山科薫のブログより転記




縄文時代の人々がアスファルトを接着剤代わりに使っていた

ことを、昨日は書きました。そして石油もすでに、今の新潟県

に相当する地域で産出されていたことも、非常に興味深いと

ころです。

 

『日本書紀』の中には668(天智天皇8)年に越の国から「燃ゆ

る水」が天皇家に献上されたという記述がありますが、燃ゆる水

とは石油のことに他なりません。しかもこの石油のことを、特別

珍しいものとして扱ってはいません。すでに根付いていた物を

越の国、つまり越後から取り寄せて経済発展の道具にしようと

していたのです。

 

現在の胎内市はかつて「黒川村」と呼ばれていましたが、これは

大量の燃ゆる水(石油)によって川が黒く染まってしまうからつけ

られて名前だということです。それだけ豊富な油田が、存在したの

です。

 

後に越後の新津でも燃える水は湧き出ていて、産業の1つになり

ました。江戸時代には「草生水(くそうず)業」という石油の販売業

が定着していました。時代劇では江戸時代までは火を起こすのに

全て「火打石」を使っていたような表現がありますが、全ての人が

そうしていたわけではありません。

 

ただ石油が全国民に行き渡らず武士や富裕な商人など限られた

人々までしか広がらなかった理由は、安全を考慮されたからです。

使い方が難しく、危険を伴う石油は、そうそう広くは定着しません。

まして江戸時代の木造長屋などで使われたら、火事になりやすい

です。また住民たちも、怖くて使いたがらなかったというのが実際

のところでした。




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