コーヘレトの神は遥かなる神であるばかりでなく、また人間の倫理的規範にも無関心である。人間はむしろそれにも拘わらず善悪の差別を立てているが如くである。その善悪の差別を保証するような神の道徳的支配をコーヘレトは認めることができない。もとよりわれわれが今読むコーヘレトの中には著者がそれを信じているかの如く思わせる言葉が出るのであるが、それは先にも言った「ハーシード」的加筆によるものであって、コーヘレト自身の思想に属するものではない。それは例えば次のような言葉である。「我はわが心のうちに言った、神は義しき者どもと悪しき者どもとを裁きたもうであろうと」(
三・一七)、「誡を守る者はまがごとを知らない。そして賢者の心は時機と裁きとを知る」(八・五)、「全篇の結論を聞け、〔いわく〕神を畏れ、その誡命を守れと。けだし、これは凡ての人間にあてはまる。なぜなら神はあらゆる業を、善にもあれ悪にもあれ、あらゆる隠れたる事について、裁きたもうであろうから」(一二・一三-一四)。それらの言葉に現われる思想と正反対のものがコーヘレトのものである。かれは言う、
「地の上に行われる空しいことがある。それは、悪人の業に相応することがその身に起る義人があり、また義人の業に相応することがその身に起る悪人があるということである。われは言った、これも亦空しいと。」
かれはこの事を「空しい」として嘆いてはいるが、それを不公平なりとして神に抗議しようとはしない。ヨブの場合との対比はここにもっとも顕著である。コーヘレトをして言わしめるなら、そのような憤りを神に対して発することの方が誤っている。神には人間の善悪は問題ではない。神が生起せしめる事象はそれに関わりなく生起する。だからして義人が苦しむこともあるとともに、また栄えることも有り得るのである。差引すれば結局なにも残らない、得もなければ損もない、ということになる。そして、それが「空しい」と呼ばれる所以なのである。
だが悪は悪、善は善である。人間はこの差別をアダム以来持っているので、それをどうすることもできない。コーヘレトも人間として、それに対して無感覚ではあり得ない。とりわけ社会における不正、人間が人間に対して行なう悪、に対して、ただそれを是認するわけには行かない。「そしてまた、われは日の下に行われる一切の圧迫を見た。そして、見よ被圧迫者たちの涙を。かれらを慰める者はいない。かれらを圧迫する者たちの側には力がある。だが彼等を罰する者はない。」これによって見れば、コーヘレトは明らかに被圧迫者たちに同情している。ここに「力」と訳された語は、また「富」とも訳し得るのであって、かかる社会悪の根底に貧富の甚だしい差が横たわっていたことを推定させる。そして富と力との結合は公平なるべき法廷の正義をまで枉げるのである。
「またさらに、われは日の下において見た――審判の場所にも不正があり、正義の場所に罪がある。」
このように彼は社会における悪と不正とを見出すのであり、これを決して是認している者ではないが、さりとて預言者アモスのように痛烈な非難の言葉をそれに対して浴びせかけることもしない。正義は人間に属するものではあっても神のものではない――それゆえ、かかる社会的矛盾は不可解な神の意志のもとに生きる人間がその限界を弁えることを得んがために其処に起こるのである。彼はその趣旨を次のように表現している――
「われは我が心のうちに言った、人の子らの為だ、それは神が彼らを試みて彼らが獣に過ぎないことを示さんがためであると。けだし人の子らの運命と獣の運命と、彼らの運命は一つである。これの死も、かれの死のごとくである。凡てには一つの生気〔ルーアハ〕があるのみ。人間は獣に対して優るところがない。みなともに空しいからである。みなともに一つの場所に行く。みなともに塵からであり、みなともに塵に帰ろうとする。人の子らの生気は上に昇り、獣の生気は地に向って降ってゆくかを、誰が知ろう。」
右に「運命」と訳した語は miqreh であるが、それは元来「起ること」を意味する。それは先に論じた「時機」の概念と密接な関連のうちにある。「起ること」は、その正に起こるべき時機において起こるのであるが、その時機を知る術を人間は持たないのであるから、主体的にはそれが運命として受け取られる。それはまた偶然とも呼ばれる。九・一一には「時機と偶然とは彼ら凡てに起る」と言っている。ここに時機すなわちeth と偶然(pega)とを並べ用いていることは注意さるべきである。いずれにせよ、先の引用句で、人間の運命も獣の運命も畢竟は一つである、死は凡ての終わりであると言っていることによって、コーヘレトが人間死後の問題についての想像的願望を斥けていることを知るのである。人間の生気――それは生魂とも霊魂とも訳し得る語であるが――が死後上に昇り、獣類の生気は下に降るということは、当時或る人々の間に行なわれていた来世観を指しているのであろうが、コーヘレトはそれを経験論的立場から否定する。生命はただ「日の下に」「地の上に」おいて有り得るばかりである。人間と獣類という基本的差別すらも死は遠慮なく没却する。いわんや人間相互の間における一切の価値的差別も死の前には何者でもない。九・二-六の言葉を次に引用しよう。
「一切事は一切人にとって等しい。一つの運命が、義人にも悪人にも、(善人にも)、潔い者にも潔からぬ者にも、犠牲をささげる者にも犠牲をささげぬ者にも、悪人にも善人にも、誓う者にも誓を恐れる者にも、ひとしく〔起る〕、日の下に行われる一切のことにおいて、この事こそは悪である――一つの運命が凡ての者に起ること、また人の子らの心が悪に満ちていることもである。また彼等の生きているあいだ彼らの心には狂いがある。それから後は死者たちの許へと。けだし誰であれ、凡ての生ける者たちと連らなる者には、望みがある。生きている犬は死んでいる獅子よりはまさっているからである。なんとなれば、生きている者たちは彼らが死ぬであろうということを知っているが、死んでいる者どもは何事も知らないし、また彼らには何の報酬もない。〔彼等についての〕記憶は忘れられるのだから。彼らの愛も、彼らの憎みも、彼らのねたみも、すでに遠く消え失せて、日の下に行われる一切のことに於ける彼らの分はもはや無い。」
死は万人に平等に臨む。その事は確かに人間にとって禍いというべきである。けれども又人間が心に不満を抱き、常に飽くなき野望に燃えていること、絶えずあくせくと幻影の如き目的を追うて努力すること(それがバートンによれば、「人の子らの心に悪が満ちている」及び「彼らの心には狂いがある」ことの意味である)、その事が実は一層根本的な悪である。生ける者は成るほど「望」を持つ。その意味では確かに、生きている犬は死んでいる獅子よりはまさっている。けれども生ける者の望みとは何であるか。又生ける者が知っていて死ねる者が知っていないものは何であるか。それは自分が死ぬであろうということに外ならない。それならば生者が死者にまさるというのはただ一つの皮肉に過ぎないのか。「われは生を厭うた」との言葉もたしかにコーヘレトの口から出ているのである。また「死の日は彼の生れる日にまさる」ともいっている。けれども、かれが心からひたすらに生を厭うているのであるかと言えば、事実はそれの反対である。彼はこよなく生を愛している。生ける者に望みがあるとは一面にアイロニーではあるが、又そうではない一面がある。生命の営みは日の下において人間に与えられる「分」なのである。コーヘレトはそれを貴しとするのである。だが、その事については次項において詳論しよう。