※ 横浜ブラブラ~ part 2
港町で異国情緒を満喫です
横浜元町・山の手から、港の見える丘公園を経て、山下公園へ・・・
赤い靴を履いていた女の子に、会いに行きました。
↓↓港の見える丘公園から、赤い靴の女の子の像の有る 山下公園方面を。
↓↓山下公園は、関東大震災で出た街の瓦礫を埋め立てて造られました。
↓↓横浜ベイブリッジです。巨大客船が、この橋の下をくぐって出て行きます。
「横浜」と言えばすぐに『赤い靴はいていた~♪♪』のメロディーが浮かびます。
色々と訳有りの歌詞と、哀愁を帯びた旋律が、聞く人の胸を強く打ちます。
『赤い靴』➡ 作詞~野口雨情、作曲~本居長世
赤い靴 はいてた 女の子 異人さんにつれられて 行っちゃった~
横浜の波止場から 船に乗って 異人さんにつれられて 行っちゃった~
今では 青い目に なっちゃって 異人さんのお国に いるんだろう~
赤い靴 見るたび 考える 異人さんに逢(あ)うたび 考える~
生まれた 日本が 恋しくば 異人さんに頼んで 帰ってこ~
「赤い靴をはいていた女の子」について、経緯が知りたく・・・
いろいろとネットで検索してみました。
<エピソード no1>
赤い靴をはいていた女の子のモデルは ??
★静岡県清水市出身の 岩崎かよの娘・きみがモデルとされています。
★岩崎かよは 未婚の母として、きみを育てていましたが、生活が苦しく北海道に渡り、鈴木志郎と結婚しました。
★きみが満3歳の時、鈴木夫妻は 開拓生活の厳しさもあり、娘・きみの養育を、アメリカ人宣教師のヒュエット夫妻に託すことにしました。
★やがてヒュエット夫妻は本国に帰る事になりましたが、その時きみは不治の病・結核に冒されており、アメリカに連れて行く事が出来ず、仕方なくそのまま東京・麻布の鳥居坂教会の孤児院に預けて帰国しました。
★きみは、孤児院で母親に会うこともできず、9歳で亡くなりました。今、きみは東京青山墓地内の鳥居坂教会の共同墓地に眠っています。
★きみは私生児として生まれましたが、墓碑には岩崎でも鈴木でもヒュエットでもない、実父(佐野安吉)の姓で、「佐野きみ」として、静かに眠っています。
★母親のかよは、きみはヒュエット夫妻と一緒にアメリカに渡ったものと思いこんでいて、きみが東京の孤児院で結核で亡くなった事は知らされないまま、一生を過ごしました。
<エピソード no2>
童謡「赤い靴」の誕生秘話・・・ 作詞~野口雨情、作曲~本居長世
★野口雨情は札幌市の新聞社に勤めていた時に、同僚の鈴木志郎やその妻のかよと親交を深め「かよの娘のきみが宣教師に連れられて渡米した」という話を、かよから聞かされました
★しかし実はこの時点では、きみは鳥居坂教会の孤児院にいたのですが、かよはそのことを知りませんでした。
★その後1921年(大正10年)に、この話を題材にして『赤い靴』が野口雨情によって作詞され1922年(大正11年)に 本居長世が曲を付けて 童謡「赤い靴」が誕生しました。
<エピソード no3>
「赤い靴をはいてた女の子」の像は、何体あるか??
❶1979年、横浜・山下公園に『赤い靴はいてた女の子の像』が作られました。
これは野口雨情の詩のイメージをモチーフにしたもので、赤い靴を愛する市民の会から横浜市へ寄贈されました。
➋また同会は、この像のミニチュア版を1982年に横浜駅に寄贈しました。
現在は、横浜駅の自由通路に設置されています。
❸静岡市・日本平山頂に『赤い靴・母子像』(1986年)が有ります。
母親かよは静岡市清水の出身でした。 再び会うこともなく逝った母と子を、
生まれ故郷の清水市に帰してあげたいという市民の想いから、建てられました。
↑日本平山頂~ネット拝借です
❹東京都・麻布十番に『きみちゃん像』(1989年)があります。
きみが9年の短い生涯を閉じた、鳥居坂教会の孤児院があった地です。
3歳で米国人宣教師の養女となったきみちゃんは、結核の為麻布の孤児院に入れられ
渡米することなく此処で亡くなりました。
↑麻布十番~ネット拝借です
❺北海道留寿都村「赤い靴ふるさと公園」内に『母思像』(1991年)があります。
母「かよ」の入植した開拓農場の縁で「赤い靴ふるさと公園」がつくられました
❻北海道小樽市『赤い靴 親子の像』(2007年)
母「かよ」と夫の鈴木志郎が女の子とともに小樽に住んでいた地として、
小樽運河公園内に、親子三人の銅像が建てられました。
❼北海道函館市『きみちゃん像』(2009年)母「かよ」との縁で像が建てられました
❽青森県鯵ヶ沢町『赤い靴の像』(2010年)母「かよ」との縁で像が建てられました
❾2010年、山下公園の少女像と同型の像が、
横浜市と姉妹都市の、米カリフォルニア州サンディエゴ市の海辺に建てられました