今晩は!


終戦記念日をゆっくり過ごした岩田 順子です。


こうしてゆっくり出来るなんて

とても有り難いです!


77年前とは言え、

人によっては昨日の如く

鮮烈に記憶に刻まれているのですから。




私はと言えば、

当時5歳で何の記憶もありません!


戦争中、一緒に疎開していた祖母から

「戦争が終わったよ!」と

告げられた記憶もないのです。



山の中に住んでいたので

ラジオが無かった???


近くにはお寺もありましたし

ご近所も何軒かあったのですが。



その年の終わりなのか

翌年なのかも分からないですが、


父が当時10歳の次兄を連れて

私を大阪に連れ帰るべくやって来て


進駐軍の兵士が街にいた大阪に

帰ったのはハッキリ覚えています。



ですが、大好きで私の母代わりの祖母と

別れた情景の記憶も皆無です。



舞鶴駅で父が満員列車から振り落とされ

兄と二人きりで心細かったのは

心に残っています。


ヤンチャで何度か

家出をして、母の実家徳島へ

勝手に行ったりしていた兄は


「大丈夫!大丈夫!」と

大阪駅で地下鉄に乗り換え

天王寺の実家まで連れて帰って

くれました!

(何が幸いするか分かりません!!)


帰宅したら、

終戦日から5日後の8月20日生まれの

見たことのない赤ん坊の弟が寝てました。


私の記憶では

赤い着物を着せられていましたね!

(事実かどうかは知らんけどー!)



こうして事実上の私にとっての「母」

である祖母を離れての生活が始まった

のです。


すごく心細かったのでは、と

今思います。



実の母の元に帰ってきても

物心ついた頃から

ずっと育ててくれた祖母が

私には母でしたから。


高齢者はまだ列車に乗れなかったので

(進学児童と復員兵のみOK)

大阪に帰る事なく

祖母は亡くなりました。えーん


祖母の死も両親から告げられた

記憶が無いのです!



余程私がぼーっとしてたのか、

悲しい記憶は飛んでしまったのか、、、


さだかではありません。


でも、手塩にかけて私を育ててくれた

おばあちゃん!ありがとう❣️


感謝してます‼️


おかげで

あなたが亡くなった年齢を今や超えて

私は生かされています。照れ