ヤングケアラー
の意味するところをwikiとかで見ていくと
18歳以下の若い世代の子達が
家族のお世話や介護などを一手に引き受けてる
そんな事象を指す言葉のようでして
(細かい定義は知らんけど)
まだまだ若くて
人生これから無限に広がる可能性を手にしてる
そんな子達が
それらの可能性を拾うことなく
家庭内の世話の犠牲になってしまう
のを問題視されてワード化された…のかな。
(ニュアンスで捉えて見た)
そして
その特徴として
ケアラー本人たちは
自分がこの事象に当てはまるとゆー
自覚がないそうな!!!
つまり
家族のお世話をしてあげてる自覚がない
(やりたくて自らの意思で進んでやってるケースもある)
ましてや、人生の無限の可能性を犠牲にしている
なんて微塵も思ってない
(お世話したくてしてる)
という特徴らしくて
()内の解釈はまさに私自身がそうだったなぁ
と今になって冷静に捉えてます。
そう、私はヤングケアラーであったかも知れないけど
与えられた人生の選択肢である私の育った家庭において
最大限自分の利益追求のために
家族のお世話をする事を、犠牲だとは思って無かったんだよね
それは、私に限らず人間誰しもが、自分が育つ家庭は選択出来ないわけで
だったらその環境下で利益を最大化させるにはどうしたらいいか
そう考えた結果、戦略的に私はケアラーの道を選び
〈例えば「非行に走る(その結果自分の不遇を人に訴える)」とか他の自己表現の道があったかも知れないけど、その道を進むのは戦略的に効果が薄いと判断し〉
そしていざケアラーの道を歩き始めるとそれはそれで割と納得感もあるものでして
(自ら選んだ自覚があるからこそね)
例えば、
自分が立てた仮説をもとに戦略を練り、実行して効果測定をして、また次の策を練る。
(今風な言い方で言うならPDCAサイクルのこと。)
こんな事を、若干15歳位の脳内でしてたわけだから、割とナチュラルに凄いよね私 笑
そしてこれが普通になってくると、謎の達成感が出てきたりするのも不思議だったのを覚えてます。
因みに、ここで言う私の「利益」とは
衣食住が一定以上に保たれてて平和で温かい日常を送ることを指してて
(その頃から私は喧嘩だの揉め事だのが
大嫌いだったんだよね)
その私が大嫌いな喧嘩と揉め事を毎度定期的に運んできてた
実の母をケアする事で
私は利益を手にしてたわけ。
具体的には、睡眠と食事よね。
私の母はさ、夫婦の痴話喧嘩の決着をつける
(自分の主張を通す)ためなら
私ら子供達の睡眠も
旦那(私の父)の出勤時間すらも
お構い無しに喧嘩をおっ始めるもんでな。
父はよく、夫婦喧嘩が夜を超えて朝になっても
終わらず、結果的に午前休をとってたな。
そんな時は私ら子供たちも
深夜を通り越して
明け方まで付き合わされて
夫婦喧嘩の裁判官役させられるの
マジ辛かったなぁ(真顔)
睡眠欲を壊されると
判断能力全般がバグるから
血眼になって自己の主張を通そうとする
母の目の前で
私だけ眠い(寝たいと思う)のは
申し訳ないのではないか
という、罪悪感に駆られる
ホンマおかしい状況になってしまい
そこは、そこだけは、、
10代ならではの
若さが作用してたのかな。
眠い時に寝たい
それはいわば基本的人権
人間の本能としての欲求なんだからね。
その追求に罪悪感なんて要らないの。
その名残なのか、
私は今でも実家で寝るのが得意ではありません
(寝てても休まらない)
からこそ、
今のこの独立した自活環境は、
なんとしてでも死守したい
私のお城なのであります。
