雪国妙高もすっかり春の陽気がつづいて、
散歩の際に雪の中から摘んできた、
やわらかいフキノトウを夕べは天ぷらにしていただいた。
でも今朝はすっかり張りつめて、
昨日、車の中に飲み残した缶のお茶が、
シャリシャリと氷になっていた。
すっぽりと白く覆われた車の雪をはらいながら、
こんな日に人って自殺しちゃうんだよな…
なんてことを割りと無感傷に思っていた。
冬の入り口、
春の入り口、
命が空に帰りやすいみたいだ。
こんな季節、
よくわからなくなる。
ウキウキしたり、
サメザメしたり。
わたしなどは圧倒的に子宮が威張っていて、
月の満ち欠けや季節の移ろいに、
どうにもついてゆけないことがある。
病院に行けば、
若年性更年期障害とか、
PMSとかってなるのだろうか。
どちらにカテゴライズしてもらったとしても、
どちらにせよ、生まれつきだ…と思う。
チロが逝ったのは、
三寒四温、
こんな春の雪の数日後だった。
あの頃わたしは、
歌手活動を止めたばかりで、
強制送還のごとく妙高へ戻り、
やっと息している物体だった。
よく覚えていないな…
チロが寝たきりになってから戻ったのか、
戻ってから寝たきりになったのか…。
寝たきりの老衰の犬のお世話をすることが、
あの時のわたしのすべてだった。
チロの体は元気なときの3分の1の小ささになっていて、
白い毛の下にはすぐ肋が浮いていた。
黒かった鼻も、
ピンクと茶の斑になって、
目も白く透けほとんど見えていないようだった。
体っていうのは、
記憶していて、
あれから10年も経つのに、
春の雪が降ると勝手に目に涙が溜まっている。
いつものようにチロは、
自分の皿に盛られたゴハンを、
ゆっくりゆっくり食べていた。
体が小さくなりすぎていて、
頭の重さを支えきれなかったのだろう…
ゴハン皿に頭を落として自力で起こせなくなっていた。
ガタンっ…と音がして、
母は抱きかかえて嗚咽していたそうだ…
それからもう自力で体を起こすことができなくなり、
そのまま寝たきりになった。
昼間はソファの上に横にして、
わたしは傍らにくっついていた。
注射器で口の横に水を入れると飲んでくれた。
少しでもカロリーを摂らせたくて、
メロンやバナナをミキサーにかけジュースにしたり、
ジャガイモやカボチャをスープにしたりして含ませた。
チロは、
トイレは外と躾られていて、
もよおすと扉の前に立ち、
こちらを見てシッポを振るので出してやると外で済ませ戻ってくる。
そのプライドか習慣か、
わたしたちに申し訳なく思っているのか、
動けないのに、
亡くなる直前までオムツを断固拒否した。
「いいから…チロ…、
ここでして。お願いだから…。」
いくら言ってもダメで、
体を震わせて起きようと必死だから、
しかたなく抱いて外に連れて出た。
腰を支えるのだけど、
それでも立っていられなくて、
何度も倒れながらしていた。
排尿の度に命がすり減っていくようだった。
チロが逝ったのは、
寝たきりになってから、
たった2週間後のことだった…
その日、
チロはとても元気で、
目には力があり、
全身に気が巡っている感じで、
“暖かくなってきてチロの体も調子が戻ってきたんだ!”
と、わたしは希望を持った。
お昼に、
可愛がってくれている近所の奥さんが会いに来てくれたときも、
全身で喜んでいるようで、、
自力で首を上げ頬を寄せ、
ピクピクとシッポも動いていた。
それは寝たきりになってから初めてのことで、
わたしの胸はほんとうに希望に湧いていた。
明日はレバーをペーストにして、
少し水で溶いてあげてみよう。
食べてくれるかもしれない!
なんて思って、
明るかった。
それで少し安心してしまったのか…。
その夜に限ってわたしは深夜まで映画を観てしまった。
いつもなら、
22:30と、
寝る前の24:30頃にチロが寝ている両親の寝室を覗いて、
息をしているのを確認して、
ほっとして、
寝返りを打たせたり、
水を飲ませたり、
撫でたり、
頬擦りしたり…。
その夜に限って、
最後のチェックが深夜02:00過ぎになった。
扉を開けると、
チロの横に布団を敷いて横になっている母がわたしに気づき、
「今夜はなんだかさっきまでずっと鳴いていたの…。やっと寝たみたい…」
と、くたびれた声で言った。
チロに目をやったら、
目を見開いて、
口を開けて、
胸は、
動いてなかった…
なんて叫んだのかまったく思い出せないけど、
わたしは叫んでいて、
奥で寝ていた父がとんできて、
母と名前を呼んで、
体を擦って、
目を閉じさせ、
口を閉じさせ、
体を震わせ、
死を受け止めようとしている。
わたしはちっともわからなくて、
チロを抱いたらまだとってもあったかいし、
なんで諦めちゃうんだろう…と、
蘇生させようと必死だった。
わたしだけ、
諦めがわるかった…
父に怒鳴られても、
いつまでも名前を呼び続け、
「逝っちゃだめ!逝かないで!」
ずっと繰り返していたと思う。
次第にわたしの腕の中で、
ぬくもりがなくなっていき、
足は硬くなっていった。
ごめんね…チロ…。
いつもの時間にわたし来ないから、
呼んでいたんだね。
ごめんね…。
お水飲みたかった…?
トイレ、行きたかった…?
そばにいてほしかった…?
ごめんね…
わたし、バカだね…
映画なんて観ていたんだよ…
ごめんね…
ごめんね…
ごめんね…
ごめんね…
そのまま朝になり、
昼になり、
転勤先からお兄ちゃんが来てくれて、
わたしの顔を見て呆れたようにため息をついた。
「おまえ、いい加減にしろ…。
みんな悲しいんだぞ…。鏡見てみろ…。」と言う。
見てみたら、
下瞼が涙焼けして、
火傷したみたいになり、
皮膚がなくなっていた。
なんとも恐ろしい顔だった。
泣きすぎか、脱水状態にもなっていた。
どうしようもない…。
それでもわたしは、
往生際わるく、
涸れても泣き続けていた。