アインシュタインをして「量子との格闘に比べれば、相対性理論なんて息抜きみたいなものですよ(同書P.108)」と言わしめた難解な量子力学。

 

 

運動によって時間が遅れ、空間が伸び縮みする相対性理論どころではない、とんでもないパラダイムを人類にもたらした。

この衝撃波は現在も続いており、物理におさまらず科学哲学はもちろん、哲学の主要テーマである存在論や認識論も巻き込んで今も揺れ動いている。

 

人類史上、科学や哲学に最大のパラダイムが訪れた黄金時代。

綺羅星の如く登場した天才物理学者、ボルン(確率解釈)、パウリ(パウリの排他律)、ド・ブロイ(物質波)、ベル(ベルの不等式)、ボーア(相補性原理&非局所的長距離相関)、アインシュタイン(光量子仮説)、ハイゼンベルク(行列力学&不確定性原理)、シュレンディンガー(シュレンディンガー波動方程式)、プランク(プランク定数)、ディラック(ディラックの海)、ボーム(ホログラフィック・パラダイム)等が交流し、時と場所を忘れて議論を重ねながら、未だ経験したことのない現象の解明と理論化(記述化)に奔走したドキュメントのような書籍。

 

ボーア、アインシュタイン、ゾンマーフェルトが市電で議論に夢中になり2度も降りるべき駅を乗り過ごしたり、発熱しているシュレディンガーがボーアの自宅でボーアの妻に看病されながらハイゼンベルクも交えて3日間ぶっ続けで議論するくだりなどは、まるで映画のワンシーンのように面白いし、天才科学者としての情熱と真摯な姿勢が伝わってくる。

これほど多くの天才が同時代に切磋琢磨した歴史は人類史上ないだろう。

 

ただ用語や現象の説明が省略されているため「EPRパラドックス」「ベルの不等式」「相補性」「対応原理」「量子飛躍」「パウリの排他律」「不確定性原理」「ラプラスの悪魔」等々は他の書籍かネット検索で大まかにでも把握しておく必要はある。

アニミズムやトーテミズムなど世界各地で自然発生的に起こった宗教や信仰は多神教。
一方、ユダヤ、キリスト、イスラム教などの一神教が例外的な宗教である。

ユダヤ教に至っては成立さえ政治的であるように思えるところがある。
旧約聖書でヤハウェはアブラハムにカナンの地(乳と蜜の流れる地という意味。現在のエルサレムを含んだパレスチナ地方)を与えているが、その後の言い回しが必要以上にくどい。

アブラハムの孫であるヤコブがカナンに戻った時に「私はアブラハムとイサク(アブラハムの子)に与えた地を、お前に与えよう。また、お前ののちの子孫に、その地を与えよう」との啓示がある。ちなみにアブラハムはユダヤ民族とアラブ民族の共通の祖先である。

旧約聖書の成立自体に政治的な意図があった。

エジプトで奴隷として他民族に支配されていたヘブル人(ユダヤ人)は、本来自分達は神の民であり、我らを支配する絶対唯一の存在は神のみであるという発想の転換をやってのけた。


旧約聖書によってユダヤ民族の団結と、荒涼とした地で唯一緑が茂るヨルダン川近辺の建国(ユダヤ人の理想郷)を意図していた。
そのためにハンムラビ法典やギルガメッシュ神話をもとに旧約聖書を作った(旧約聖書寄せ集め説)と考えるのが妥当である。

ノアの箱舟が漂着したのがアララト山であり、モーゼがヤハウェから十戒を与えられたのがシナイ山であることから、オリンポス神話に影響を受けた山の神と考えることもできる。


しかし内容の一部はハンムラビ法典(BC17世紀頃)や、ギルガメッシュ神話(メソポヤミアの神話)にある。
「目には目を」はハンムラビ法典にあるし、洪水はギルガメッシュ神話に類似のイベントが記述されている。

BC2000年頃、ヘブライ人がカナンの地に住み、モーゼの後継であるヨシュアがカナンに戻ったのがBC1300年頃と言われている。


ユダヤ人が神から選ばれた民族であり、神はアブラハムに、肥沃な約束の地としてカナンを与えた。
ユダヤ教はユダヤ人が、ユダヤ人のために、それまでの神話を寄せ集めて聖書をつくり、絶対唯一の民族神を設定したのが起こりである。

