ここまではコーヘレトは主として経験と観察とに訴えて世界および人生の無意味を説いているのであるが、そのような現象には何の説明もないのかと言えば、実はそれこそはかれの一言したいことなのである。三・一 - 八に説くところによれば、その問題を解く鍵は「時機」(eth)なる概念にある。
「一切のものに時(zeman)がある。日の下における一切の事柄に時機(eth)がある。生れるに時機があり、死ぬに時機がある。植えるに時機があり、抜くに時機がある。殺すに時機があり、療やすに時機がある。壊つに時機があり、建てるに時機がある。泣くに時機があり、笑うに時機がある。なげくに時機があり、躍るに時機がある。石散らしに時機があり、石集めに時機がある。探すに時機があり、失うに時機がある。裂くに時機があり、縫うに時機がある。黙すに時機があり、語るに時機がある。愛するに時機があり、憎むに時機がある。戦争の時機があり、平和の時機がある。」
この言葉の各々について凡て満足な解釈を与えることは困難である。ことに「石散らし」「石集め」が何を意味するかは今以て註釈家を悩ます問題である。けれども、それよりも肝要なことは、その全体を通じての意味が何であるかを知ることである。そして、それはいうまでもなく繰り返し用いられている「時機」なる語の解釈にかかっている。それはギリシア語のカイロスに当たり、セプツアギンタでは正しくもその語を以て訳している。それにしても、それがここで如何なる意味に用いられているかが問題となる。それは何かを為すに「適切な時機」の意にも取られ得るし、或る事が正に生起すべき「定められた時機」とも取れる。もし前者の意味に取るならば、右に掲げた言葉は主として実践的な勧告でしかないであろう。だが、それよりも更に基本的な意味として「定められた時機」の意に取れば eth はもっと哲学的・原理的意味を得る。その時機が来れば必然的にその事は生起する、その必然性の原理がこの語によって表現されているのである。恐らく、この意味に解することの方が正しいと考えられる。それでは今一つの語 zeman ―― ここには単に「時」と訳した ―― は何を意味するのであろうか。この語は旧約では極めて稀にしか出て来ないものであって、古代ペルシア語の zrvan 又は zrvana がアラム語を経てヘブライ語彙のうちに入ったものとも推定されている。けれども抽象的時間の概念は元来ヘブライ人には欠けていたので、この語も一般には `eth と同義に、すなわちカイロス(occasion;season)の意味に用いられていたのである。だがここにコーヘレトはこの語をそう解しているのか、それとも「時機」と区別された意味での「時」すなわち抽象的・客観的な時の意に用いているのか。いずれにせよ、セプツアギンタの訳者は両語の区別を認識して、zeman をホ・クロノスと訳している。もしそれがコーヘレトの真意を穿ったものであったとすれば、旧約聖書においてただこの一箇所だけに抽象的時間の概念が出て来るものと認めなければならないでもあろう。それがコーヘレト自身によってただ一回だけ用いられているとしても、かれの思想の全体と連関させてそれがかれにとって重要な意味を持つものと解することも可能であろう。少なくともマクドーナルドはその点を強調し、コーヘレトにとって一切は「時のうちに」起こるものと考えられていたと論じている。けれども、そうはっきり云えるかどうか、私には疑問がある。一つには、その語がただ一回ここにしか用いられていないということ、二つには eth の場合と同様 zeman の場合にも前置詞 be(=in)はついておらず、却って「一切」なる語の前に前置詞 le(=to)がついていること、三つには同義語を重ねて用いることはヘブライ対句の精神に一致していることなどが思いつかれる。だから、コーヘレトが抽象的・客観的時間の概念をそれほど明瞭に抱いていたとは思われないが、一切が正にその生起すべき時機または時点とともに生起するものであるとすることがコーヘレトの思想であることは疑う余地がない。かれは右の引用句において、生まれ・死ぬという人間存在の基本的対立と戦争・平和という社会的に最も重要な対立との間にさまざまな対立を置いている。それは一つの事が起これば、それの否定または反対の事実も亦必ず起こるということであろう。そして、その事は「何の yithroth もない」すなわち「差引して何も残らない」というかれの結論の根拠を成す一つの観察である。だからコーヘレトは三・一 - 八につづいて直ちにまた「働く者はかれが労するところによって何の益(yithroth)を得るか」と言っている。それは人間が事を為すのに正しい時機を見出すことを得ないという嘆きではなく、何を為しても必ずその反対の事が起こって元々に還元して了うとの意味に解すのが正しい。そして、その後に更に次の言葉が語られる。
