ならまち怨霊ウォーク | ART and MOVIE CITY COMMENTS

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奈良市観光協会『元興寺文化財研究所研究員と歩く ならまち「怨霊ウォーク」』が7月18日、8月29日、9月30日に開催されます。
(予約制らしく、代金一人2000円。
私の機種からは該当記事が見られませんでしたが〔紙のビラで見ました〕、
奈良市観光協会〔TEL 0742-27-8866 (平日9:00~17:00)〕のページは存在し、そこにイベント記事があると思います。)

『モンローウォーク』と聞こえるかもしれませんが、『怨霊ウォーク』であります。

ルートに、一番探しづらい『肘(かいな)塚伝承地』が入っているのが効いてます。
『(玄ぼう〔日へんに方〕僧正の)肘塚』と言われる『椚(くぬぎ)神社』は、JR京終(きょうばて)駅から東に歩いて数分のところにあります。
私が行った時(17年6月)は京終駅出入口にある地図に『椚神社』が図示してありました。
京終駅舎出入口(一ヶ所のみ)から見て放射状に広がる4本の道の内、右から2本目の道を突き当たりまで歩き(数分程)、左に曲がると、すこし向こうに、木と小さな鳥居が見えています。細い道ながら車の通行に御注意。

旧街道風のひなびた住宅地の細い四つ辻の南東を占めた、神木のくぬぎ(椚、櫟)を赤い瑞垣で囲って、南向きに小さなほぼ等身大の鳥居を設けた一坪程の神社です。

📖 note記事 n9961e1f63f3c (21年3月追加) 

 

サーチウィキペディア『椚神社』パソコンhttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%9A%E7%A5%9E%E7%A4%BE メモ《玄ぼうの肘塚》らしいが、上のリンク先には玄ぼうのことは記されてません(17年6月)。

サーチ肘塚不動堂についてのブログ記事パソコンhttp://m.ameba.jp/m/blogArticle.do?guid=ON&unm=elephant-dogfight&articleId=12054856951

メモ私が調べている限りでは、『肘塚不動堂』と『玄ぼう僧正の肘塚』との関係性がよくわかりません。
『肘塚不動堂』の名での『肘塚』は単にその場所の名が『肘塚町』(勿論その町名は『玄ぼう僧正の肘塚』由来だが。)だったことからついたものに過ぎないのかもしれず、『玄ぼう僧正の肘塚』との直接の関係は無い可能性もあります。{→※1}

サーチ奈良時代の高僧玄ぼう(日へんに方)関連伝承地についてのブログ記事パソコンhttp://machinooto.exblog.jp/14674913/ メモ眉目塚伝承地の崇徳寺は近鉄奈良駅のすぐ北の町中にあり、何度か周囲を歩きましたが、境内には一度も入れたことがありません。私が行った時はどの入口にも厳重に鍵がかかっていました。

胴塚伝承地(胴塚弁天)は、東大寺戒壇院の南門に向かって北進する《南北道》{→※2}
から西へ入る《横道》の内の、
(私が行った時は)舗装してある中では、もっとも戒壇院に近い横道を、
(橋を渡って)すこし歩くと、突き当たりに『胴塚弁天』の社殿の正面(つまり東向き)が見えます。
私が行った時は、社名などの標示は全くありませんでした。
さらに右(北)へ、ほんのすこし折れて、すぐ左(西)へ折れるとすぐ南北の幹線道に出ます。
(眉目塚、胴塚は上記イベントの予定コースには載ってません。〔紙ビラより〕)

サーチ奈良の有名寺院、福智院公式HP。(福智院の前身寺院の平城清水寺は玄ぼう僧正が開基。)福岡県太宰府市の観世音寺近隣にある伝・玄ぼう僧正墓について。(実は空海にもおとらぬほどの偉大な高僧にも関わらず、正当な史的評価がない。)パソコンhttp://www.fukuchiin-nanto.com/bosan.html
サーチウィキペディア『福智院』パソコンhttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%99%BA%E9%99%A2 (メモこのリンクを貼ったのは、たまたま6月17日ですが、記事に6月18日が玄ぼう僧正の御命日で、福智院等で供養が行われる、と書いてあります!)
サーチウィキペディア『観世音寺』(記事中程に玄ぼう僧正の墓の記述)パソコンhttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E4%B8%96%E9%9F%B3%E5%AF%BA#cite_ref-12