ソロモンの栄華の後、BC928年頃、イスラエル国家は南北に分裂し、北イスラエル王国はアッシリアに、南ユダ王国はバビロニアによって滅亡(BC587)し、ユダヤ人はバビロニアの捕囚となる。
ペルシャのバビロニア征服によって解放され、再びエルサレムに第二神殿まで建立するにいたったがローマの支配下におかれ、これに反発したシモンなどが武装蜂起するがローマの敵ではなかった。
この時からユダヤ人の離散が始まる。(AC73年または135年)

旧約は、あくまでも神とユダヤ人との契約であり、新約になって、初めて神と人類との新しい契約となっている。
しかしこれはあくまでもキリスト教側の主張であり、ユダヤ教においては新約は存在しないし、旧約は旧約ではなく現在も有効な契約である。

イギリスの罪
第一次世界大戦中、イギリスがオスマン・トルコに勝利するために使った外交の三枚舌。
一枚目「フサイン・アクマホン協定」1915年。アラブ人に対しトルコからアラブ人の独立を密約した。 
二枚目「サイクス・ピコ協定」1916年。ロシア、フランスにイギリスも含めた三国による分割支配を密約した。
三枚目「バルフォア宣言」1917年。ユダヤ人にイスラエル建国を密約した。(ユダヤ財力を最大限引き出す目的)

アメリカの罪
第二次世界大戦後、戦勝国(とくに推進したのは米英)中心の国連がテルアビブを首都とするイスラエル国家の建国を認めた。シオニズム運動の盛り上がりと戦時下でのナチスによるユダヤ人の迫害に同情が寄せられ、当時の世論がそれを後押ししたこともある。
国連は、パレスチナ地方をイスラエル国家とアラブ国家、国連管理地区(エルサレム)の三分割案を承認したが、所有面積はイスラエルが圧倒的でアラブ諸国は認められるはずもなかった。

イスラエルは「建国」を早々と一方的に宣言し、それに反発したアラブ諸国との間で4度に渡る中東戦争が勃発した。
イスラエルは4度勝利し、領土をゴラン高原からヨルダン川西岸まで拡大し、その都度パレスチナ難民を生み出した。
この戦争でイスラエルを財力、軍事面で支援したのが米国とユダヤ系財閥である。

現在も国際的に認められるイスラエルの首都はテルアビブであるが、イスラエルはエルサレムを占領したまま「永久不可分の首都」という宣言を行っている。

現地時間10月7日午前6時半に始まったハマスによるロケット弾による奇襲ばかりがクローズアップされ、ハマスによって始まった紛争のように報道されている傾向があるように感じられたので以下の経緯も引用しておく。

 

“CNN. CO.JP”より

https://news.yahoo.co.jp/articles/94be7bc32479ba6b22f425c4f0fe47a842088ec6

************ 以下、上記記事より引用 *************

過去の経緯は

イスラエルとパレスチナの間の緊張は、1948年にイスラエルが独立を宣言する前から存在していた。数十年にわたる対立により、双方で数千人が死亡したほか、多数の負傷者が出ている。

今年は特に暴力が激化している。ヨルダン川西岸地区でイスラエル軍によって殺害されたパレスチナ人の数は、武装組織のメンバーと民間人を合わせて、過去20年間で最も多い。パレスチナ人による襲撃で死亡したイスラエル人や外国人の数もやはり過去最多の水準となっている。殺害されたのは大部分が民間人だ。

イスラエルとハマスの武力衝突は87年に起きた、イスラエルによるガザ地区とヨルダン川西岸地区の占領に反対する第1次インティファーダ(対イスラエル蜂起<ほうき>)にさかのぼる。

イスラエルは67年の戦争でエジプトからガザ地区を奪ったが、2005年にガザ地区から撤退していた。ハマスは07年、パレスチナ自治政府の主流派「ファタハ」と衝突した後、ガザ地区を支配下におさめた。ガザ地区には約200万人のパレスチナ人が暮らす。

ハマスがガザ地区を掌握した後、イスラエルとエジプトはガザを厳重に包囲した。イスラエルはガザ地区の空と海も封鎖している。

*************** 引用終わり ***************

 

まぁ古くは旧約聖書の記述(ヤハウェがアブラハムに与えた約束の地)から始まるし、直近でもパレスチナ難民を生み出した1948年5月14日のイスラエル建国まで遡らないと問題の本質は見えない。

第二次大戦に英国が勝利するため、ユダヤ財閥から軍資金を引き出すための密約(バルフォア宣言)と4度に渡る中東戦争で占領したままのエルサレムを含むヨルダン川西岸、ガザ地区、ゴラン高原も元凶である。

ジャニー喜多川による未成年者への性加害の何が問題であるかが全く分かっていないのか?それとも論点をはぐらかし続けているのか?

