夜桜の客
夜桜の名所として知られる山麓の公園を、車で通りかかると、ひとりの女が大儀そうに足を運んでいる。車の向かう方角だったから、「よろしかったら、どうぞ」 と彼は車を停めて、フロントドアを開けてやった。「ありがとう。田町だけど、乗せてくれる?」「いいですよ、僕の家はその先だから」 女は助手席に坐ると、崩れるように横になった。「だいぶ聞こし召しましたね」 と彼は女を横目に見て言った。「私キコって言うの。よろしくね」 そう言うと女は、さらに体を崩して横たわるほどになった。そのとき大きなブラシ状のものが宙に舞って、彼の鼻先を撫でるしぐさをした。 見ると、それは狐の尻尾なのだ。「はかられたな!」 彼は車を急停車させた。「人間の長さをはかって、何の得があるの。魚なら分かるけど」 女は悪態をついた。 彼はフロントドアを開け、ほとんど獣になっている女を足で蹴り出しながら、「つべこべ言わずに、トットと自分の巣に帰って、眠れ。二度と花見になんか顔を出すな」 と叱り飛ばした。「トットって、お魚のことよ。山に魚がいれば、人間の花見に顔なんか出すもんですか」 女は足で蹴られた痕が、よほど痛かったらしく、熊笹の生い茂る斜面を駆け上っていく。その素早さときたら、水を切る魚のようだった。ざざざざとなぎ倒されていく細い竹が、月光を映して白く光っている。 おわり