「空しとも空しい、とコーヘレトは言う、
空しとも空しい、一切は空しい。」
と著者はまず前篇の趣旨を打ち出している。ここに「空しい」と訳されたhebhelなる語は元来は湯気とか風とか息とかを意味する語であって、そこから転じて、捕え難いもの、実在性のないもの、無意味なものを指す。マタイオテース, vanity,Nichtigkeit などと訳されている所以である。コーヘレトはこの語を四十回も繰り返しているが、そこ以外においては旧約聖書全体において僅かに三十三回その語が出るばかりである。それによって見ても、その思想が著者にとってどれだけ基本的なものであるかが分かる。それは創世記第一章において神がその創造を「善し」(tobh)と見たもうたとあることに鮮かな対比を成している。とりわけ創世記一・三一の「そして神は、その造りたもうた一切を見たもうたが、見よ、それは甚だ善かった」との対比は著しい。その「善い」というのは、創造における神の目的に一切が叶っているとの意味であって、またその事が人間にも認識され得るものであることを前提としている。コーヘレトは、そのような合目的性を世界において認めることはできない。一切には意味もなく目的もない。従って世界における人間の一生にも何の目的もないし、また何のプラスもない
「何の益が人間にとって、
 日の下に働く彼の労苦にあるか。」
「日の下に」(tahath,hasshemesh)という表現を著者は好んで用いているが、これは人間存在の限界を印象深く表現する。それは八・一四、一六及び一一・二に出る「地の上に」(al-haares)とほぼ同義ではあるが、それが太陽の光を示唆しているところに微差が認められなければならない。人間存在は、ともかくも輝く太陽の下に営まれる一生ではある。従って「日の下に」は必ずしも悲観的な表現とだけは見られない。だが右に引用した句においては確かに「限界づけられた地の上に」の意が勝っている。人間は地上に生まれ、働き、そして死んでゆく。そしてその生涯の決算において剰余となるものは何一つない。「益」と訳した yithron は、そのような「残額」を意味する。だから人生にはプラスはないのであるが、マイナスも無いということにもなろう。しかし、ここではプラスがないということ、即ち人の生涯の無意味なことが前面に歌われている。以下一・四 - 一一までを訳出してみよう。
「世代は去り、世代は来たる、
  けれども地は限りなく存続する。
 日はのぼり、日は沈み、
  おのが場所に喘いでゆき、
   かしこから〔また〕昇る。
 南にゆき、北にめぐり、
  めぐり巡って風はゆき、
   その循環へと風は帰る。
 すべての流は海にそそぐ、
  けれども海は満ちない。
 流れが出て来たその場所に、
  かしこに再び帰ってゆく。
 一切のものは倦みつかれる、
  何人もそれを語ることは出来ない。
 目は見るに飽くことなく、
  耳は聞いて充たされることがない。
既に有ったもの、それは有るであろうところのものである。すでに為されたもの、それは為されるであろうところのものである。日の下には何一つ新しいものはない。人がそれについて、見よ、これこそ新しいものだ、と言うものは有るが、それは既に、われわれの前に在った諸々の時代において有ったところのものである。先の事どもについての記憶はない。また今後有るであろう事どもについても、その後に在る人々は、その記憶を持たないであろう。」
コーヘレトはこのように世界について考える。自然現象は規則正しく生ずるが、凡て同じことの繰り返しに過ぎない。「目は見るに飽くことなく、耳は聞いて充たされることがない」―― 人間がその感覚知覚によって世界を眺める限り、そこに何ら窮極的なものは見出されない。ただ涯しない循環があるばかりである。自然そのものも亦それに倦み疲れているごとくにさえ見える。このようにして世代は来たり世代は去っても、世界の現象は何時も同一であって、過・現・未を通じて真に「新しいもの」と呼ばるべきものは何一つない。たとい人が新しいものだと思うものがあるとしても、それは過去についての記憶の喪失を意味するばかりであって、実は前にも有ったところのもの、生起したところのものである。