この哲学の全貌は、これで明らかとなった。それはヘブライ思想の流れにおいて、その正統信仰への反立として現われたものであった。そして、それはヘブライ人が直接ギリシア哲学を学ぶ以前においても如何なる思索力を持ちえたかを雄弁に物語っている。それは一つの実存哲学として首尾一貫した思想をなしている。そのような否定面が現われなければヘブライ思想が一神教的倫理主義乃至は律法主義を抜け出ることはできなかったであろう。けれどもコーヘレトの否定は主体的に徹底してはいない。かれは生とそれを享受し得る能力とを極めて素朴に承認する。否それこそはかれにとって動かし難い公理であり前提であった。従って否定ののちに出て来るかれの肯定も日常性の肯定に終わるのであって、その日常性を内から破ってこれを再創造するようなものではない。ヘブライ思想の発展はその状態に止まるべきものではなかった。論理的には、コーヘレト哲学から大乗仏教的智慧が現われ来ることも或いはできたであろう。しかしながら、ヘブライ思想はそのような方向には進み得なかった。コーヘレトの神は時間と偶然とのかげに掩蔽された「隠れたる神」であるが、しかしその神の存在と活動とは否定されていない。その神はやがて又その蔽いを排して自らの姿を現わさざるをえない。その隠れたものが同時に現われたもの、隠れたものとして現われ、現われたものとして隠れている、そのような構造を啓示信仰が示すとき、始めてそれは人間を徹底的絶望に導きつつ、死を経て復活せしめることができるであろう。そこに新たな智慧の源泉が開かれる筈である。ヨブ記はそれを示唆している。
ヘブライ思想はそのような方向を求めて進展して行く。だが、コーヘレト哲学がその過程において果たした役割は大きい。因みにかれがあのような理論からあのような実践的帰結を抽出したことの背景には、何か当時の政治的状況の影響といったものがあったかも知れない。シリアとエジプトとの二つの帝国主義の間に介まれたユダヤ民族の運命は絶えず不安であった。コーヘレトとその同時代人たちを包む社会的空気は重苦しいものであったに違いない。「君の思のうちだにも王を詛うな、君の寝室のうちで富める者どもを詛うな。天の鳥がその声を伝え、翼ある者がそのことを告げるであろうから」という卑屈な勧告がなされなければならないことは、コーヘレトの責任というよりも寧ろ当時の社会機構と政治のそれに帰せらるべきものであろう。それにしても「われは日の下に行われる一切の圧迫を見た。そして、見よ被圧迫者たちの涙を」と嘆きながら、その言葉の上の批判以上に、その事実に対して何もなそうともせず、むしろ何もなし得ないとするような哲学は腑甲斐なしとの非難を免れることは難かろう。けれどもかれは教理的に硬化した敬虔家や独善的な正義論者よりは遥かに正直であり、真実でもある。かれは一個の偉大な哲人であったと言うべきであろう



(以上で本文は終わりです。以下、「註」は、ブログ筆者が選んだものだけを抜粋して記載します。〔 〕内の数字は節。点々の前の文が本文中で赤字部分の横に註の数字が括弧入りで記入されている文。点々の後の文が註として記されているもの。ウムラウトや発音を示す記号は省略。)


〔一〕

・然るにヒッレルの学派によれば、それは手を汚す」との対立が両学派の間に存したことがミッシナー・エドゥヨーの中に出てい。・・・Eduyoth 5
3.「手を汚す」とは、聖典性を持たないこと、「手を汚さない」とは、それを持つことを意味する。