 

ジャニー喜多川というド変態の犯罪行為を長年見逃したり隠蔽し続けたのは誰か?

 

この国のマスコミや警察、政治家や官僚、法曹界までもが外圧がなければ、動かない、動けない、変わらない、変われない、自浄作用の働かない恥ずべき国というか民族であるということ。

 

周りに流されず、自ら考え、自ら判断し、行動を起こしたり、自己規範によって自らを律する君主道徳の対極にある奴隷道徳や畜群根性が染みついた国。

 

右に倣え、郷に入れば郷に従え、出る杭は打たれる。

 

これらを全面的に否定するつもりはないが、ある意味では奴隷道徳の典型でもある。

 

今度は企業やテレビ局が右に倣えで所属タレントをCMや番組から外すってか?w

 

群れをなす畜群、全体の流れのままに身を任し、群れの掟に盲従する奴隷。

 

この国の健全なジャーナリズムは既に死んでいる。

 

人間には独居的動物と群居的動物の両面がある。

 

言語と論理、理性と思考を有して生まれた人間の特権的能力を放棄し、自己保存本能と情動に流され屁理屈だけをこねくり回す質(たち)の悪い中途半端な畜群動物。

 

アホマスコミに右往左往する、どこぞの国の一部のアホ国民どころやない、国ぐるみ、民族ぐるみの奴隷根性にほんま呆れるわぃ

 

この民族に最も不足しているのはニーチェ的なエキス。

 

白取氏が書いてベストセラーになった甘ったるい『ニーチェの言葉』などという似非ニーチェではなく、畜群根性に冷水をぶっかける本物のニーチェ!

上から出てきた若いのは青い

 

 

下の方は老いゆく葉

 

緑から黄色がかってくる

 

 

青い黄緑から緑

 

緑から再び黄緑に

 

そして次世代のために枯れて散る

 

順送りで還元する

 

自生なら肥しになるのか

 

ようできてるわ

『男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である』と説かれる『理趣経』のルーツはウパニシャッドにあったのか!?

 

ウパニシャッドはバラモン教の経典群であり、釈尊はバラモン教徒として出家した。原始仏教の土台はバラモン教にあり、おそらく釈尊自身はバラモン教の新派(教団)という意識しかなかったように思う。

『理趣経』は年下である空海に弟子入りしてでも密教を修得したいという最澄が借用を願い出たが断られ、これ以降は二人の宗祖の交流が途絶えたという門外不出の経典。

 



「愛欲も人間も与えられたままに本然のままに清浄と見なし肯定する」という『理趣経』は、密教の修行によって体得した境涯(入我我入観)なしに読み込むだけでは大きな誤解を生み出す禁断の経典であるため貸出を断ったが、最澄にはそれが伝わらなかったというもの。

仏像ではガネーシャ(歓喜天)に象徴される。

 

 

【「外界のいかなるものをも感知せず、また内面のいかなるものをも感知しない」というこの一節では、真の、純粋の知よりなるアートマンのうちに個人の生活が解消しまうことが、性的な愛欲の陶酔にたとえられている。これはインド後代の思想家たちが好んで用いた象徴的表現であるが、それはまた苦行とともに結びついている。なんとなれば、性的陶酔と苦行とは、異常な心的状態をかもし出すための二つの異なった道に他ならないからである。性的陶酔の境地においては、人は忘我の状態には入る。(中村元選集第9巻 ウパニシャッドの思想 P.412)】

【『タイッティーリーヤ・ウパニシャッド』は最究極の本質を歓喜(ananda)と呼んだ。ここで〈歓喜〉という語は、しばしば、性的な歓喜、性的な恍惚状態を意味する。これこそ人間存在のもっとも内奥なるものであると考えたのである。だから、『タイッティーリーヤ・ウパニシャッド』はヤージニャヴァルキヤのアートマン論から、さらに進んで、認識そのものとしてのアートマンのさらに内奥に、衝動的な歓喜よりなるアートマンを立てたのである。人間の現実存在の奥にある基底的なものとして、セックスの衝動とかリビドーを認めようとする近代思想とも、思想類型の本質に関しては異なっていない。〔人間の認識作用の根底に衝動的なものを見出したという点では、西洋哲学の表現をもってするならば、実存主義的である。性的なものを人間の活動の奥に見出したという点では、フロイトを思わせる〕。(同書P.503)】

 



