昔: 南品川鮫洲海岸
改印: 安政4年(1857) 2月
🖼️広重ブルーが絵の三分の二を占めている。緑の部分は“篊(ひび)“と称って、これに付着した海苔を採集した。絵はおそらく今の鮫洲海岸から奥に品川を見たものであろう。尤も、広重得意の俯瞰図…今なら海の上空からドローンで撮ったような…である。絵は自由とも言えるが、風景画として実写が及ばない所や風情までを描き込んで…しかしそう思わせない点は流石であるし、絵の面白さだと思う。
今: 勝島運河
撮影: 令和年(2023)11月
約1キロ南の勝島運河を今昔比較のメイン•ポイントと決めた。
運河と釣り船向こうに品川…廻りは倉庫やら住居やらコンクリートだらけの
よくある風景でした。
撮影時間が前後しますが、
上の写真はこの日の最後に撮ったものです。
👇下(南)から上(北)に向かって旧東海道を歩きました
途中撮りたいポイントもあったので
大森海岸駅をスタート地点として
旧東海道を北上することにしたのでした。
旧東海道を450メートルも歩くと〈鈴ヶ森刑場遺跡〉
火炙台…右側
八百屋お七を初め火炙の処刑者は皆この石上で生きたまま焼き殺された
真中の穴に鉄柱を立て足下に薪をつみ縛りつけて処刑されたのである。
磔台…左側
丸橋忠弥を初め罪人がこの台で処刑された 真中の穴に丈余の角柱がたてられ
その上部に縛りつけて刺殺したのである。
さらに600メートル旧東海道を北上して
振り返って撮った写真……真ん中の緑は橋です。
橋の欄干に黄色の説明板が映っていますが、浜川橋別名•泪橋(なみだばし)です。
泪橋の由来
お仕置場(鈴ヶ森刑場)で処刑される罪人は、裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されてきました。この時、親族らがひそかに見送りにきて、この橋で共に涙を流しながら別れたということから、「泪橋」とよばれるようになりました。
メイン目的地に到着…立会川駅近くの勝島運河(最初の写真と同じ所です)
もう少し北上すれば海が見られたかもしれない。
ただし壁が高い場合…海を見られる保証はない…ここで妥協。
隣の公園には〈濱川砲台〉
地図でお示ししたように、この近くに
土佐藩の鮫洲抱屋敷がありました。黒船来航に際し土佐藩が
幕府の許可を得て築いたものということです。
駅近くに〈立会川の二十歳の坂本龍馬像〉
一言メモ
「建長3年(1251)サメの腹から聖観音の像が出てきた。「幕府に申上 、伽藍一宇を建てて安置せよと命じられた」これが鮫洲という地名の由来であると。但し、時頼寄進の史料はない由、伝承の一典型とみる向きもある。「浅草のり」の浅草生産は江戸初期のこと、安政年間すでに鮫洲が主生産地で、加工と販売は浅草だったといわれている。
川柳に 品川を浅草で売る海苔の庭
上の説明で八百屋お七がここで処刑されたと書かれていますが、研究家によっては
小塚原で処刑されたとあり、どっちが正しいのか私自身の宿題にしました。
お付き合いありがとうございました🙇