国家観をまず真っ先に示せっちゅ~ねん!

自虐史から脱却、微笑み外交という名の奴隷外交払拭

毅然たる精神的君主国家の樹立ぐらい言うてよね、無理か。。。w

ほんま、近視眼、安物のポピュリズム、マスゴミへの迎合、自己愛丸出し

国家観がないヤツは立候補するなっちゅ~ねん

何がしたいねん

総理大臣が目的になっとるやないかいさ

えっさっさ、ほいさっさ

@((・ェ・))@ ウキッー

「中国語の部屋」とは哲学者のジョン・サールが考案した知能の有無に関しての思考実験。

 

中国語が理解できない人を部屋に閉じ込めて外部から小穴を通じて提供される中国語のメモを、無数にある返答マニュアルから探し出し、そこに書かれてある通りのメモを渡し返すというもの。

 

中国語を理解できなくとも漢字を記号として認識し、これと同記号を探し出し、そこに書かれてある返答の記号を返すという作業を繰り返す。これを瞬時でできる人がいるとすれば部屋の中の人は中国語を話せる(理解している)人だと判定されるという思考実験。

 

これはアラン・チューリングが考案したチューリング・テストに関して否定的な見解を示した思考実験として知られる。

 

チューリング・テストとはある機械が「人間的であるか(知的であるかどうか)」を判定するために考えられたテストであり、それぞれ別部屋にいる人間と機械(あるいは人間と人間)がキーボードを通じて会話することによって判定する人間が人と機械の区別ができない場合は機械が知的であると判定できるというもの。

 

『なぜ私は私であるのか: 神経科学が解き明かした意識の謎』の著者アニル・セス(神経科学者)は「どれだけ知性を獲得しても、AIは意識をもたない」と主張する。

 

ジョン・サールが40年以上前に提起した論旨と同じであり、現代版の中国語の部屋。

 

知能も含めた意識や自我、人間の本質に関しては、神経科学者やAIエンジニアよりも哲学者(東洋哲学)の方がはるか先をいっており造詣が深い。

 

中国語の部屋やチューリング・テストを持ち出さなくても「意識の超難問」から導き出される言語化(数式を含めた記述化)不能で、再現性がなく、自然の斉一性等々、科学の定義の網目をすり抜ける唯一無二の〈私〉を知る者からすればアルゴリズム上のAIに人間的な知能や意識、自我が芽生えないことぐらいは確信できる。

 

〈私〉を横に置いたとしても、身体性や生死がないAIにクオリアや自我が芽生えるはずがない。

 

そもそも「人工知能」というネーミングが使い勝手がよく便利ではあるが、その反面誤解をまねく。「人工的」なものを「知能」と呼ぶのはあまりに軽率である。

 

 

8月25日TBS “ サンデーモーニング ”

 

司会者変わっても論調は変わらず

自民の総裁選で求められるリーダー像を雄のマウンテンゴリラのシルバーバックをなぞり背中で示すなどというトンデモコーナーをつくり、それに乗ったコメントをするアホコメンテーターの面々

綺麗ごとの理想論を述べるだけで全く具体的な主張はなし

番組をつくる側もこれに合わせたコメントする面々も自己陶酔の極み

自称、“平和主義者”とか“サヨ”の偽善丸出しによくみられる光景

政治もアホならマスゴミもアホ

これを支えるアホ国民

 

どうしようもないな

まぁ不快なら番組見なければいいだけの話やねんけどねw

大衆に迎合する、まるでクソにたかるハエのような政治家ではなく、大衆が迎合するような政治家

 

そんな人間でないかぎり、この平和ボケした日本は救えない

 

精神的貴族が主導する政治

 

ニーチェは138年前に民主主義の病理と社会主義の喜劇性を看破している

 

『ある別種の信仰をいだいているわれわれ──このわれわれにとっては、民主主義の運動は、たんに政治的機構の一つの頽落形態と思われるだけでなく、人間そのものの頽落形態、すなわち人間そのものの卑小化の形態、人間の凡庸化と価値低落の現象と思われる。ことここにいたっては、われわれはどこにわれわれの希望をつなぐべきであるか?──いうまでもなく新しい哲学者へだ。ここに選択の余地はない。敢然として反対の価値評価へと踏みきり、例の〈永遠の価値〉なるものの価値を転換するだけの十分な力強さと独創性をそなえた精神の持ち主に、希望をつなぐのだ。(善悪の彼岸 第203番)』

 

『私がしりぞけるのは、1)社会主義、というのは、これは、「善、真、美」や「平等」をまったく素樸に夢みているからである(──アナキズムもまたこれと同じ理想を欲しているが、その方法がいっそう残忍であるにすぎない)。2)議会主義と新聞事業、というのは、これは群居動物を支配者たらしめる手段であるからである。(力への意志 第753番)』
 

