道元禅師は曹洞宗の宗祖であると同時に日本のみならず世界の哲学史上の優れた先達の一人でもあり、ハイデッガーの名著『存在と時間』を遡ること687年前に同じテーマである『有時(うじ:有は存在、時は時間)』を見性の切り口として取り上げている。

 

 

『正法眼蔵 全巻解読』で採用されている全90巻には、禅文化学院『現代訳 正法眼蔵』で抜粋している12巻の1つである「生死(しょうじ)」が含まれてない。

 

「生死」はめちゃめちゃ有名な巻で一般受けする内容でもあるが、省いた理由が「現在『正法眼蔵』と呼ばれているテキストは8種類あり、その1種類にしか記載がなく、内容がきわめて他力的で、たやすく仏となる道を推察する(P20)」ものであることなど、如何にも学者らしい分析に基づいたものである。先に読んだベストセラー「死は存在しない」と「生死」の内容や帰結が被るのがこれまた面白いし、「死は存在しない」を書籍にした田坂広志氏と「生死」を省いた木村清孝氏の正反対のスタンスが興味深い。

 

この手の書籍は今後も数百年以上読み継がれていくだろうし、おそらく私も死ぬまで読み続けるし読み返す度に新たな発見や刺激を与えてくれる。ニーチェやカント、他の歴史に名を残す哲学者も同じく後世の研究対象となる。『正法眼蔵』は黙照禅(曹洞宗)の教本(指針)であると同時に教外別伝の心印でもあり、学究対象のみならず言語を超えた勝義諦を間接的に指し示す論書でもある。

 

『正法眼蔵』は多くの先達の金言や公案、さまざまな比喩や行間、背理法を用いて言語道断(仏教用語:究極の真理は言葉で言い表せないこと)の勝義諦(悟りや見性の内実)を多角的かつ間接的に指し示した上で、見性への指針を説いている。このような難解な内容にならざるを得ないのは、悟りが「勝義諦」「言語道断」「教外別伝」「不立文字」「拈華微笑」と言われる所以である。

 

通底しているのは「実相はあるがまま(諸法実相)であり、且つ事事無礙(現象世界のすべてのものごとが相互に関連・融合しており自他も含めた境界がない)である」こと。

 

「佛智とは無分別智(通常の主客対立にとらわれた見方を超えた智慧)である」こと、「見性体験の主体は個ではなく時空(時間的且つ空間的な全体性)である」こと、只管打坐(雑念をいっさい捨て去って、ただひたすら坐禅を組み、修行すること)や修証一等(修行と悟りは一体)であるから「何かの目的(例えば悟りを体得するとか仏になるとかも含め)をもって坐ってはならない」ということも強調する。

 

目的を持つということは我を残したまま坐ることであり、正法眼蔵の冒頭にある現成公案で説かれた「仏道をならうというは、自己をならうなり。 自己をならうというは、自己をわするるなり。 自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。 万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」に反するからである。

 

少なくとも道元禅師が本物の覚者であることぐらいは分かるし、覚者の言葉には説得力があるし、見性とともに体得するであろう仏智と接することができる。

 

『正法眼蔵』は600年以上も宗門内に封印されていたらしい。一生かけても完全な読解などできないとは思うが道元禅師が指し示してくれた教外別伝の心印にどっぷりと浸ってみる。