葦北国造(肥)と角鹿国造(越)についてと
日羅と都怒我阿羅斯等

葦北(葦分)国造
葦北国(現・熊本県水俣市、八代市、葦北郡周辺)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると景行天皇(12代)の時代、吉備津彦命(きびつひこのみこと)の子である三井根子命(みいねこのみこと)を国造に定めたことに始まるとされる
角鹿(敦賀)国造
角鹿国(現・福井県敦賀市、南越前町、越前町、越前市周辺)を支配したとされ
国造本紀によると、成務天皇(13代)の時代、吉備臣の祖である稚武彦命の孫、建功狭日命を角鹿国造に定めたとある。また『古事記』の孝霊天皇段に日子刺肩別命は角鹿海人直の祖と記されている。

吉備津彦命は第7代孝霊天皇と、妃の倭国香媛の間に生まれた皇子で四道将軍
稚武彦命は第7代孝霊天皇と、絙某弟の間に生まれた皇子で吉備氏の祖
日子刺肩別命は古事記のみ第7代孝霊天皇と、妃の倭国香媛の間に生まれた皇子で
先に記した様に角鹿海氏の祖
吉備津彦命、日子刺肩別命と稚武彦命は異母兄弟

吉備津彦命の子である三井根子命が葦北国造に
稚武彦命の孫である建功狭日命が角鹿国造に

三井根子命の子(孫?)は(刑部靱負)阿利斯登(ありしと)と言い
大伴金村によって朝鮮に使わされた国造
阿利斯登は新羅に攻められた任那を助けるため百済に使わされる
その子・日羅は日本では刑部靱負の職(軍隊の長)
百済では達率(高官の1つ)となり
武人・賢人として知られる
葦北郡津奈木町にある将軍神社は日羅(将軍)を祀っており
暗殺により遺体が難波の西のほとりの丘に葬られ
翌年、遺体は故郷の葦北に運ばれ祀られた

建功狭日命の20代前の祖とも云われている(都怒我)阿羅斯等(あらしと)
意富加羅国(大加耶/大加羅)の皇子で一説に父親の名は(うしき)(ありしと)

阿羅斯等(あらしと)が母国にいる時の伝説として
白石が美しい童女と化したので都怒我阿羅斯等が喜んで娘と性交しようとしたが、目を離したすきに娘はいなくなってしまった。都怒我阿羅斯等の妻によれば、娘は東の方へ行ったという
娘は難波に至って比売語曾社の神となり
豊国の国前郡へ至って比売語曾社の神となり、二箇所で祀られているという
確信には至らないが
三井根子命の子(刑部靱負)阿利斯登(ありしと)と
都怒我阿羅斯等の父(うしき)(ありしと)が同一
そうなると
日羅と都怒我阿羅斯等が同一なのではないだろうか・・・

また別に
能登國羽咋郡 久麻加夫都阿良加志比古神社に祀られている
祭神 阿良加志比古神(あらかし)(ひこ) 配神 都怒我阿羅斯等
一説に阿良加志比古神と都怒我阿羅斯等は同一ともされているが
これも阿良加志比古(あらかし)(ひこ)が父で
都怒我阿羅斯等が子とならないだろうか