し』としたのは、人間が『順調な日に』そこで身に生じる『財産』を手にすることに外ならない(七14)。(中略)

ありふれた知恵に対するコーヘレトの異議は、どんな場合でも、あらゆる熱狂的ヒロイズム、それどころか人間の業績や所有物の神話化のあらゆる形態に対するきっぱりとした断念である。人間の労働、さらに所有物、また道徳的正しさや自らの敬虔すらも、人間に安全を保証する砦とは決してなり得ない。神はすべてのものを御自身の御手と自由の中に置く。だが人間は、いつどこでも『分け前』が分与される限り、神を恐れ、自らに与えられた『分け前』で生きることになろう。自らにその分け前が与えられたところで、人間は『自らの創造主』を『覚える』ことになろう(一二1)。」」(p274~279)  

「旧新約聖書の言葉は、神が御自身の民のところに歴史的に到来する奇跡について知っており、またこの福音によって神の食卓に近づくよう人間に呼びかける神の高貴な招きについても知っている。聖書が告知するのは、神が御自身の民のところに近くいますという福音であり、また全き信仰によってこの近くにいますお方に身を委ねるようにという呼びかけである。コーヘレトはこの神が近くにいますことについて何ひとつ語るすべを知らない。コーヘレトの言葉が神の『与えること』(一13、二26、三10-11、五17-18〔18-19〕、六2、八15、九9、一二7)並びに神の『賜物』(三13、五18、〔19〕)についてだけしか語るすべを知らないという点では、律法と預言者及び福音書における聖書の福音の豊かさに比べてはるかに劣っている。しかし、人が造られた世界並びに造られた人間の現実と真に出会う時、コーヘレトは頑としてひとりの門番である。人間は(まさに創一26、28の祝福の下にあるからこそ)常に賜物によってのみ生きることができるからである。」(p282)