17期スタート! | 〜未来を変えよう〜寛親(ひろちか)から君へ

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「せぎひろちか 」です。これからも日本の未来を変える為活動を続けます!

こんばんは。

 

せぎひろちか(瀬木寛親)です。

 

僕の分身でもある有限会社アンビシャスが本日「ひな祭り」の日に第17期のスタートを切りました。

 

ちなみに現在僕の政治団体の名称も「アンビシャス」

 

10周年時のブログ記事を再掲載しますダウン

 

 

 

 

 

 

 

気が付けば本日2016年3月3日でちょうど10周年となりましたビックリマーク

 

 

登記した2006年3月3日当時、既に中華料理と担々麺のお店「赤竜並木通り本店」を個人にて経営委託している立場ではありましたが・・・

 

広島での新たな展開を目指し「段原店」の出店、そして法人化を決意しました。

 

法人名は僕の人生のキャッチフレーズ「アンビシャス」志(こころざし)です。

 

元々「ハウンド・ドッグ」のファンでした。

 

23歳のころ「AMBITIOUS(アンビシャス)」と言う楽曲にシビレました音譜

 

一時引退していたモトクロス競技に復帰する時、自分のチームを立ち上げた名称も「TEAM AMBITIOUS」アップ

 

そんな想いで2006年早々から会社設立の準備を始めました。

 

ただ僕の立場が実質は経営委託の身ではあるのですが元々「並木通り本店」を開業した県外の外食企業の社員のままでした。

 

本部ともいろいろ相談した結果、退職し正式に経営者となるのは年末程度まで控えることに・・

 

代わりに経営者として登記させて貰ったのが今は亡き父と母です。

 

父は地元のタクシー会社の経理担当としてタクシー1台づつの株主兼運転手が10数名もいるような時代からこの仕事一筋で長年会社をまとめあげ、そして唯一の金庫番としても休みなく働いて来ました。

 

ただ同族企業であったため・・当然ではありますが父が何度も申し出た株式の購入は叶いませんでした。

 

しかし父の口癖であった「とにかくコツコツと努力しろ。そうすればいつか運が向いて来る」の言葉通り、定年も見えて来た50代後半先代の社長が急逝。

 

外部役員の経営陣への突然の参加要請等、会社は風雲急を告げる状態に・・・

 

そして二代目社長の推薦により先代からの信頼の厚かった父が同族以外で初の役員に昇格し再び会社は一枚岩に。

以来役員昇格時から自分が引退を宣言していた70歳までその職責を務めることとなります。

 

幸運なサラリーマン人生だったとは思いますが・・父の本当の野望は、いつか社長となって後に僕にバトンタッチ。晩年お酒が入るとそんな話しも良くしていました汗

 

なので丁度タイミングもあり、ホントにささやかな親孝行とも思い(本人はどう思ったかわかりませんが・・)2006年当時73歳の父に「有限会社アンビシャス」初代社長を1年間務めて貰うことになりました。

 

僕がサラリーマンの店長時代から引継いで新体制での雇用となり不安の気持ちも拭えない当時の従業員達にとっても船出の時の父の存在は何より精神的支柱となったのでは・・とも思ってます。

 

しかしもう1人の役員として登記した母がこの夏に癌で急逝。

 

今思えば波乱の1年でしたあせる(ちなみに僕は大厄の最中、この年が最後の後厄でした)

 

翌年に僕が社長就任。そして父は会長へ。

 

そこから5年間、父とそして年々増えて行く店舗と従業員達と共に苦楽を共有した会社でした。

 

現在「段原店」そして「住吉店」は当時の従業員達が引継いで独立。

 

昨春には住吉店のオーナーが更に新店「加古町店」も出店し、現在赤竜グループ再び3店まで盛り返してます。

 

僕も時々ご案内しているように廿日市での地域興しも兼ね「赤竜汁なし担々麺」イベント出店を続けてます。創業者としても皆に負けられませんメラメラ

 

そして赤竜並木通り本店と言えば6年間続けたチャリティー担々麺です。

 

被爆60周年にオープンしたお店、そして僕が被爆二世と言うこともあり平和と言う切り口で何か広島ならではの地域貢献を・・と始めたイベントでした。

 

毎月5日のランチタイムのみ担々麺を無料提供。その代わり参加者は募金箱に50円以上を投入。

 

年間で2千名以上が参加し募金額は約20万円に。

 

そのお金で毎年電動介助ベッドを購入し「原爆養護ホーム」に寄贈しました。

 

しかし店にとっては無償提供の為、材料費や人件費に水光熱費。更には本来営業している時間なのでその損失も発生します。

 

経費は年間で約100万円。

 

「そんなまわりくどいことしなくてもただ介助ベッドをプレゼントするだけなら20万円ですむのに」等のアドバイスも頂きましたが・・・

 

この取組みによって十数件を超えるテレビ取材、そして数十件に及ぶ新聞・雑誌の取材もありました。

 

何よりもトータルで1万人を超える方々が参加して下さった気持ちの結晶が物品の寄贈であり・・特に若い人達に広島の平和や原爆について忘れずにいてもらう為の一石は投じれたのではないかと未だ自負している6年間でもあります。

 

 

 

こちらは懐かしい、父と共に取材を受けた新聞です。著作権の関係でリンクは貼れませんが同時にテレビ局も入ってこの取組みと被爆者から被爆二世への継承をテーマとしたローカル番組も放映されました。

 

 

 

 

会社の10歳の誕生日に色んな想いが溢れ出ます。今日は5年ぶりに社のバッジを付け企業理念「高い志を持って仕事にそして人生に取り組もう」を反芻する、気持ち新たな1日となりました合格

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Boys, be ambitious 〜未来を変えよう

 

せぎ ひろちか(瀬木寛親)