戒名のルーツは上座部仏教で悟った人、つまり阿羅漢(上座部仏教での最高の悟りを得た人という意)に与えられた法名である。

 

仏教の土台となったバラモン教の時代には生産に直接従事しない司祭や王族や武士階級の人口が増えてしまい、生産者を確保する目的から、ブラーフマナ(司祭)、クシャトリヤ(王族・武士)、ヴァイシャ(農・牧・商に従事する庶民)、シュードラ(先住民を主体とする奴隷)からなる四階級のヴァルナ(種姓)制度が成立した。 

 

一説によれば紀元前1500年頃、コーカサス地方から東進し、西北インドに侵攻したアーリア人の身分を子孫の代まで確固たるものにするため、カースト制度の土台となり、正当性の根拠ともなりえる輪廻転生説が唱えられたとも言われている。

 

バラモン教では人生を四つの時期に分け、75歳からは最後の遊行期に入り、家や身分を捨て乞食(こつじき:托鉢して食を乞い受ける行)しながらこの世に対する執着を捨て死ぬ準備をする時期となる。

 

 

これが出家の起源であり、釈尊が生きた時代には世俗での地位や立場を捨て、剃髪して法衣を着すればみな等しく沙門釈子(この出家者は釈迦の子どもという意)と呼ばれていた。

 

「生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。(原始仏典『スッタニパータ』より)」

 

上記の釈尊の教説からして仏教の根底には平等思想があり、釈尊自身が遊行期の遥か以前に王子の身分を捨て出家したこともあり、カースト制度上の生れによる社会的身分の差を認めていない(ジャイナ教徒や一部のヴェーダーンタ学派も人間の平等を唱え、カースト制度による身分倫理を否定した)。

 

法名をルーツとした戒名は中国に伝わった後、受戒儀礼を受けて与える名として定着した。

 

檀家制度が成立した日本では、仏式で葬儀を執り行う際に仏弟子になるという建前でもって寺の僧侶に戒名をつけてもらうのが慣例となっており、今では戒名に位を付けて高い身分ほど高値で売っている。

 

これはもはや仏道ではなく外道(六師外道:仏教以外の教えという意)だろう。

こういう悪習を真正面から否定したり、批判する真っ当な坊主はこの国にはいないのか?

 

「アナヴァタプタという泉からガンガー・シンドゥ・ヴァクシュ・シーターの四つの大河が海へと流れ出している。それらは海に流れ込むと、もとの名はなくなり、ただ海と呼ばれる。同様に、クシャトリヤ・バラモン・ヴァイシャ・シュードラの四つの身分があるが、釈尊のもとで出家し、教えを学ぶ者となれば、元の身分がなくなり、釈尊の弟子というだけになる。なぜなら、私(釈尊)と教え(法)によって生れた者だからである。(原始仏典『増一阿含経』より)」

 

少なくとも私は実社会では本名で生きて本名で死ぬ。

ロダンの「考える人」って自身が悩める人ではなくて、地獄門の上に座り、頬杖をしながら地獄に堕ちた人々を見つめているという説もあったらしい。

 

                

 

ある哲学サイトで知り合った求道者(原始仏典を全て精読している在家の仏教徒)から教えてもらった。

 

最近のニュースやそれを報道するマスゴミ(巨大ゴミ)も、そのゴミにたかってブンブン言ってるXをはじめとしたSNSを見るにつけ、ロダンの考える人を思い浮かべてしまったらしい。。。

 

ニュースもそれを報道するマスゴミ(巨大ゴミ)も、そのゴミにたかってブンブン言ってる状況のなんと浅ましいことか。

それを上から眺める「考える人」

 

哀れと考えているのか、人間とは浅ましいものだなぁ~と嘆いているのか、その有様はどうしたものかと思案しているか。。。etc

 

そういう市場のハエ(※ニーチェ用語)どもと一線を画す存在でいたいものだとつくづく思った。

 

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※市場のハエ

俗世間(市場)にいる最も一般的な民衆のことであり、賤民的かつ近代的、卑小にして憐れむべき者たち。高等な人間たちにたかり、その血を欲するため煩わしいだけの存在である。彼らは高等な人間たちを神仏に追従するかの如く賞賛したり、その臆病さのために愛嬌を羽音の唸りの如くふりまく。やがて彼らは、高等な人間たちの前で己の卑小さを感じ、軽蔑されているかのように考えるにいたる。挙句の果てに、彼らの有する低劣さから軽蔑に対抗するため、復讐という名の毒を撒き散らすのだ。一匹づつハエどもを叩き潰すには、あまりにもその数が多過ぎる。高等な人間たちにすり寄る隣人は毒バエであり、ツァラトゥストラは孤独の中に逃れることを説く。高等な人間たちはハエ叩きとなる運命にない。孤独という荒々しい強風のもとでは卑小なるハエはすり寄ることさえできない。そのような場所へ一時退避することを勧める。

