書籍編集者の裏ブログ -8ページ目

文章のよしあし

過去の文章の垂れ流しはあのくらいにして、これからはサボらずに、ちゃんと書くことにします。

今回は文章のよしあしについてよく考えます。
いい文章とだめな文章。文法が正しいとか誤っているとか、意味が通るとか通らないとか、そうした次元の話ではなく。

すーっと身体の中に入っていくような文章がよい文章なのだと思います。すらすら読めて、自動的に情景が浮かび、そこに記された感覚や感情が読み手のこちら側にも自然に再構築される、というような。

すーっと入ってくる文章というのは、リズムが適当であるということと、語彙が適当であるということと、表記が適当であるということの三つがクリアされているものだと思います。また、この三者は互いに重なり合ってもいるようです。


リズム。これは五七調とか七五調といったものをイメージすれば分かりやすいかと思います。五七や七五以外にもリズムは無限にあります。五五でも四四でも三六でも三五でもリズムは生じます。八以上の音節が混じった場合や、一文が長くなりすぎて、すんなり着地できなくなった場合などに、リズムが狂いはじめるのではないかと、私は踏んでいます。

  我が輩は猫である。名前は未だ無い。

五・五・四・四というリズムです。いいリズムではありませんか。

母音を見れば 「AAAIA EOEAU  AAEA AAAI」という並びです。頻出するA段音がメリハリの効いた心地よいリズムを作り出しています。


語彙。これは簡単な話です。就学前の子供に読み聞かせる絵本に、「忖度、先験、思弁、実践、形而上」といった語彙が入らないのと同様、想定される対象読者の語彙に合わせた語彙で文章は構成しなければならないというだけのことです。ジャンルだってそうです。時代小説なのに、「キッチン、スタンダード、やっぱ」などの語彙が混じれば、違和感に苛まれます。


表記。これは句読点や漢字とひらがなの混じり具合などの問題です。何でも漢字にすりゃ、いいというものではないし、何でもひらけばいいというものでもないのです。この混じり方は、見た目のリズムに影響してきます。



生理食塩水は、人間の体液に近い食塩水です。0.9%の食塩水です。一方、真水があります。混じりもののない水です。
身体にするするっと吸収されるのは、真水や泥水ではなく、生理食塩水の方です。文章もこれと同じだと思います。
この0.9%が、リズムであり、適切な語彙であり、適切な表記だと思うのです。この0.9%を探るのが文章修行です。

しかし、この生理食塩水は、所詮ただの水分です。薬ではありません。文章に置き換えて言えば、最低限のレベルの文章です。名文というものではないのです。

山口翼さんの『志賀直哉はなぜ名文か』(祥伝社新書)は、この本自体から学ぶことは少ないのですが、この本を素材に考えるには、とてもよい本です。参考書というより、問題集として使用するのです。この本は、名文製造機といっていい「小説の神様」志賀直哉の工夫された文章を、たくさん拾って、分類しています。ただそれだけです。そこからの一般化については、読者各人が考えなければなりません。

志賀直哉の工夫を見ていると、私たち編集者が、腰巻きの文句や新聞広告の宣伝コピーを書く時の工夫に近いような気がします。

それは何か。一言で言えば、「違和感」です。微妙な違和感を挿入して、するするの流れをほんの少し濁らせる、という工夫です。それで、一気にその文章は、名文になるのです。水分が一挙に薬になるのです。
毒をほんの少しまぜると薬になるというのは、ホメオパシーの考え方と同じですね。

志賀直哉も川端康成も吉行淳之介も三島由紀夫も開高健もみな、この工夫の天才です。
意識して、味読したいものです。

ちなみに、ここでの議論は、「文体」とは、違うレベルの話です。