「われは神が人の子等に与えて労せしめたもう労苦を見た。神は一切を、それの時機において美わしく造りたもうた。彼はまた彼等の心に、測り知られないものを与えたもうた。それは人間が神のなしたもう始から終までの御業を見出し得ないためである。」
一切はその起こるべき時機に必ず起こるのであるが、その時機と必然性とはただ神にのみ知られているのであって、人間には断片的・部分的に知られるに過ぎない。神は一切の現象をそれぞれの時機に従って生起せしめるのであって、それは確かに「美わしい」に違いない。けれども人間にその「美わしさ」が完全に把握できるかと言えば、それは不可能である。神の必然は人間にとって偶然でしかない。そこに人間は不可解なものに出会う。ここにコーヘレトが神の存在を疑っていないことは注目されてよい。かれは神をヤハウエとは呼ばず、ただエローヒームと呼んでいるから、民族的色彩は稀薄であると見なければならないが、それにしてもかれの体系(それをそう呼ぶことを許されるとすれば)は神の存在を要請する。一々の時点または時機において起こるべきものが起こるのであるが、時がそれを起こすのではなく、それを生起せしめる意志が別に考えられなければならない。何故ならここには自然科学の問題が取り上げられているのではなく、人間存在とそれに連関しての自然現象が問題とされているからである。その立場から、時点または時機なる概念と神の概念とは相互に要請し合うものであり、両者は相関関係のうちにある。先に抽象的・客観的時間、ガリレイ・ニュートン的ともいうべき時間の概念がコーヘレトにあったか無かったかを問題としたが、かれにとって中心的なものは、そのような時間ではなく、人間存在と連関して考えられたこの時あの時である。だからこそそこにかれは不可解なもの、そこに働く超越的意志を感得せざるを得ない。それゆえかれの「神」(elohim)は伝統的ヤハウェ神の概念とは甚だしく離れているようであるが、なおかれの哲学をヘブライ思想の流れの中に把握することは可能でもあり、又それが妥当でもあると考えられる。けれどもコーヘレトの神は自己啓示の神ではなく、全く自らを隠す神、近き神ではなく遥かなる神である。その神の意志や計画を人間はその知性を以てしても又その道徳的規範に照らしてみても測り知ることはできない。しかしながら、その知られざる神、交通不可能な神が実在するということは、これほど確実なことはかれにとって無いのである。コーヘレトは神をただ天上高きところに祭り上げているのではない。むしろ、かかる神の存在の要請がかれの思想を成立させる根底にあることを見逃してはならない。
右の引用句において「測り知れないもの」と訳した語は ha olam であって、普通には「いにしえ」「無際限に続く時」「永遠」などの意に用いられる。従って Revised Version のように eternity と訳すことは可能であるが、バートンは olam の代わりに elem と読んでいる。これは「かくされたもの」「秘密」を意味するが、ここではそれが「無知」の意に用いられているとする。けれどもセプツアギンタに従ってこの語をアイオーンの意に解することも可能である。ガリングはそれに示唆を得て「時の経過」(Zeitenablauf)と訳し、「彼等の心に」を「一切に」の意味に読み直し、神が「一切に時の経過を与えたもうた」と訳している。これは魅力のある解釈であるが、そのような原文の読みかえが許されるかどうかは疑問である。私はバートンに準拠して「測り知られないもの」と訳したが、それを直ちに「無知」と取ることは行き過ぎていると思う。いずれにせよ、それに続く言葉「それは人間が神のなしたもう始から終までの御業を見出し得ないためである」はコーヘレトのいわんとする所を明瞭に表現している。人間は神の計画や業を見透すことを得ないばかりではない、人間をしてそれを見透させないことが、実は神の意志なのである。
その神の意志は測り知ることを得ないとともに、また人間がそれをどうすることもできないものである。「われは知る、凡て神の為したもうところは永遠にかく有るであろうことを。何ものもそれに加えられることを得ないし、また何ものもそれから取去られることもあり得ない。神は人々が神のみまえに畏れんために、それを為したもうたのである」とコーヘレトは言っている。かれの教える「神の畏れ」は人間がその「日の下」「天の下」「地の上」なる限界を弁えてそれを超えようとしないこと以外のものではない。