民主主義が我田引水や近視眼的な(近しいものや直近のことを重要視する視点)大衆を取り込むことによって政権維持が可能となり、そういう欲望や煩悩を満たすための政策が主となるような社会であるとするなら、政治家は地位や名誉や金を得る、言い換えれば同じく自身の欲望や煩悩を満たす職業として成立し、同様に欲望や煩悩に塗れた支持者との相性もいいだろう。

本来、政治や政策は現在の弱者や、子や孫の将来のためにあるべきではないのか?
これらの政策は我田引水や近視眼的な大衆からは支持を得られず、受けも悪い。

一方で無私無欲なボランティア活動をする人たちもいるし、他者を敬い且つ利他的な国民性もある。
一体、どちらがマジョリテイーなのか?それとも一個人の内にも混在しているのだろうか?

民主主義の明暗、どちらが勝るかは支持者の嗜好を象徴している。
投票率からしてサイレントマジョリティーの民意が反映されていない現実はあるように思う。

 

独裁国家や専制政治の危険性やデメリットは多いが、ニーチェが提唱したような精神的貴族による君主政治が実現する日は永遠にこないような気はする。

週刊誌にリークしたら、情報提供料としていくらもらえるんやろ?

第二次大戦の戦勝国が常任理事国になってる国連の機能不全が甚だしい。

しかも今まさに戦争当事国でもあるロシアや国境問題を抱え挑発的な領海侵犯の常連でもある中国、ガザや東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区でやりたい放題のイスラエルを支える米国、中東紛争の一因となった第一次大戦時の三枚舌外交の当事者である英国等々が拒否権を持ち、これらの国が任期もない常連理事国として巨大な権力を有することから何の歯止めもきかない安全保障理事会など屁の役にも立たない。

しかもろくな調査も何もせずに以下のような偽善丸出しの宣言も行ってる。
https://www.hurights.or.jp/archives/newsinbrief-ja/section3/2014/08/86.html

日本はIWCから脱退したように国連からも脱退して、新しい国際組織を作ればどや?と言いたいところだが、これは悲しいかな現実的ではないので、国として抗議をした上でせめて第三位?の国連分担金を大幅削減すりゃどやねん。

アインシュタインをして「量子との格闘に比べれば、相対性理論なんて息抜きみたいなものですよ(同書P.108)」と言わしめた難解な量子力学。

 

 

運動によって時間が遅れ、空間が伸び縮みする相対性理論どころではない、とんでもないパラダイムを人類にもたらした。

この衝撃波は現在も続いており、物理におさまらず科学哲学はもちろん、哲学の主要テーマである存在論や認識論も巻き込んで今も揺れ動いている。

 

人類史上、科学や哲学に最大のパラダイムが訪れた黄金時代。

綺羅星の如く登場した天才物理学者、ボルン(確率解釈)、パウリ(パウリの排他律)、ド・ブロイ(物質波)、ベル(ベルの不等式)、ボーア(相補性原理&非局所的長距離相関)、アインシュタイン(光量子仮説)、ハイゼンベルク(行列力学&不確定性原理)、シュレンディンガー(シュレンディンガー波動方程式)、プランク(プランク定数)、ディラック(ディラックの海)、ボーム(ホログラフィック・パラダイム)等が交流し、時と場所を忘れて議論を重ねながら、未だ経験したことのない現象の解明と理論化(記述化)に奔走したドキュメントのような書籍。

 

ボーア、アインシュタイン、ゾンマーフェルトが市電で議論に夢中になり2度も降りるべき駅を乗り過ごしたり、発熱しているシュレディンガーがボーアの自宅でボーアの妻に看病されながらハイゼンベルクも交えて3日間ぶっ続けで議論するくだりなどは、まるで映画のワンシーンのように面白いし、天才科学者としての情熱と真摯な姿勢が伝わってくる。

これほど多くの天才が同時代に切磋琢磨した歴史は人類史上ないだろう。

 

ただ用語や現象の説明が省略されているため「EPRパラドックス」「ベルの不等式」「相補性」「対応原理」「量子飛躍」「パウリの排他律」「不確定性原理」「ラプラスの悪魔」等々は他の書籍かネット検索で大まかにでも把握しておく必要はある。