※ かって武蔵の国

   「武蔵武士の鑑」と呼ばれた男がいた

 

 

鎌倉殿の13人で注目の、畠山重忠公に会いに、

    埼玉県比企郡嵐山町の「菅谷館跡」へ行って来ました。

 

 

畠山重忠公は、桓武平氏の流れをくむ秩父氏の一族で

   武蔵の国の武士団を統率する職にありました。

★重忠公は、頼朝公から厚い信頼を受け、「富士川の合戦」では先陣をつとめ

   「一の谷の戦い」「屋島の合戦」「壇ノ浦の戦い」で武功をあげました。

   特に一の谷の戦いでは、鵯越えの坂落しで「愛馬を背に坂を降りた」話は

   有名です。

★また文武に優れ清廉潔白の人として御家人、家来衆から敬愛されていました

★しかし頼朝の死後、幕府内の権力闘争により、謀反の疑いをかけられ

   42歳の生涯を閉じます。

★この乱により、桓武平氏の流れをくむ秩父氏一族は滅亡。

   武蔵の国は北条氏が掌握するところとなります。

 

 

畠山重忠は、鎌倉幕府の執権・北条時政の先妻の娘を妻としています。

時政は義理の父であり、義時・政子とは義理の兄弟となります。

なのに・・・

何故北条一族から謀反の疑いを掛けられ一族諸共・滅亡させられたのか?

不思議に思い「畠山の乱」をネットでググってみました。

 

 

