コーヘレトは全くの限界状況に身を置いている。人間にとって起こるべきことは、その時において、必ず起こる。しかしそれが何ゆえかく起こるかをかれは知ることができない。それは人間にとっては偶然(pega)であり、運命的に「起ること」(miqreh)であるに過ぎない。それを生起せしめる者は神であるが、その神の智慧を認識することは人間には全く不可能である。コーヘレトは、その遥かなる及び難いものを意識するとともに、その意識によって却って現実の生へと、「地の上なる」人間に許された唯一の生の営みへと向かわせられる。

「この事すべてを我は智慧を以て吟味した。われは言った、われ智慧を得るであろうと。だが、それは我に遥かなるものであった。有るところのものは遥かなるものである。そして深くして深い。誰がそれを見出し得るであろう」。
「われは心をつくして智慧を知ろうとし、また地の上に行われる労苦を見ようとした――けだし『昼も夜も彼はその眼に眼を見ることがない』――そして我は神のあらゆるみわざを見たが、人間は日の下に行われる業を悟ることは出来ない。人間が如何に探ろうと努力しても、見出さないであろうから。よし賢者が将にこれを知ろうとしていると思っても、彼はこれを見出すことは出来ないのである」
「孕める女の胎内の骨に通う生気の道の如何なるものかを君が知らないように、君は一切を為したもう神のみわざを知り得ないであろう。」

コーヘレトは智慧を求めて、それの到底見出し得ないことを悟ったのであるが、その何者をも掴み得ないところにこそかれの説きたい真の智慧があるのである。人間はただ地上に、時間とともに、存在する者ではなく、彼の存在をそこに限定する「深くして深い」(amoq amoq)ものを意識する有限的存在として「日の下に」生きる。コーヘレトはその限界を自ら突破して神秘の懐に憩おうとするのでもなく、またその限界のかなたから自らの姿を現わす恩寵の神と遭遇するのでもない。それにも拘わらず、コーヘレトに宗教がないとは言えないことは既に見た処によって明らかである。かれの宗教はかれをして、絶望ののちに、生命の貴さを改めて認識させる。人間が徒らに目的を追うて労苦するかぎり、生は厭うべきものであるに違いないが、それは生そのものが悪だというのとは異なる。人間が今ここに生きているという事実、これこそはかれにとって掛替えのない貴いことなのである。このように観点が変われば、悲観論は消える。「日の下に」あることはもはや苦痛を意味せず、却って喜びをもたらす。「そして光は快い、また太陽を見ることは目に楽しいことである」と言えることになる。その楽しみと喜びとは追い求むべき目的ではない。それが追究された時には喜びは忽ち失せる。喜びは今ここに、この太陽の光の下に営まれる生のうちに既にある。「人間が食い且つ飲み、その労働のうちに自分の魂を楽しますこと、それに優る善いことは人間にとってない。また此の事をわれは見た、即ち、それは神のみ手から出ているということを。」「われは彼らが喜びをなし、その生きる限り楽しみをなす以上に彼らにとって善いことはないと知る。また凡ての人が食い且つ飲み、その凡ての労働において楽しみを味わうことは神の賜物である。」生の喜びは勤労のうちにこそ味わわれるものであることをコーヘレトは強調する。それは神の御手から来る賜物である。それは神によって人間に与えられた「分」(heleq)である。それは君のものとして与えられている、それだけを自分のものとしてしっかり掴め、というのがかれの教えの結論である。九・七-一〇には次のように勧めている。

「いざ、喜びをもって君のパンを食らえ。
 楽しい心をもって君の葡萄酒を飲め。
 神は夙に君の業を嘉したもうからだ。
 いかなる時にも君の衣服を白くあらしめよ。
 君の頭のために油を欠かすな。
 日の下に彼が君に与えたもう、君の空しい生命の日のかぎり、君の愛する妻を持って 人生を楽しめ。けだし、これこそが人生における、また日の下に君が労する労苦にお ける、君の分であるからだ。凡て君の手が為すべしと見るところを力を込めてなせ。 君が行くところのシェオールには、業もなく謀もなく知識もなく智慧もないのだか
 ら。」

一切は空しいとの命題から出発したコーヘレトは、それにも拘わらず、この世における生だけは人が神によって与えられた確実な賜物であり「分」であるから、それを充分に楽しめとの結論に達したのである。ただし、その楽しみは日々の勤労のうちに、またその結果としてのみ味わわれる。コーヘレトの立場はその点において独特である。一切は空なるが故に世を逃れ欲を断てというのではなく、また静寂な趣味や思索のうちに楽しみを見出せと教えるのでもない。そうかと言って、この社会を改革して不正を除き正義を実現するために献身せよとも勧めない。かれの指し示すところは日常の勤労生活そのものである。それを、その有りのままに受け容れて、そこに喜びを見出せというのである。もとより、それは悪しき生活であってはならない。悪に過ぎることは身を滅ぼす所以である。けれどもまた、善に過ぎてもいけない――理想主義者、社会をその理想に適うように改造しようと焦る正義の選手、かれらも亦その身を滅ぼす。「正義に過ぎてはいけない、あまりに賢くなり過ぎてもいけない。なにゆえ君は己を滅すべきであろうか。悪に過ぎてもいけない、愚者となってもいけない。なにゆえ君は君の時(eth)の来る前に死のうとするのか。」そのような事はいずれも神の賜物と時とを無視するものである。「神のみわざを見よ――それは、かれが曲げたものを誰が直くすることを得よう」それをしも人間が矯正しようなどとは何たる不遜か。
コーヘレトは人生の経験を豊かに積んだ哲学者として、静かに若者らに呼びかける。
「楽しめ、若者よ、君の若いうちに、うら若き日に君の心に喜びあれ。
 君の心の道のまま歩め、君の眼の見るところを楽しめ。
 君の心から憂を去らしめよ、君の肉から禍を失せしめよ。
 君のうら若き日に君の墓を思え、年の若さも髪の黒さも空しいのだから。」

やがて君の上にも老いと死とが訪れる。その「禍の日の到らぬまに、君が好ましからずとする年の近づかぬまに」、若人よ、君はその仕事と生活とを楽しめ――
「なぜなら人はその永遠の家にゆく、そしてくやみの人々は道にゆきかう。
 かくて塵はもとの土に帰り、生気はこれを与えたもうた神に帰るであろう。
 空しいとも空しい、とコーヘレトは言う、一切は空しい。」
死は一切を還元する。生とその営みと価値とは死によって完全に否定され、差引して何ものも残らない ―― 一切はhebhel hebhalim である。だが、それなるが故にとて、若人よ、悲しむな、日の下に、限定された存在とその期間とを素直に受けて勤労のうちに謙虚な日々を楽しめという、そこにコーヘレト哲学の要諦がある。