今日は白山の支脈に取り囲まれた越前大野市に行く用事があった
山々に囲まれた土地だからこそ
縄文から古墳時代の遺跡はどんなのがあるのか
博物館を見に行っていたところ興味ある歴史を知った
それは
幕末この地を治めた大野藩が、藩の命運をかけて取り組んだ蝦夷地開拓と洋式帆船「大野丸」の建造であった


江戸時代の終わり頃、大野藩は全国の諸藩同様、莫大な借財に苦しんでおり、藩主 土井利忠は内山良休と隆佐の兄弟を抜擢し改革に当たらせる
良休は、安政2(1855)年に、藩直営の商店、大坂大野屋を開設。

その後、これを全国に広げて財政再建を進める、一方隆佐は、安政2 (1855)年冬の幕府の蝦夷地開拓奨励を受け、良休らとともに利忠に応募を進言。4万石の大野藩が新しい領地を得るための新事業に乗り出し

隆佐は、幕府の許可を得 て洋式帆船の建造に着手。安政5(1858)年、竣工し、翌年3月、敦賀・箱館間を初航海した
当時、洋式の船の建造は全国的にほとんど例がなく、大藩でもできないことを小藩が成し遂げたと「出群 の所置(群を抜いている)」と称され、名前は利忠が「大野丸」と命名。製造費用は、蝦夷口掛硯 日払帳によれば、7239両(現在のお金で約2億円)で、大野屋の売上金から支払われたそうだ
この大野丸の基地港は敦賀で、敦賀の倉庫に大野丸の運んだ
物品が入っていたと思うと他人事とは思えない