上記のウパニシャッドは釈尊誕生(定説ではBC.563)以前の遥か昔、BC.800年頃に成立した経典であることに驚かされる。

 

 

https://www3.nhk.or.jp/.../20230804/k10014153101000.html

 

BBCドキュメンタリーから火が付いたジャニーズ性被害問題に国連人権理事会が乗り出してきたことをメディアはこぞって報道しとるけど、上記ニュースにある『「日本のメディアは数十年にもわたりこの不祥事のもみ消しに加担したと伝えられている」と報道機関の責任にも言及したほか、「政府や被害者たちと関係した企業が対策を講じる気配がなかったことは、日本政府が主体となって透明な捜査を確保し、謝罪であれ金銭的な補償であれ被害者の実効的救済を確保する必要性を物語っている』と指摘されたことはほとんど取り上げられてないやん!

 

恥を知れ!バカマスゴミども!!

 

巨悪には迎合で、なんのリスクも伴わず井戸端会議好きのアホ視聴者受けする芸能人のスキャンダルや、便所の落書きのようなSNSで炎上している話題ばかりを取り上げる畜群根性に虫唾が走るわぃ!

 

ほんまに偽善がまかり通る畜群道徳がはびこった自浄作用のない国やわ。

ドアホ!!

 

 

世話になった叔母さんが4月に亡くなり、遅ればせながら昨日は徳島までお参りに出かけた。

 

 

お墓参りの時には般若心経をあげ終わった時にアゲハ蝶がやってきて草葉の陰にしばらくとまり、またヒラヒラと飛んでいった。

 

あまりスピリチュアル系は信じない方なんだけど、何故か確信をもって間髪入れずに「〇子叔母さんや!」って思わず口から出たのが我ながら不思議だった。

 

帰路、大鳴門橋を渡ったあたりで四柱の龍神雲に遭遇!

 

 

昨年の1月、姉の納骨の日に夙川グリーンプレイスで撮った龍神雲以来、雲をよく見るようになったから、たまたまそのように見えているだけかもしれないが。。。(笑)

 

 

 

 

 

〈私〉という事実から導き出される「この世界が多世界解釈ではありえない」という帰結(反論)。

これを主張しているのは私だけではなく、「意識の難問(物質および電気的・化学的反応の集合体である脳から、どのようにして主観的な意識体験というものが生まれるのか?)」を提起したデヴィット・チャーマーズも指摘していた。


***** 以下、D.チャーマーズ著『意識する心』からの引用 *****

すなわち、どうして重なり合った脳の状態と結びつく心だけが、優先基底に即したその分野に対応するのか。なぜ、他の分解から生じる心がないのか、あるいは、それこそ重なり合った状態から生じる心がないのか。これは、ああいう規範的な分解を要するらしいエヴェレット本人のバージョンに対しては、理に適った反論である。(P.427)

私自身という単一の感じがどうして、他のどこかでなくこのランダムに選ばれた分岐を伝播していくのか。私自身がたどっていくと私が感じるこの分岐を選び出すランダムな選択の根底には、どんな法則があるのか。なぜ私の私自身という感じは、分岐したときに他の道をたどってできた他の私がもつ感じには付随していないのか。(P.429)

つまり、この領域にはいくつかの心があって、たまたまその一つが私なのだ、というのである。(P.431)

私はなぜ他の誰でもなくこの人物ということになるのかという、指標性そのものの謎としっかり結びついた難しい問いである。(P.432)

********* 引用終わり *********


上記は〈私〉を理解していない人にとっては分かりにくい反論だと思う。

タイムマシンで過去に遡り、自分が過去の自分を客観視するというシーンがある。
有名なところでは「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のほぼラストにあたるワンシーン(若きブラウン博士の協力を得、落雷を電力源として過去から現在に戻ってきた主人公のマーティが、映画の冒頭シーンにあたる改造車デロリアンに乗り込むもう一人のマーティを目撃するというシチュエーション)

自分を客観視(客体視)している時点で、その対象は〈私〉ではなく他者の次元に成り下がっているということ。


つまり「実際にこの〈私〉の眼から世界を見ている」という事実がない「もう一人の私」が同一時空に存在していることになり、それは〈私〉ではありえないだろ、というパラドックス。

世界が分岐していたたら「実際にこの〈私〉の眼から多世界を見ている」ことになるが、実際に〈私〉は多世界を見ていないことから、多世界はありえないという主張。

ある意味において上記のD.チャーマーズによる反論は「意識の難問」と「意識の超難問(なぜ私は他の誰かでもなく、この私なのか?)」との接点ではある。