〔二〕

・「世代は去り、世代は来たる、けれども地は限りなく存続す。・・・これは必ずしも地の永遠性を説いているのではなく、ただその存続の殆んど無際限に久しいことを意味するのみである。
・日はのぼり、日は沈み、おのが場所に喘いでゆ、・・・地は平盤であって、深遠の上に浮かんでいると考えられている。西に没した太陽は地下の深淵に設けられた道を通って東に帰るのである。
・流れ出て来たその場所に、かしこに再び帰ってゆ。・・・河、湖等の水は地下の深淵から来るものと考えられ、それは流れ出ては又かしこに帰ってゆく、その循環を繰り返すのみであるとの意。
・先の事どもについての記憶はない。・・・Galling(Handbuch zum AT,Die Funf Megilloth,1940)の訳では es gibt nur kein Erinnern an die fruheren となって居り、それは先のZeitenを指すのであって、Menschengeschlechter を指すものではないとする。但しRevised Version ではgenerations をイタリックで補っている。バートンの説によれば、この解釈の方が正しいことになる。D.B.MacDonald,The Hebrew Philosophical Genius,1938,p.
71 には the former things,the latter things と訳している。拙訳はこれに最も近い。

 
〔三〕 

・後者は「ある事を、その凡ゆる側面について究める」ことを意味す。・・・tur はここの外に二・三、七・二五に出る。Zirkel 及び Gratz は此の語にギリシア思想の影響を見る。Pfleiderer,Die Philosophie des Heraklit von Ephesus,1886,S.265 もそれに賛意を表している。ソロモンが優れた智慧を有していたとの伝説については列王紀三及び四・二九以下を参照。
・そのような無益な追究を放棄することこそがコーヘレトの説きたい真の智慧なのであ。・・・この外、七・二三-二四、八・一六-一七、一一・五において、智慧が一切を究め得ないものであるとの思想が現われている。
・「われは我が心にいった、いざ来れ、われは歓楽を以て汝を試みよう、されば汝たのしき事を経験せよ、。・・・字義通りに訳せば「善きことを見よ」となる。歓楽と訳された simhah は Freude,Frohlichkeit,mirth,pleasure,joy などを意味する。
・この事もまた空し」・・・コーヘレト二・一四- 一五。
・死後は皆等しく忘れられ。・・・二・一六。これと対照的な立場は箴言一〇・七(義人の記憶は祝福される)及び詩一一二・六(義人は永久に記憶されるであろう)に現われる。勿論これが正統派の立場である。
・このような事を想うとき、コーヘレトは「生を厭うた」のであ、・・・コーヘレトニ・一七。
・「わが心を絶望に渡した」のであっ。・・・二・二〇。
    

〔四〕

・それは人間が神のなしたもう始から終までの御業を見出し得ないためであ。」・・・コーヘレト三・一〇 - 一一。

〔五〕

・われは言った、これも亦空しい。」・・・八・一四。
・審判の場所に不正があり、正義の場所に罪があ。」・・・三・一六。

〔六〕
・誰がそれを見出し得るであろ」。・・・七・二三-二四。ロマ書一一・三三参照。
・彼はこれを見出すことは出来ないのであ」・・・八・一六-一七。
・君は一切を為したもう神のみわざを知り得ないであろ。」・・・一一・五。「生気」(ルーアハ)を風と訳すことも可能であるが、ジャストロウ、マクドーナルド、ガリングはいずれも拙訳のように解している。
・「そして光は快い、また太陽を見ることは目に楽しいことであ」・・・一一・七。
・それは神のみ手から出ているということ。」・・・二・二四。
・その凡ての労働において楽しみを味わうことは神の賜物であ。」・・・三・一 - 一三。
・それは神によって人間に与えられた「分」(heleq)であ。・・・三・二二。heleq は portion を意味する。コーヘレトはこの語をくりかえし用いている。


〔七〕

・コーヘレト哲学から大乗仏教的智慧が現われ来ることも或いはできたであろ。・・・コーヘレトにおいて仏教の影響を認める学説は Dillon,The Sceptics of the Old Testament,London,1895 によって提唱されたが、仏教についての充分な研究にもとづいた判断とは受け取りがたい。
・翼ある者がそのことを告げるであろうか」・・・一〇・二〇。