▼2018年4月 広重 名所江戸百景展 太田記念美術館
2018年…あれからもう5年経ちましたが、2018年は広重(1797〜1858)の没後160年ということで各地の美術館で記念展が行われた。広重晩年の作品「名所江戸百景」にも出会い、これが契機となって百景(実際は119景)の写生場所を実際に歩いて今昔比較することを本格的に始めたのでした。
その頃、私が記憶している安藤広重という名前が…歌川広重と表記されていて「おかしいな、なんでだろ」と、違和感がありました。が、Wikipanionでそのワケが分かり「そーゆーことか」と、納得していた。
つまり広重は江戸の常火消し•安藤家に生まれが、15歳のとき、絵心が勝り浮世絵師の歌川豊広に入門。翌年師と自分(安藤重右衛門)から一文字ずつとって歌川広重という名を与えられた。…かっては「安藤広重」と呼ばれていたが、広重自身、絵師として「安藤広重」と名乗ったことは一度もなく、姓とペンネームがごっちゃになっているのはおかしいということで歌川派の絵師として「歌川広重」と呼ぶように統一されたというのです。言うならば、富山から出てきた竹内照雄•青年が〈立川談志〉に弟子入りしたのに〈竹内志の輔〉と呼ぶのは変だというのと同じことだというわけです。
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一昨年の2月、確かGoogle(?)に、『安藤広重はいつから歌川広重になったのかという話』というコラムが載っていた。渋谷区の浮世絵専門美術館『太田記念美術館』の日野原健司さんが書かれたものです。そこは研究者ですね。いつから歌川になったのか?図書館に行ったことから話が始まります。
以下は、日野原氏の文章の〈大雑把な要約〉と〈コピペ〉です。
要約
①先ず、いつ頃から安藤から歌川になったのか? 東京都江東区にある教科書図書館に行って昭和20年以降の高校の歴史の教科書を調査した。
②日本史の教科書の発行者別占有率が最も高い、山川出版社の高校の日本史教科書を中心に調査した
③ しばらくの間は「安藤広重」だったのに、大きな変化があらわれたのは、昭和55年(1980)の『要説日本史 再訂版』。ここで、「安藤(歌川)広重」と、括弧して歌川の名前が追加されたというのです。この頃から山川出版社以外の日本史教科書も広重の表記の仕方が変わってきたそうです。
以下、『』内は日野原氏の文章のコピペです。
『……これまでの話をまとめますと、山川出版社の高校の日本史教科書における広重の表記は、
・昭和26年~昭和52年(1951~77) 安藤広重
・昭和55年~昭和56年(1980~81) 安藤(歌川)広重
・昭和57年~平成4年(1982~92) 歌川(安藤)広重
・平成6年~(1994~) 歌川広重
となります。
皆さんは、どの時代の教科書を使っていたでしょうか?自分が昔、広重をどのように呼んでいたのか、思い出してみてください。……』文•日野原健司(太田記念美術館主席学芸員)
高校生って何歳? ハタチって…そんなわけないけど、生まれた年に単純に20を足しても私は完璧に…はい、安藤広重になります。
最後まで読んでくださった方、ありがとうございます🙇
以上
今回は2021年6月の記事を若干手直しして再投稿させていただきました。