先日、

広重が描いた向島の「秋葉神社」に行ってきました。

降車駅は、「押上駅」と決めウオーキング・スタート🚶

 

時計廻りと反対の黄色線が順路です。

最近、知ったことです。『「Googleフォット」では、例えば上の写真の範囲内に薄紫色の斑点みたいなものが31個あって、それは2018年11月〜2023年10月までに撮影したことを示し、それをタップすると写真に変換される』iPadを携帯して写真撮りした場合は、履歴が分かって面白い。

 

独身寮

当時、押上2丁目には会社の独身寮があって

昭和47年、上京したその日のから寝泊まり…2年半お世話になった。

朝食は寮の“おばさん”が作ってくれ、夕食は会社から

支給された食券(たぶん400円位)を使って、

寮の近くのラーメン屋さんで食べる、というふうだった。

 

☟寮は白と黒の建物の半分位の大きさで、裏の京成はいつの日か高架になった。

 

平成の中頃、会社は寮を売却したので他人のモノになっていたが、

リタイアしてからも懐かしく数回はこの地に行った。

既に、京成線は高架に変わり、そのラーメン屋さんも廃業されていた。

今回、シャッターの上の店看板はそのままで微かに文字が

読めそうだったので

写真に納めようとしたとき、店の脇からかっての若奥さんらしき人が、、😳。

 

寮を出てからも昭和の終わり頃までは

このお店で忘年会やら歓送迎会とかで何度もお世話になった。

が、、…どう考えても40年は会っていない。

 

憶えていてくれて嬉しかった。5〜6分昔話をした。

「また、、来て」と言われたが、電話番号を聞くこともなく、、👋。

今、ちょっと後悔している。🫤

 

 

昔: 請地秋葉の境内

               改印: 安政4年(1857) 8月  

説明板に拠れば、由緒は正応2年(1289)創設の千代世稲荷に始まり、ここに遠州の秋葉権現を勧請し元禄15年(1702)に社殿を造営したという。又、鎮火の霊験(火除けの神)、産業の縁結び神徳により諸大名はじめ士庶人の信仰をうけ…とある。

 

広大な庭園は紅葉の名所として、庶民に人気の高い行楽地だった。池は五千坪に及んだといわれ、その風景を描いている人物こそ広重本人と考えられている。

 

下の石燈籠は、松平甲斐守吉里の室、源頼子が寛保元年(1741)奉献したもので、吉里は将軍綱吉の寵臣柳沢吉保の子という。7基の石燈籠のうち、6基が区の登録文化財に指定されている。

 

今: 稠密住宅街に佇む秋葉神社

 

☟ 水戸街道から…鳥居が見える

 

☟廻りを見渡しても高いビルは殆どなく、屋根の低い住宅街が広がっていた。

 

森鴎外旧居跡

ここは初めて訪れた。

鷗外自身ここに住んだのは、おそらく1〜2年で、それより父親の(千住へ移る前の)旧居というべき、とは思うが。

 

墨田区立墨田中学校のHPの説明がリアルで気が利いている。

 ☟

『この向島の家のことを森家では「曳舟通りの家」と呼び、千住に転居する明治十二年まで暮らしました』

さらに、小金井喜美子の本から引いて旧居を説明している。

『明治初期の向島について、森鴎外の妹にあたる小金井喜美子の作品を読むとよく分かる。
「初めに住みつるは、向島なる牛の御前を真直ぐに行き、秋葉の社の方へ曲がる道のべにて、旧藩主亀井氏の広き邸宅に近き家を択び給ひしが、程なく父君の好みに由りて、小梅村の奥まりて隠宅めきたるに移りぬ。三百坪の地に茅葺の五間ばかりの家、茶がかりしやうの普請なり。」小金井喜美子著『不忘記』より(『森鴎外の系族』岩波文庫)』

 

 

☟ 森鴎外住居跡

 

☟ 約1時間半後、押上駅に戻った(歩数5300)。

東京スカイツリーができた平成24年(2012)から

その駅名は、東武鉄道も京成電鉄も都営地下鉄も東京メトロも

「押上」と「スカイツリー前」を併記する約束になっているらしい。

 

 

見てくださりありがとうございました🙇