1959年高校生活の最後、大学受験だが、あまり
実感も湧かず、3月1日の卒業式を迎えた。
進学率95%の高校なので、大学受験その他で、出席者は、極端に少ない。
北海道の親戚一同が実績のある、北大を目指したが、志願段階から、振り落とされた。その後いくつかの大学を受験したが、最後に残ったのが、日本大学経営工学部であった。
幸いこの大学OBには、宇都宮市の県庁職員であり又.宇都宮の空手道場「誠道館」の師範でもある
近藤先生がおられ、大学の空手部入部と同時に、
休暇には、必ず道場に通う事の出来る好条件が揃っており、入学を決意した。
その後の空手部生活の全ては、一心に稽古に励み
人の3倍は時間を費やした。
もって、1年で黒帯初段、2年で2段、3年で3段ととんとん拍子に昇段し、学年トップの座を占めて
やがて4年で主将指名をされ更に稽古に励んだ。
全学空手部員は、入部時50名(合宿参加)がやがて
私のキャプテン時代、100名を率いていた。
その全ては、ここにある今もって私の懐に携行する近藤先生の提唱した、「五省」である。
ななんと!大学の学業の方は、どうなの?
自分でも良くわからず、「経営工学」とは、なんなのから始まり、"生産管理、品質管理、工程管理、安全管理"などなどマネジメント分野の多くを学び、卒後の工学系企業で8年間を技術、管理、
分野での仕事の多くを経験し、やがて9年目に人生最大の転機が訪れ転職に踏み切った。
工学系企業の最後は、東京研究室を私が担当で
構築したが、それが縁で転職となり、前職企業への不義理は、幾重にもお詫び申し上げた。
やがて、天下のヤマハへの新天地浜松へと意気揚々中途採用を受験したが、合格寸前の社長面接でハプニングが生じた。
面接受験者の最大先輩(30才)であつた私が、合格を拒否し、帰宅の途についた矢先、人事担当部長から待ったの声が係り、それから1時間あまり、説得され納得の上、入社を決意した。