昔: 本郷台地より駿河台を俯瞰

改印: 安政4年(1857) 閏5月

🖼️大胆な構図に驚きます。鯉の鱗には“雲母摺(きらずり)“を使い、輝くばかりの鯉に仕上げている。鯉の向こう屋根の見える一帯は駿河台(三崎町から九段へ繋がる武家屋敷密度が最も高いところ)です。奥には、富士、右下には神田川水道橋などが描かれている。

 

江戸の昔、橋の120m下流に懸樋が通っていて、神田・日本橋地域へ飲み水を供給していた(神田上水)。この水の通る道の近くに架けた橋だから水道橋と名前がついたと云われています。

 

この水道用の水は、関口の洗堰で二流に分かれて、一流は、目白台→水戸邸の庭を通して→懸樋で神田川を渡り→地中に埋めた石樋や木樋を通って→江戸城内、神田、日本橋の町屋へと給水された。二流は、神田上水の放水路として、本郷台地を東西に掘り割った“お茶の水の谷”に流れた(つまり、絵の中の川)。

 

今: 神田川東岸から水道橋駅界隈を望む

撮影:令和8年(2026)5月

 

江戸名所図会〜御茶の水 水道橋 神田上水懸樋

長谷川雪旦(はせがわせったん)画 天保5年(1834)~天保7年(1836)

 

江戸っ子の自慢だった水道水は、神田川の上を通って運ばれていた。橋桁の間から見える遠景の橋が水道橋です。懸碑が設けられた崖は下流側なのに、標高が高くなっているのが面白い。

 

昔、懸碑が通っていたところに、今は碑があります。

神田上水は明治34年(1901)まで、江戸•東京市民に飲み水を供給し続け、日本最古の都市水道として、大きな役割を果たした。

 

ここ(石碑)から徒歩10分の所の「東京都水道歴史館」(東京都文京区本2-7-1)に入館。

 

武士や町人は、自宅近くまで地下の「木樋(もくひ)」で引かれた水を、共同の「水溜(みずため)」から汲み取って利用していた。

 

神田上水と玉川上水の「二大上水」を合わせると、江戸の市街地の約60%〜70%のエリアをカバーしており、そのうち神田上水は全体の約20%〜25%程度(給水エリアの面積比および人口比からの推測)を支えていたという。

 

👆九尺二間(くしゃくにけん): 江戸時代の庶民が暮らした裏長屋の典型的な住まい(間口9尺、奥行き2間)。

 

 

 

お立ち寄りありがとうございました🙇‍♂️