1964年のおもいで | 終活オヤジの独り言

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今日も、誰にも何の役にも立たない、どうでもいい様な事をつぶやきます。
もし、お気に障った事がありましたら年寄りの言う事なのでお許し頂きたいと思います。

1964年(昭和39年)は、私の人生の中で一番出来事が

多かった1年でした

 

 

・(3月)工業高校卒業

 

 学力不足の為、大学進学を断念しました

 

 そして浪人してまで、大学へ行くほどの目的・目標が無

 かったのです

 

 

・(4月)社会人1年生

 

 音響メーカーに就職しました

 

 仕事は、ステレオやテレビなどの音響製品の納品・設置

 ・調整・点検・修理でした

 

 仕事は楽しかった

 

 アンプは、まだ真空管が主流でトランジスタが出始めた

 頃でした

 

 

・(6月)父親の死去

 

 社会人になって3ヶ月、私は高校から単身で札幌にいた

 為父親が入院した事も知らなかったし、連絡を受けてす

 ぐに駆け付けたけれど、汽車で6時間もかかったために

 死に目には間に合わなかった

 

 安らかな顔でしたが、黄疸でまっ黄色でした

 

 病名は肝臓がんで、入院してから2ヶ月足らずでした

 

 享年49歳でした

 

 母親と長男の私の下に3人の子供が残されました

 

 

・(10月)東京オリンピック

 

 この年は、東京オリンピックをカラーテレビで観ようと、

 当時1インチ1万円もするカラーテレビが異常なほど売

 れて、納品・調整の仕事でとても忙しかった

 

 (その時の私の初任給は、13,600円でした)

 

 その頃のカラーテレビは地磁気の影響を受け、カラーテ

 レビを設置する度に画面の色むらを無くする為にカラー

 調整をする必要があったのです

 

 

・(10月)交通事故で、頭蓋骨陥没・脳内出血で入院

 

 友達から借りたバイクで転倒して、気が付いたら病院の

 ベッドの上で、脳外科手術が終わった後だったのです

 

 夕暮れ時で前から来る車のライトが目に入り、まぶしい

 なぁ~と思ったところで記憶が無くなっているのです

 

 だから、私には事故の恐怖感などは一切無いのと、自損

 事故であった為に他人を巻き込まなかった事がせめても

 の救いなのでした

 

 一歩間違ったら、父親の後を追う事になっていたかも知

 れなかったのでした

 

 1ヶ月入院、1ヶ月の自宅療養になり3ヶ月目に職場復

 帰しました

 

 

・(11月)札幌へ引越し

 

 父親が亡くなったので会社の社宅を出なくてはいけなく

 なり、札幌に家を建てて引越し母親と子供4人の生活が

 始まりました

 

 父親は転勤族で、家族で道内を転々としていました

 

 皮肉にも、父親が亡くなって1か所に落ち着いたのです

 

 

こんなに色々な事が起こった1年は、後にも先にも2度とあ

りませんでした