「私はキツネ」

 

 

上記の発言だけを読んだ時に意味が通じるだろうか?

何かの演劇のキツネ役の人の台詞?BABYMETALか?

それともキツネに憑依された人の発言?

そんな非日常的な発言として受け取ることも十分ありうる。

 

この台詞がうどん屋での発言、あるいはうどん屋への出前注文のための聞き取りに対する答えという文脈があれば、ごく日常的な会話として成立する。

 

20世紀を代表する哲学者ウィトゲンシュタインの後期哲学によれば、語の意味とは、言語内におけるその慣用であり、言語によって意味は明らかにされない。何故なら意味というのは言語外のさまざまなコンテクストに属するものだからであると「哲学探究」で主張する。

 

 

言葉の意味は前後の文脈はもちろん、シチュエーションやTPOによって異なるし、その民族の風習や文化などを背景に発展し、新たな意味が形成され、さらに日常的な言葉の使用や用途によって増えたり変わったりする。

 

これをウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」と呼んだ。

 

「言語道断」「無分別」「無学」「我慢」などの仏教用語は時代とともに用いられ方によって、原語とはまったくかけ離れた意味で使われるようになった。

 

「うがい」という習慣がない国には「うがい」という言葉はない。

同様に目に見える色をどこまで細かく分類するかも言語によって異なる。

 

英語圏では8つのカテゴリー(レッド、ブルー、グリーン、ピンク、パープル、オレンジ、イエロー、ブラウン)に分類されるが、パプアニューギニアのベリンモ族のカラースペースには5つの色しかない。

 

その色があるかないかも言語によるラベリングに依存する。

言語は習慣や文化のみならず、認識論や存在論にも深く関与する。

さらにウィトゲンシュタインは「哲学は、いかなるしかたにせよ、言語の慣用に抵触してはならない。それゆえ、哲学は、最終的には、言語の慣用を記述できるだけである。(哲学探究124)」とまで言い切る。

 

人の噂というのは聞きかじりの上に尾ひれはひれが付いていることもあり、取るに足りないというのはこの文脈無視の切り取りを元にしていることが多いからでもある。冒頭の発言を聞きかじった人から「あの人はキツネに憑依されているから近づかない方がよい」という流言飛語が飛び交うことだって十分ありうる。

 

「言葉の乱れ」なんて言っていること自体、言語の本質を考えたこともない人が自分が使ってきた言葉に固執しているだけと言えなくもない。

 

PS.「私はキツネ」はYahoo!掲示板でウィトゲンシュタインに関する読書会にて、哲友であるget953さんが用いた事例。