人が持つ二面性
「理性があるがゆえに、すべての人間は、尊厳と尊敬に値する」。そう言ったのはカントです。また、マキアヴェリは、『君主論』の中で、「君主は、人間と野獣を使い分けなければならない」と書いています。野獣とは、人間の残虐性を意味しています。人は、他人に対し、自らの命を賭してまで献身的になることもできれば、目を覆いたくなるほど残虐な姿を見せることもできます。人間の持つこの二面性の意味することとは何なのでしょうか。例えば、現在◯◯◯の情勢は、人の残虐性の象徴とも言えます。否、日本でさえも、人を人とも思わないような卑劣で残虐な犯罪が頻発しています。しかし、一方で、どんなに残虐な犯罪者でも、自分の身内や仲間などには、思いもかけないほど優しい一面を垣間見せることがあります。つまり、人は、顔の見える相手には残虐にはなれないのです。人が残虐になれるのは、常に顔の見えない相手に対してなのです。顔の見えない相手とは、要するに、自らの関心の及ばない相手のことです。それは、自分の身内以外の人であったり、仲間以外の人であったり、あるいは、他の地域の人々や他の国の人々であったりします。私たちは、他人の行動を理解することができます。しかし、他人の行動を理解することと、他人に関心を持つことは大いに違います。他人の行動を理解するのは、ほとんど無意識的な行為であり、これは、人間だけに限ったことではありません。動物も、他の動物の行動を理解することができます。それゆえ、彼らは、獲物を襲うことができ、また、捕食者から逃れることができるのです。ただ、私たち人間は、他人に関心を持つことができます。人間だけが、相手の人のことを考え、その行動の意味するところや、その人の思考や感情に関心を持つことができるのです。そして、これが極めて人間らしい行為であるのは、この行為が意識的な行為だからです。人は、意識的に考えなければ、相手に関心を持つことはできません。そして、相手に関心を持てば、残虐になることはできません。親が、躾けと称して我が子に残虐な行為を働けるとしたら、それは、言うことを聞かない子どもに関心があるのではなく、言うことを聞かせたいという自分にしか関心がないからです。また、恨みを抱く相手の苦しむ顔が見たいというのも、苦しむ相手に関心があるのではなく、苦しむ顔が見たいという自分にしか関心がないのです。残虐性は一時的な解決策にしかならないということを、マキアヴェリも認めています。残虐性は、ただ負の連鎖を生み出すだけなのです。私たち人間は、周囲の人たちに対する関心を広げれば広げるほど、人に対して優しく貢献的になれます。世界中の人々が、自国の利益ばかりに囚われるのではなく、他の国の人々にも大いに関心の輪を広げることができれば、世界的な紛争をもっと防ぐことができるのではないでしょうか。そして、それができるのは、私たち人間だけなのです。(抜粋・思考)