少し前ですが
私が国際NGOに登録し、英語の講師として
ベトナムに派遣してもらっていた時のこの記事。
https://ameblo.jp/ambtmpnd/entry-12604512330.html
沢山の方に読んで頂き、また反響も頂き
ありがとうございました。
そしてこの記事でのまとめをすると
「誰かに何かをしてあげよう」だなんて
おこがましいわぃ
という点でした(←まさかの!笑)
そしてさらに言えば
そんな形でヒトと関わる暇があったら
一秒でも早く自分自身の幸せのための
時間をすごしましょう
というような
過去の自分に向けたお話でもありました。
そして、このおこがましい案件は
実は私の場合どーも頻繁に起こるようでして、、、
そんな出来事を極端な例で書いて見ます。
たとえば とっっっても極端な話
私が何かの拍子に人を激怒させてしまったとします。
その人はとても私がした事を怒っているわけです。
そしてさらに言えば、私にはその自覚がありませんでした。
(故意でその人を怒らせたわけじゃない)
こういう設定の場合
私はこの人に謝る必要があるか問題です。
これ、人として 道徳上の倫理にのっとって話せば
当然ですが「謝る」が正解ですよね。
だって「私が」怒らせてしまったんだから。
でも、です。
その人(仮にここでAさんとします)、Aさんの感情って私 ぱん子の
「所有物」ではないんだよね。
そう、ぱん子の自転車がもし壊れたらお店に持っていって修理してもらうことは
簡単にできる
けど
Aさんの感情をどうすることもできないわけなのです。
むしろ謝ったところで
口から出任せで謝ったように見せかけてるだけ
という悪意解釈だって成立するわけです。
(まさにこれぞ火に油状態)
さらに、心理学的に見ると、怒りという感情は何かしらの代替感情
であるとも言われているわけで
(こんなサイトがわかりやすそうです)
◎怒りはダミーの感情!
確かに目の前で起こっているAさんの感情の種類は
(ぱん子に対する)怒りだったとしても
それは実はAさんの中の嫉妬やこれまで
がんばり過ぎたことによる人として持つ本能(防衛本能)
だったりするわけです。
そうなんだとすれば
↓
ぱん子が謝るのって、何か検討違いではありませんか?
という仮説がたつわけなのです!!!
=ぱん子謝らない
(まさかのぱん子性格悪い説 再燃w)
https://ameblo.jp/ambtmpnd/entry-12610834787.html
まぁ、私の性格が悪いとかの話は抜きにして
とにかく何が言いたいかというと
Aさんが怒りました。
ぱん子謝ります。
というこのシナリオってものすごく
おこがましい!!!
という事。
さも、私という存在が大きく、
それがために私はAさんの感情に影響を与えました 的な
そんな図式です。
あー、こんな私恥ずかしすぎる!
(やってたとしたら過去に戻って取り消したい位だ
てか、やってきてるよね 笑)
そもそもAさんの感情自体が代替感情であり
Aさんの人生にとって必要があって湧き上がってて
ぱん子に何かする(コントロールする)ことなんてできない
そんな領域の話なんだよなーという仮説です。
じゃあ今後の人生において私が
誰かを怒らせてしまったり
傷つけてしまったりしたとき
一切謝る必要がないのか
見たいなそんな極端な話でもないわけなんだけど
でも少なくとも条件反射的に 即 謝る
という事はなくなりそうですね 笑
(謝らないことの方が勇気が要るよ 笑)
ただ、こんな分析と仮設をしてみた今の私にとって
上記のようなのっぴきならない状況になったとしても
今後はまずは「ふーん」「そっか」「へー」と一度冷静に
中立な立ち位置に行こうとするだろう事だけは
思い浮かぶわけなのです。
そして間違いないのは、その人の感情はその人のもの。
一ミリとて私は管理 支配 関知できないということ。
さらに言えば
その感情とて、怒りなのかどうなのか(悲しみの可能性もある)
すら確認のしようがないという事。
ここだけでも把握しておけば
最低限の「おこがましい」案件からは除外されるのでは
ないでしょうか。。。
やー、間違って謝ってしまいそうだけどね(小声w)

