この間の北里芝三郎さんの伝記の感想は終わってないんだけど、

今日、古渓光大さんの『君と僕と諸行無常と。』が届いて少し読んだ。

 

”バズりたいという煩悩全開の思いがエネルギーとなって、生きる道を照らしてくれた”と

YouTubeで般若心経ラップをやった時のことを述懐していた。

「…。」

 私は、そうだよね、自分の煩悩を大事にすることも大事だったよね、と思った。

 

 16から23歳目前まで、自由のないフリースクールで団体性生活をしていた私は、不登校になって外れた道から生還するために修行のような心づもりで頑張ってきたことを思った。自由時間は少なく寮生同士でおしゃべりもしていると注意される、もちろんテレビもほとんど見ない生活。

そんな毎日を送ってきたのに、出ていく直前に先生の口から出た言葉は

「性欲と戦うつもりはない。」

 だった。

先輩は、私が22歳の冬、先生が自分も含め複数の片親家庭の女子と性的関係を持っていた(未成年含む)と話した。二人っきりの時に話していた告白は、我慢の限界を超えたせいか、同じ年代の子が集う食事の席でも話され続けていた。

そうした噂話の回答のごとく、先生はみんなの前で

 「性欲と戦うつもりはない」

 と話した。

直接的に先輩の告白の件についてを先生が話していたわけではないが、でもその言葉はつまり先生自身は性欲をセーブするつもりはないという少しも悪びれてない言葉と同等であった。

私達は、外出や自由を制限されて煩悩を抑えた生活を強いられていたのに、先生は煩悩にまみれた生活をしていたということだった。

 

 「〇〇君はやめて。あの子は、埃を指でなぞってみせるの。」

 小学生の時、子供心に幼馴染と結婚したいと私がいった時、母はそう答えた。戯れの言葉であり本気ではなかったけど、幼馴染のような真面目で器用で尊敬できる人が心の奥底で理想だった。でも”おくれている子”(出来の悪い子)の私が戯れに恋愛できる相手ではないと悟って、いつか高校、大学と進学し卒業するころに、何か自身に長所を得てそのあとから恋愛してもいいかなとどこか思っていた。

私は別に一途でもなく、女友達に誘われて一緒に別の男の子にバレンタインデーにチョコをあげたり、当初から妄想癖のある私はゲームFF6の主人公と空想の中で恋愛していて友達に4っつ年上の人と(???)付き合っているとなぜか言ってしまったりしていた。後から中学の友達に彼氏がいるって小学校の時に噂になってたけど誰だったの?と聞かれた。私自身なんのことだか覚えてなかったけど。

中学の時は、2個上の先輩に憧れて妄想にふけっていたりしていた。家庭的にも学校生活も大変で誰かに憧れて嫌なことを忘れる時間が必要だった。

 

 「××君なんてどう?」

 フリースクールの先生は、入所して数か月で恋愛をすすめてきた。私は特に断るわけでもなく、旅行の時には××君の隣の席に座らされたりした。

その恋愛は恋愛になるかどいうかもわからないまま、その数か月後には、フリースクールの先生に朝方目がうすら開いた時にベッドでキスをされ失神するということがあった。××君への興味どころではなくなり、付き合っていたわけではないが破綻した。

そんな事件がなかったとしても、恋愛ってセンシティブで単純ではない。

私の個人的で繊細な心はフリースクールの先生によって弄ばれた、たぶんそういうことだった。

先生を信じ切ってその弱さも受け止めようとし、そして私は社会人になれるように日々研鑽しようとする日々は、心を無にすることなんてできずに苦しみで満ちた日々だった。

結局、フリースクールから出れたとしても、当初の幼馴染と向かい合えるような大人にはなれずに、何もない障害者の大人になってしまっていた。

良かったことは一途なほどに好きでなかったこと。

色んな人に興味をもって恋をしていたから、(他の同級生にも、芸能人にも、ゲームにも…)救いようのない失恋ではなかったし、今でも尊敬していたとしても恋心ほどの燃え上がりはない。

 

 こうして、真剣に恋愛をする機会がないまま、統合失調症の治療もひと段落?して障害者雇用で今の職場で働いている。

 今、もし、好きな人がいたとしてもそれを認めるのも恐ろしい。

あの頃の恋愛論理から今だって遠い。

恋愛はいつでも逃げ道があるように恋愛したい。自分にも、相手にも。

べたな言葉だけれど“相手が幸せで喜んでくれたらそれがいい”

恋愛の理想がそうであるとしたなら、人柄のいいひとを愛する見る目を養うことって大事だ。

いたずらに信用して誰かを大事にしてしまい、蓋を開けたら、未成年と性的関係を結び弄ぶ大人だったなんて後から知っても遅い。その人を知らずに師事していた私も間接的に助長していたことになる。

自分の心を抑え込みすぎることはいいことではない。反動はストレスになって人格崩壊を招く。

 

 先の古渓光大さんの言葉を読んで、(まだ本は終いまで読んでいない)煩悩って、いたずらに抑えるものではなくて、良い方向に使うべきもの、でなければ負のパワーが溢れてしまうのだなあと思った。

今、私の煩悩は、法律や倫理から外れない範囲内で許される環境にあるのかな、ということを確認することは、良き恋愛をする上でも大事なことではないかと思った。