<中略>に隠されたもの | しるしぶみ ~ほんとうのルードヴィッヒ・デッペ、その解剖~

しるしぶみ ~ほんとうのルードヴィッヒ・デッペ、その解剖~

欧州国留学から今に至るまでの長い 茨道のしるしぶみ。
道先に立っていたのは、
ドイツ人デッペとカラントだった。
私の中で形成されてきたものが彼らのそれと重なっていた。
その人達の顔を知らずして、
図らずしも 私の手は、羽根 になっていた。

「弟子から見たショパン」

ショパン好きの多くの方が手にしたことがあるであろう書籍

 

この中で記された弟子の証言の中には

 

〈中略〉という部分が殆どを占めるわずか一行のものもあれば

それとは対照的に、

もうちーと簡潔にしても良いんじゃないかくらいに長いものもある

 

原書のフランス語版は見れていないけれど

この<中略>は

著者の J・エーゲルティンゲルが故意に略したものだろう

 

しかし、他の文献を参考に調べてみると、個人的には

中略された部分の方が、本質的には重要なのでは?と思えてきたりもする

 

エーゲルディンゲルの中略の意は分からないが

文章の前後に何があるかで、

読み手の理解・解釈が大きくばらつくというのは、

どうしても否めない気がし、

 

原語から翻訳される際、

国の認識・背景によって、文章が悪気無く削られてしまい、

例えばドイツ語版よりも英語版の方が、結果的に内容情報が多いという

現象が起きた、、ということも、本によっては昔あったようなので

 

原書からの言語化というのは常々色々難しいものなんだな、と感じる

 

 

日本語というのは、外国語に比べ

ニュアンスの僅差を明確に固定させるキャラクターがあることを感じたこともあり

和訳の際、解釈の微妙なズレが起こり得るのは、

しょうがないとも思うが

これが奏法論上での扱いとなると、更に厄介にもなり得るだろう

 

例えば「寄り添う」と「寄り掛かる」は日本語で聞くと違いを大きく想像できるが

外国語だと一つの同じ単語で成り立つ場合がある

 

著者が寄り添うという意図で言葉を使っても、

訳者が寄り掛かるという意味に受け止めれば、そうなってしまう事も否めない

 

そして

この本に記されている言葉は、決して万人に向けて発せられたものではなく、

ショパンがそれぞれの弟子個人に対し、掛けた言葉であり

また別の語彙力の弟子が言語化したものもあるということだ

 

1冊丸ごとすべてが自分に取り込めれそうな理解や共感、

耳障りの良い一節のように感じられる目からうろこ感を得られるのが

この本を手にした読み手の理想なのかもしれないが

 

先入観・固定観念をゼロにして読むことで

違った見方に気付くほうが本当の精読を意味するようにも思えてくる

 

 

ある弟子に伝えた言葉が、こうして時代を超えて海を越えて、

日本の現代に<中略>の形で伝えられるということ

 

結局、これがショパンの心配の種だったのではないか

とさえ...

 

 

まさか自分の死後、遺稿を買い上げたピアニストに酷評されるなど

想像もしていなかっただろうに

 

 

「動き」を言語化し他人に伝えるというのは、ほんと難しいものだ

ということを切に感じる今日この頃

 

この本の中に、ピアノスキルで結ばれたショパンの最後の恋人になった人が

居たのではないか...なーんて想いたい、、、蛇足なマイファンタジーに浸りつつ...