🖼️ 画題は「真先辺より水神の森内川関屋の里を見る図」

本シリーズ中でも最も長い名前になっております。

隅田川上流(東京スカイツリーから2キロ北)の西岸•真崎神社辺りから対岸に

筑波山•内川(木母寺へ至る水路)水神の森•右端に水神社の鳥居⛩️が見えます。

 

広重の写生位置は真先稲荷明神社(現在の石浜神社)辺りです。

真先はまっさきと発音するそうで、この稲荷に詣でるとまっさきに

家運の隆盛を祈ることが出来るというわけで、江戸の稲荷の中でも

有名だったそうです。絵の百年も前から、真先稲荷と境内には

田楽茶屋が流行っていた。

 

絵は初春、ヘンリー•スミスは時刻を“宵闇せまる頃”とし、つまり

「この地で小休止をとって、西の吉原へ向かうのだろう」と解説している。

 

現在の隅田川上流西岸より北東を見て

📷稲荷神社は現在石浜神社内に祀ってあるという。その石浜神社を

背に対岸を撮影した。隅田川東岸の上を高速道路が通行している。

風情もなにも感じられなかった。

3月31日最後の写真•左端の水神大橋は創架1989年(平成元年)3月です。

 

👆写真はアプリ「Googleフォト」東向島を🔍して、地図を左側に浮かび上がらせたものです。3月31日、21枚の写真を撮り、その撮影場所が地図上のドット⚫︎です。東白髭公園辺りの紫のドットも以前撮影した時の位置を示しています。ドットを押すとその時の写真が表れます。上の写真は今昔比較のメインの写真ですが、これは31日の最後に撮ったことが分かっていただけるでしょうか。

 

一昨日(3月31日)は東向島駅からスタートし「濹東綺譚」の舞台「玉の井」

今を見て歩き最後に上の写真を撮ったわけです。

 

東部スカイツリーライン東向島駅

遠慮がちに(旧玉の井)とあります

 

東向島駅の壁に掛かった地図に赤線で墨田(3)と東向島(五)と東向島(六)を

書き加えました。この三つが概ね「玉の井」だったそうです。

 

上の小さい地図の“いろは通り”辺りの風景です。以後はほぼ時計廻り順です

 

交番

 

いろは通り

 

路地の先がまた路地…嘗ては溝(ドブ)だったのでしょう。

 

写真を撮って振り向いたら七十がらみの男に凄い形相で睨まれた…

追っかけてきているようだった…必死で5〜60メートル路地から

路地を逃げた🏃🏃

 

この辺りが東向島五丁目十三辺りです

 

 

 

この辺りが「お雪」の家だった?…名刺に「寺島町七丁目六十一番地 安藤まさ方雪子」と。

現在の住所でいえば墨田区東向島五丁目十三番地付近と言われています。

 

町会には「玉の井」の名前が残っているようです。

 

水戸街道の南側に寺島浴場

江戸末期の地図を見ると駅の地図の全体がほぼ寺島村になっています。

関東大震災後の復興事業で放射十三号線と環状五号線(現•明治通り)が通る

ようになり街が変容した

 

水戸街道沿いに存在感のある写真館

この道路は放射十三号線で改正道路とも広小路とも呼んだそうです。

 

いつ頃建てらたものでしょう‼️ 東向島駅近くの「玉の井荘」

現在の表札は金属会社の名前になっていました。

 

ほぼ東武線の下から東向島駅の方をみています。

この右手辺りに「お雪」がいたという説もあります。

 

この辺りに「伏見稲荷」があった?

 

大正通り…東側は通称“いろは通り”

 

白髭橋手前で…新旧交代の現場

 

東向島から歩いて渡った白髭橋は創架1914年(大正3年)5月。

右端は石浜神社の東側にある東京ガスエネルギーガスタンク

 

ここから東京スカイツリーまでは真南に2キロです。

 

濹東綺譚」は玉の井(現•墨田区向島)の私娼窟を舞台として書かれた作品。私娼をいとなむ「お雪」と小説家である「わたくし」の交情を美しい文章で綴ったこの中編小説は、荷風の最高傑作と言われている。

 

玉の井私娼街は1916年頃発生し、東武線玉ノ井開業、道路完成、円タク登場などで

大いに賑わい最盛期(1930年代)には1000人近くの私娼がいた(吉原の公娼は2500人)と言われています。荷風は1936年3月から通い始めた。

 

そして1937年4月より「東京朝日新聞」にて「濹東綺譚」は連載開始された。その玉の井も1945年3月の東京大空襲により焼失。焼失まで約三十年の歴史であった。

 

 

お付き合いありがとうございました🙇‍♂️