中道ってもともとは仏教用語やで。どこか中道やねん、って話。
中道とか改革とか耳障りのええ言葉をラベリングするのは美辞麗句(仏教で言うところの十悪のひとつである綺語)ばかり並べる二党に共通するわな。
国民を馬鹿にするのも大概にしいや。
まぁ公明党の支持母体である創価学会が日蓮本仏論の富士門流やから、仏教の根本教義のひとつでもある中道から離れてても自覚できんわな。
池田大作の中道人間主義から取ったみたいやけど、そんなものは仏教の根本教義である中道とは似ても似つかないことは追記しておく。不二の法門から取った師弟不二と同じでもともとの意味と全然ちゃうで。
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ソーナよ。 汝はどう思うか? もし何時の琴の弦が張りすぎていたならば、そのとき琴は音声こころよく、妙なるひびきをはっするであろうか?
尊い方よ。そうではありません。
汝はどう思うか? もしも汝の琴の弦が緩やかすぎたならば、そのとき琴は音声こころよく、妙なるひびきを発するであろうか?
そうではありません。
汝はどう思うか? もしも汝の琴の弦が張りすぎてもいないし、緩やかすぎてもいないで、平等な(正しい)度合いを保っているならば、そのとき琴は音声にこころよく、妙なるひびきを発するであろうか?
さようでございます。
それと同様に、あまりに緊張して努力しすぎるならば、こころが昂ぶることになり、また努力しないであまりにもだらけているならば怠惰となる。 それ故に汝は平等な(釣り合いのとれた)努力をせよ。 諸の器官の平等なありさまに達せよ。
原始仏典「パーリ律蔵 大品(マハーヴァッガ)」よりの引用
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中村元博士の見解によれば「箜篌(vina:くご)の喩」は後に創作されたエピソードとされているが、意味内容からすれば最も「中道」の原点に近い比喩であると思われる。
喩をもって釈尊から説法されているソーナとは、ソーナ・コーリヴィサ。
チャンパーの長者の子であり、アンガ王の領土における身分の高い侍従であったが、後に出家して仏弟子となった。
苦行の極限にあった釈尊は不健康な体では大悟に至らないことに気づき、苦行に見切りをつける。
スジャータから布施された乳粥で健康な体をとりもどし、肉体を否定するかのような苦行や肉体の欲するままに快楽を貪る生活、断見と常見、有と無など、両辺(両極)に偏った思考や修行では煩悩が滅するどころか増大しかねず、大悟に至らないことを知った上で、菩提樹の下へと向かい7日間の瞑想の末に成道する。
子育ても過保護でも放任し過ぎても子どもにとってはプラスにならない。身体の免疫機能も本来は外敵に対する抵抗力で自己を守るためだが過敏になり過ぎると本来は攻撃しなくてもよい自己まで害してしまう。自己反省もこれに同じで適度なものであれば自己成長の糧となるがこれが過ぎると自己を委縮させたり自己嫌悪に陥ることがある。
どちら側にも偏り過ぎず中ごろの道がよいという教えである。
如来の目が薄目(半眼)であるのは中道を表しており、目に見えるものだけや、目に見えないものだけに固執してはならないということを象徴していると言われいる。
仏教の中道は現代においても、日常生活や自省、さまざまな岐路や決断に際して指針となる叡智である。