≪ 畠山の乱・牧氏事件のいきさつ ≫

①    (1199年)正治元年正月~頼朝の死去に際し、畠山重忠は頼朝より 

  「代々子孫を護るよう」遺言をうけた。

②    (1200年)梶原景時の変では重忠も「景時弾劾の連判状」の66名の中に

  名を連ねた

③    (1203年)比企能員の変では、重忠も北条氏に味方して比企氏一族を

  滅ぼした。 そして、二代将軍頼家は修善寺に幽閉され、後に謀殺された。

④    (1203年)後継将軍に弟の源実朝(12歳)が就き、執権の北条時政が

  実権を握った。

⑤    (1204年)11月、重忠の息子の重保が、北条時政の後妻・牧の方の娘婿

  である平賀朝雅(武蔵国司)と酒席で争った。一応この場は収まったが・・・

⑥   (1205年)6月21日、平賀朝雅は「重保に悪口を受けた」と牧の方に讒訴し

  牧の方はこれを「重忠父子の謀反の意である」と時政に訴えた。

⑦    時政が息子の義時に重忠討伐を相談すると「忠実で正直な重忠が謀反を

  起こす訳がない」とこれに反対するが、牧の方の兄・大岡時親から「継母だから

  牧の方を軽んじるのか」と詰問され、義時はやむなく重忠討伐に同意した。

⑧   すぐに稲毛重成(時政の娘婿・畠山重忠と同族の従兄弟)が御所に上がり

  「重忠謀反」を訴え、幼い将軍実朝は重忠討伐を命じた。

⑨   翌22日、まず鎌倉に居た息子の畠山重保が由比ガ浜におびき寄せられ、

  三浦義村の軍勢に討たれた。

  義村は、過って祖父義明を死に追いやった重忠への恨みを忘れておらず、

  畠山父子の討伐に積極的だったという。

⑩ いっぽう重忠は、北条時政と通じていた稲毛重成から「鎌倉に異変あり

  至急参上されたし」との偽りの連絡を受けて、息子重秀以下130余騎を率いて

  比企の菅谷館を出発、鎌倉に向かっていた。

⑪   時政の命により、鎌倉へ向かっている重忠を道中で誅殺するべく、

  義時を大将として討伐軍が派遣された。

⑫    22日午後、重忠は武蔵の国二俣川(現在の横浜市旭区)で討伐軍と遭遇した

  北条と畠山の激突 「二俣川の戦い」

  すでに息子重保が殺された事、自分に向けて追討の大軍が差し向けられた事を

  初めて知った重忠は、「引き返して軍備を整えたら謀反を認めた事になる」と、

  わずかな兵で義時の大軍を相手に奮戦。重忠は敵の放った矢に討たれ首級

  を取られた。享年42。重忠の死を知った同行の息子重秀以下は自害した。

  重忠の率いていた軍勢の少なさが、重忠に謀反の意思などなかったことを

  物語っていた。

⑬    23日午後2時頃、軍勢を鎌倉へ引き上げた義時は、送られてきた重忠の首を

  見て「悲涙禁じがたし」と悲嘆にくれた。そして「重忠の一族は皆出払っていて

  小勢であり、謀反の企ては虚報で、重忠は無実だ」と断じ、父時政を糾弾した。

  時政は黙って奥へ退いた。

⑭    23日の夕方、鎌倉内で重忠の同族で討伐軍に加わっていた稲毛重成父子、

  榛谷重朝父子が、重忠を陥れた首謀者として、三浦義村によって殺害された。

⑮    7月8日、三代将軍・実朝に代わり尼御台所・北条政子の命により、

  秩父氏一族の所領は、重忠を討った武士たちに勲功として与えられ、

  政子の女房たちにも分配された。

⑯    7月19日、人望のあった重忠を殺した事で、時政と牧の方は御家人達から

  憎しみを受ける事となり、失脚して伊豆国へ追放された。

  京にいた平賀朝雅は義時の命にり誅殺された。  此れが「牧氏事件」

⑰    残された畠山重忠の所領は、重忠の妻(政子・義時の妹)に安堵され、

  妻は足利義純に再嫁して、義純が畠山氏の名跡を継いだ事により、

  平姓秩父氏の畠山氏は滅亡した。

 

 

 まとめ 

★乱の背景には~武蔵の国の支配を巡り、武蔵の国の武士団を統率する畠山氏と、

武蔵の国司・平賀朝雅(時政の後妻・牧の方の娘婿)の陰で武蔵の国の行政権を握る

北条時政との対立があった。

★北条時政は、武蔵の国を手に入れるために重忠を誅殺した。其の事で御家人衆

から憎しみを受けた。

★北条義時は~父時政を切り捨てる事によって、無実の重忠を討ったという御家人

達の憎しみの矛先をかわし、更に混乱に乗じて牧の方の娘婿である平賀朝雅と、

秩父氏一族の稲毛重成・榛谷重朝ら有力者を一掃して、武蔵の国の掌握に成功した

★平賀朝雅を次期将軍に担ごうとした時政と牧の方を追放した事により、

幼い三代将軍実朝の後見役として、義時・政子姉弟主導による二頭体制が確立した

   (義時は二代執権となり、政子は尼将軍と呼ばれる)

★一連の流れから、牧の方の言いなりになった時政の強引さと、その混乱を巧みに

利用して武蔵の国を手中に納め幕府の全権を握った義時のしたたかさが感じられる

★その後出家していた畠山重忠の末子重慶は乱の8年後、建保元年(1213年)9月に

謀反の疑いを受けて殺害されるのである。

 

 

 

↓↓『拙者は 畠山重忠である~』

菅谷館跡の「埼玉県立嵐山史跡の博物館」に展示されている畠山重忠公です

博物館に入ると重忠公のロボットが迎えてくれ、

彼の口から語られる自身の生涯と、展示物の紹介があります。

↓↓鎌倉殿の13人・中川大志の顔が染みついているので・・・いささか困惑です。

 

 

 

↓↓菅谷館跡

菅谷館跡は畠山重忠の居館と伝えられていますが、当時の遺構は残っていません

現在残っている遺構は後の戦国時代に構築された城郭跡(東京ドーム三個分)です

重忠公の館が在ったと思われる場所に、烏帽子姿の重忠公の像が

鎌倉の方向を向いて建っています。

↓↓ネットより~菅谷館跡の航空写真。正式には「比企城館跡群菅谷館跡」

    左上が、嵐山史跡の博物館です。

 

 

↓↓城郭内の、畠山重忠公の屋敷があったと思われる場所に

   重忠公の像が 鎌倉の方向を向いて建っています。