滝のような涙を流した。

振り返れば私はよく泣きよく笑った。

幼少の時から感情コントロールがうまくいがず、興奮して笑いすぎたり、辛いことがあると大泣きし過ぎたりした。

 

今も、笑いすぎてしまいそうなぐらい興奮する脳を慎重にコントロールする。

幼い時から統合失調症の気がある私だった。

 

 北里柴三郎は任期を終え、留学先のドイツから帰国した。

しかし、結核の治療法も含め最新の伝染病の研究をしてきたけど、東京帝大医学部との確執もあり、彼を活用できる研究所はなくしばらく何もできない状態だった。

北里の所属する内務省衛生局の局長、長与専斎はそれを憂慮し、福沢諭吉に相談を持ち掛けた。

福沢は土地を貸し、資金は福沢の知り合いの実業家森村市左衛門に借り研究所を建てるのを手伝ってくれた。

そして研究所の経営に簿記業務を専門とする人が必要だろうと田端重晟(たばたしげあき)を紹介した。

その後、国立伝染病研究所が設立され晴れて北里はそこの所長となったが、内務省管轄だった伝染病研究所は、文部省に移管することになってしまった。つまり東京帝国大学管轄下に移管されたということで、北里と東京帝大とは確執があり、北里は国立伝染病研究所を去るらざるを得なくなってしまった。

 北里は研究する場所を失った。北里を慕う大勢の研究員も辞めた。

その先どうするか決めかねている時、会計の田端は研究所と並行して建立された結核専門病院養生園の積立金を見せた。

かなりの大金があり、それで新しく北里研究所を建てることができた。

 

 人は人に支えられて生きていくことができる。

それを痛感する話であった。

私は統合失調症の陽性症状がひどい時に人を避けた。挨拶もせず、関係を断絶しひとりになった。

なんにもできなかった。仕事はできないので生きていくことが困難だった。

追い詰められた私は結局、信用できないと逃げていた精神科を信じることにして再度治療を始めた時、体調が徐々に落ち着き、人に頼ることを覚えて今やっと障害者雇用で働くことができている。

 

『Rain of Tears』

当時、絶大な人気を誇っていた鈴木亜美さんのカップリング曲。

涙のような日々だった。この曲を好きだと思った自分は、こんな悲しい歌詞と気持ちを同じにしていたと今知った。自分が涙にくれていることも、自分で理解せずに、そして相手を傷つけているかもしれないことまでも気づかずに過ごした10代だった。

ふと最近、懐かしくて聴いていた。

 

 実は私は10年前に統合失調症と診断され服薬治療を開始したのであるが、開始当初は幻聴も妄想も症状はすべて全くなくなり普通にアルバイトをしていた。

だけど薬を断薬して再発して5年前に再度投薬治療を再開した時は、もう最初の治療の時ほどの効果はなかった。

確かに大方症状はなくなったが、治療を辞めていた時に陽性症状で色々やらかしたことの苦しみのせいか、両親に対する憎しみや人生に対する不平等な感情は抑えきれず、妄想や幻聴が何度もぶりかえしてきた。

親に対する憎しみは、時々父は”暴力団”かもしれないという妄想に変わり、また父も「暴力団なの?」という娘のおかしな質問を全く無視していた。

 

 昨年、始め浜崎あゆみさんの『Winter diary』を聴きながら

「今年のクリスマスまでに親と断絶したい」と願った。

どこか現実と非現実の中をさまようような悲しい心持だった。

父が嫌いなのはセクハラされてそのことに対する謝罪がずっとなく10年以上たって軽く謝罪されただけだったこと。それってまた親しくしたらセクハラされるんじゃないかという恐怖が消えない。気持ち悪い顔でトイレの前で待ってたこともあり、本当に何を考えていたのかは真偽はわからないが、本当に怖い。だけれどもまぁ、それだけのことといえばそう。父がすぐ謝ってくれたなら、もう二度とないと信用できて関係に断絶はなかっただろう。

 

 去年一年を過ぎてふと…思う。

今年は仕事も多くなって新人さんも入って色々変わり、年末の父の作った年越しそばを食べたくないとか考える余裕もなかった。

単純に疲れたのだ。だから、作ってあったものをもらえるならそんなに楽なことはなかった。

だから大晦日、元旦と続けて、父手製の手打ちそばを食べた。

 

 去年の、確か夏だったか。

私は兄を20年以上前に亡くしてお墓があるのになかなか墓参りできなくて、やっと墓参りした。

とにかく疲れていた。

平日は働いていたし、夏休みは、床のワックスがけをしたくて、ワックスを剥がしてワックスを塗ったら、剥がしきれてなくてムラになってまた剥がし直して…なんて効率が悪いことをやっていた。

もう疲れ果ててお墓の前に来て線香と花の水替え、お花を供えることくらいしかできない。

目に浮かぶのは、父がお兄ちゃんのお墓をいつも雑巾で噴き上げている光景。

両親は10年以上毎週墓参りをしその度にキレイに掃除した。

年老いてきて今は年に数回の墓参りになったが掃除は欠かさない。

疲れ果てた私は、雑巾を持参してきてもできずに、水入れだけ拭いて帰ることにした。

父に敵わないことだけを理解した。

 私は父とは距離を置きながら静かに生きることに決めた。

切れない親子の縁に憎悪を感じることが減った。

 

現実は善悪で白黒つけられるほど単純ではない。

私は、もがきながら生きる年月の中で

何かが変わった。

「願いは叶ったんだ。」と知った。