この2つのお社の相関図を見る時は
舟での移動を考えるとこの様に見たほうが
分かりやすいかもしれない
(※ 敦賀湾内、松原に入った波は跳ね返り手の方向へ流れる)

越前国一之宮 氣比神宮
越前国二之宮 劔神社


氣比神宮は仲哀天皇を祀る為に創建
剣神社は仲哀天皇の子、忍熊王を祀る為に創建
そしてどちらも越前国敦賀郡の式内社で
共に氣比大神を祀っている
(※ 劔神社の社伝では忍熊王は
劔神社の御神体となっている剣は垂仁天皇皇子の五十瓊敷入彦命が作らせた神剣で、神功皇后摂政の時代に仲哀天皇皇子の忍熊王が譲り受け、忍熊王が高志国(越国)の賊徒討伐にあたり無事平定したとされている)

しかし以前から
氣比は祟り神の仲哀天皇を氣比大神と神功皇后で挟んで抑え込み
かたや劔は祟り神の忍熊王を主祭神の素盞嗚命と氣比大神で
挟んで抑えているのではなかろうかと感じている

また剣神社の場所について、泰澄の存在や山岳信仰と関係深いのであろうとは思うが
なぜもう少し下れば平野部があるのに、この山あいなのかが分からない
これが分かれば、角鹿氏の姓が直であった理由がわかる様な気がする
その後八色の姓の制定されたが姓は直のままであった謎が出てくるが・・・