※ 『真間(まま)の手児奈』娘のお話です
≪千葉県市川のむかし話 『真間の手児奈』≫
★昔むかし万葉の頃、葛飾の真間(まま)の辺り(今の市川市)は、じめじめした低い土地で、菖蒲や葦が沢山生えていました。真間山のすぐ下まで海が入りこんでいて、この辺りの井戸水は塩気を含んで、飲み水にすることが出来ないので困っていました。
★ところがたった一か所だけ「真間の井」とよばれる井戸からは、奇麗な水がこんこんと湧き出していました。この里に住む人々は、この井戸に水を汲みに集まりましたので、井戸の周りはいつも賑やかな話し声や笑い声が絶えませんでした。
★この水汲みに集まる人々の中に、ひと際目立って美しい「手児奈」という娘がいました。
手児奈は青い襟の付いた麻の粗末な着物をきて、髪もとかさなければ履物もはかないのに、
上品で満月のように輝いた顔は、都のどんなに着飾った姫よりも清く、美しくみえました。
★「手児奈が通る道の葦はね、手児奈の裸足や白い手に傷が付かない様にと、葉を片方しか出さないということだよ。」
「そうだろう。心のない葦でさえ手児奈を美しいと思うのだね。」里人達は囁きました。
★手児奈の噂はつぎつぎと伝えられて、里の若者だけでなく国府の役人や、都からの旅人までやってきて「手児奈よ、どうかわたしの妻になってくれないか。美しい着物も髪に飾る玉も思いのままじゃ。」と結婚をせまりました。
その様子は、ちょうど夏の虫が灯りを求めて集まる様だとか、舟が港に先を争って入ってくる様だったということです。
★しかし手児奈は、どんな申し出も断りました。その為に手児奈のことを思って病気になる者や、兄と弟が醜い喧嘩を起こす者もおりました。
★それをみた手児奈は「私の心はいくらでもお分けする事ができます。でも私の躰は一つしかありません。もし私がどなたかのお嫁さんになれば、他の人たちを不幸にしてしまうでしょう。ああ私はどうしたらいいのでしょうか。」
迷い苦しんだ手児奈は、夕日の沈む海に我が身を沈めて亡くなりました。
★翌日浜に打ち上げられた手児奈のなきがらを、可哀想に思った里人は、井戸のそばに手厚く葬りました。
★★真間の「手児奈霊堂」は、後の時代墓所の上にお堂を建て 手児奈を祀ったものです。
★★また手児奈が水汲みをしたという「真間の井」は、手児奈霊堂の直ぐ近くの
「亀井院」というお寺の庭に残っています。
・・・市川市のHPに紹介です。
万葉集には、「真間の手児奈」の伝説を詠んだ歌が9首載せられています。
その内の3首について、それぞれの歌の所縁の場所に真間万葉顕彰碑が建っています。
又・歌川広重『名所江戸百景 真間の紅葉 手古那の社継橋』に、江戸時代の真間の継橋辺りの様子が描かれています。
万葉集で詠われた其の場所が、
そのまま現在に残っている事に・・・ 滅茶感動です。
★★(真間の手児奈の墓)・・・市川市真間4-6-11~~「手児奈霊堂」
「われも見つ人にも告げむ 葛飾の真間の手児名(奈)が奥津城処」~(山部赤人)
奥津城処(おくつきどころ)とは墓所のことで、現在は手児奈霊堂が建っています。
★★(真間の井)・・・市川市真間4-4-9~~「亀井院門前」
「勝鹿の真間の井を見れば 立ち平し 水汲ましけむ手児奈し思ほゆ」~(高橋虫麻呂)
真間の手児奈の伝説を詠んだ歌で、「真間の井」は亀井院にある井戸と伝えられています
↑↑いち時期、北原白秋が此処に滞在していました
★★(真間の継橋)・・・市川市真間4-7-23~~「継橋辺り」
「足の音せず行かむ駒もが 葛飾の真間の継橋やまず通わむ」~(読み人知らず)
「真間の継橋」とは、当時此の辺りが真間の入江の中州であった頃、幾つもの洲を渡るのにかけられた橋です。
現在は陸地となっていますが、その場所に朱塗りの欄干が造ってあります。
『足音せずに行く駒がほしい、葛飾の真間の継橋を何度も手児奈のもとに通いたいものだ』
と詠われています。
道路の正面の↑↑長い石段を登りきった高台に 「弘法寺(ぐほうじ)」があります。
石段の上には弘法寺の大きな山門が有り、下の歌川広重の絵は、
その山門から「真間の継ぎ橋」辺りを眺めた構図だと言われています。
★★歌川広重 『名所江戸百景 真間の紅葉 手古那の社継はし』
↑↑画面中央・紅葉の葉の下部分に「真間の継橋」が描かれています。
石段の上、弘法寺山門からの眺めです。
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広重が観たと同じ場所からの、現在の真間の継橋辺りです。
正面高層ビルは総武線JR市川駅近辺です。