サーチウィキペディア『早良親王』(崇道天皇社の写真あり)パソコンhttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B メモ脚注にある、早良親王の亡くなり方に関する西本、長谷部両氏の推定(飲食を与えられなかったとする説)と類似した状況が、
長屋王一族の亡くなり方にもあったかもしれない。
長屋王邸が包囲されてから一族が亡くなる迄のタイムスパンが3日間であること、
その旧暦2月10日から12日(新暦3月14日から16日)の期間を含むが如く挙行される東大寺修二会

〔新暦3月1日から14日(境内社参拝等を含めると15日)まで。
【この期間を『長屋王の変』当時(新暦の年で言うと729年)
に於いての旧暦であらわすと1月28日から2月10日(11日)までに相当する。 {→※3}】
旧暦が用いられた頃は、修二会は2月1日から14日(15日)まで行われた。
『長屋王の変』当時から天皇であった聖武天皇が後に創建した東大寺の、ほぼ創建当時からの行事〕

の、
もっともポイントとなる儀式が、『本尊』のために水を汲み、捧げる『お水取り』であること等からの連想です。

サーチ『崇道天皇社』に関する記事パソコンhttp://small-life.com/archives/13/12/0121.php



※1 肘塚不動堂は、かつて肘塚町に建っていたテイチク本社工場の敷地内にあったそうですが、テイチク本社が東京へ移転し、跡地がパナソニックの社屋を経て、元興寺文化財研究所へと建て変わった現在は、敷地内の不動堂は無く、祀られていた石仏群は、お寺の方(の、かつて極楽坊と呼んでいた方、世界遺産)の元興寺(入口の横)に移されました。

元興寺文化財研究所の所在地については、京終駅周辺で手がかりを見出だせず、椚神社近くの商店で道を伺いました。
椚神社(鳥居が南を向いている)からまっすぐ南へ歩き
(先述の、椚神社へのルートだと、すこし引き返すかたち)、
そのまましばらく歩き、右に大きな石燈籠を見つつ依然まっすぐ歩くと、
小さな橋がかかった川があり、そのすぐ向こう、道の左側に建つ大きな建物が元興寺文化財研究所です。

先述の大きな石燈籠の近く(南)に立つ古い町内地図掲示板は今もそこを『テイチク』と記してますが、敷地の道沿いの箇所に、鳥居マークが記してあり、その地点を(周囲との位置関係から推定して)、今の元興寺文化財研究所に当てはめると、
道沿いに有る舗装された低い土壇状の空間、更にそこにある茂みと重なりそうであり、
つまりそれが、古い地図の『鳥居マーク』の施設の跡地かもしれません。
本来神社を意味する『鳥居』マークではありますが、不動明王を祀る寺堂『肘塚不動堂』の跡地の可能性がある、と思いました。

※2 《南北道》。 依水園の前を南端とし、途中西側に往年の名写真家入江泰吉氏の旧邸がある。

※3 サーチウィキペディア『《長屋王の変(新暦729年)》当時の、旧暦2月12日は新暦3月16日』パソコンhttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%8812%E6%97%A5_(%E6%97%A7%E6%9A%A6) 
メモ『長屋王の変』があった729年当時を新暦であらわす場合、言わば『新しい新暦(現行の暦)』である『グレゴリオ暦』よりも、
言わば『古い新暦』である『ユリウス暦』の方が適切であろうことについては、前のブログ (42103697.html) に記してあります。
(729年の『長屋王の変』をあらわす場合、ユリウス暦とグレゴリオ暦での違いがない。
違いがないのなら、729年当時存在した『ユリウス暦』として729年を呼び習わす方が妥当なのだろう。)



(6月9月18年1月2月修正 21年3月更新)