北里芝三郎がベルリンで師事したローベルト・コッホは「近代細菌学の開祖」とされる。

コッホは現在のポーランドのウォルツティンの地区保健医官だった頃、公衆衛生の指導、病院の監督などの仕事の傍ら、臨床と研究に明け暮れ、1877年、炭疽菌を発見し、人工培養法も見つけ出した。

コッホは特有の菌が特有の病気を発病される(今では常識となったが)ことを世界で初めて立証した。

そして、結核菌、コレラ菌と次々と細菌を発見し、その後、ベルリン大学衛生研究所の所長となった。

 

コッホが提唱した病原体を発見し学問的に認知されるための三要件がある。

①一つの伝染病には顕微鏡で見て一定の形をした病原体が見つからなければならない。

 この病原体は健康人や他の伝染病患者に見られてはならない。

②発見した病原体を体外で人工的に培養して、その純粋培養に成功しなければならない。

 一種類だけの細菌を人工的に培養するのが純粋培養である。

③この純粋培養病原体を実験動物に接種すると患者と同様の症状を起こす。

 

 北里柴三郎はコッホのもとで、この原則を守り、破傷風菌の純粋培養に成功した。

破傷風菌はさまざまな神経に作用して口が開きにくい、歩行や排尿の障害などを経て最後には全身の筋肉が固くなる病気である。

破傷風菌はなかなか純粋培養ができず、その原因が生育に酸素を必要としない嫌気性菌であったためだと北里は気付いた。水素ガスを用いた危険な実験だった。

1889年 ドイツ外科学会で北里は「破傷風の病原体について」と題して講演を行い世界に破傷風の純粋培養を伝えた。

そして研究を重ね、破傷風免疫動物の血清の中には、破傷風の毒素に対抗してこれを無害化する物質があることが確かめられた。

北里はこれを「抗毒素」と名付けたが、今日でいう、抗原抗体反応の「抗体」にあたる。

1890年 ともに研究していたベーリングと北里の共著論文「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」

で、ジフテリアおよび破傷風菌の免疫を持つ動物の血液がそれぞれの毒素破壊作用を持つことを明らかにした。

長い間人々を苦しませていたこれらの病気で死なないようにする研究成果を公表したのである。

 

 そした研究のさなか、同年8月 ベルリンで第10回万国医学会が開かれた。

師のコッホはそこで行った「細菌学の研究について」という特別公演で、突如

 「結核について、有効な物質を発見し、目下実験中である」

 と発表し、世界中を揺るがした。あの、多くの命を奪う結核のいまだかつてない治療薬発見の発表である。研究所には大勢の人々がつめかけ、研究どころではない騒ぎになった。

新薬はまだ満足できる試験を経てない段階であまりに性急な発表であり、北里もコッホの早すぎる発表に訝しんだ。

それは、のちにドイツの皇帝が圧力をかけたのだと知る。つまりドイツ開催の万国医学会という大舞台でドイツの進んだ医学と権力を世界に誇示したかったのである。

 

 私は1890年ころのドイツの皇帝は誰だったのか確認した。

時の皇帝はヴィルヘルム2世——

1890年はちょうど前皇帝から使えていたビスマルクが失脚した頃だった。

 

私は、”ドイツの統一は”「鉄と血によってなされる」と演説した鉄血宰相を思い出した。

イギリスの革命から始まり、フランス革命、そしてナポレオン戦争と革命と動乱がつづいたヨーロッパは、ウィーン会議で革命前の絶対王政の秩序体制に戻すことが決議された。

その時、ドイツは35の領邦と4つの自由都市からなる国家連合体、ドイツ連邦として合意された。

連邦といってもバラバラの独立政権の集まりであった。

やがてヨーロッパ各地でウィーン体制の反対運動が行われるころ、ビスマルクはドイツ統一のための先の「鉄血演説」をしたのだった。

 

 戦後日本に生まれ、物心ついたころには赤軍運動も学生運動も下火になった頃で、平和な世界で育った私は、世界史の教科書でビスマルクがドイツを統一したといっても、なんだろうってピンとこなかかった。なんでまた連邦では満足できなかったのだろうと。

それなのにあんなに大きくビスマルクのことを世界史に書いてあったのに、仕えていたヴィルヘルム1世が亡くなり、次期皇帝ヴィルヘルム2世が即位して数年でビスマルク失脚と小さく書かれていて、さらにあっけにとられた。

この、権力が沸いては入れ替わる混沌とした時代、

医師で研究員である北里柴三郎さんもその時代の波に左右されていたのだと、

更には世界を苦しませていた結核の治療薬の開発も国家権力にも影響されていたことを

この本で知ったとき、世界史の文字羅列の世界に色がついたような気がした。