ミトロヒン文書 | ambiguouswordsのブログ

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むかし、京大名誉教授のK氏とすれ違ったことがある。
その後たまにホームページを拝見するなかで、ヴェノナ文書の存在を知った。
免疫学の研究者は、社会の仕組みについても直観がはたらくのだろうか。

https://www.katsuray.net/2020/06/14/%e6%97%a5%e7%b1%b3%e6%88%a6%e4%ba%89%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6%e8%80%83%e3%81%88%e3%82%8b/
> この戦争に関して、私たちは「日本が始めた戦争であって、悪いのは日本である。」という教育を受けてきたし、新聞等の論調もそんな感じであった。私自身もそれを信じてきた。
> しかし、ヴェノナ文書が公開され(1995、日本語版は2010あたりに出ているが、絶版となり2019に再版)、さらにフーバー大統領の回想録(2011、日本語版は2017)が出版されたことによって米国大統領周辺の策謀が明らかになり、この戦争は米国主導であったことが、主に米国の研究者によって明らかにされてきた。


そういえば、同じく京大の先生のサイトでもミトロヒン文書に関する記述があった。

http://trans.kuciv.kyoto-u.ac.jp/tba/archives/2386
> メディア対する海外の諜報機関工作――ミトロヒン文書を読み解く
> 京都大学 都市社会工学専攻 藤井研究室


現在でも、日本社会の中には多くの情報提供者や協力者が存在しているのだろう。
彼らは、金銭目的でもなく、卑怯なことをしているという意識もなく、むしろ正しいことをしていると感じて行動しているのではないだろうか。
協力者を懐柔する方法や情報操作の手法、具体的な情報入手の手順などに興味がある。
ロシアや中国に限らず、アメリカやヨーロッパの国々なども国内で活動しているようだ。

そういうわけで、たまにヴェノナ文書やミトロヒン文書についての本をときどき見ている。
最近読んだ本は文字も大きめで著者の語り口もくだけた感じの軽い読み物だった。
少し興味深かった箇所をメモ。


<参考>
『ミトロヒン文書 KGB・工作の近現代史』江崎道朗監修・山内智恵子著、ワニブックス、2020年

p16
 ソ連崩壊からまだ間もない一九九二年三月のある日のこと、バルト三国のひとつであるラトビアの首都、リガの英国大使館に一人の男性がやってきて、「誰か権限のある人」との面会を求めました。男性が持参したキャスター付きのケースの一番上にはソーセージとパンと飲み物、中ほどには着替えの服、一番下にはたくさんのメモが詰め込まれていました。
 男声の名前はワシリー・ミトロヒン、一九八四年に退職するまで四半世紀あまり、ソ連の情報機関KGBの海外諜報部門である第一総局で、文書や情報の整理と管理を担当していた元KGB将校です。
 そしてケースの一番下に隠すようにして英国大使館に持ち込まれたメモは、ミトロヒンがKGB第一総局の機密文書から書き写したものでした。二十世紀の最重要資料のひとつ、「ミトロヒン文書」が西側にもたらされた瞬間です。

p17
「インテリジェンス」は広い意味を持つ言葉で、中西輝政京都大学名誉教授の定義によると、機密を含めた他国の情報を収集するいわゆるスパイ活動のほか、他国のスパイ活動や破壊工作を防ぐ防諜(カウンター・インテリジェンス)、宣伝・プロパガンダ工作、さらには、敵国を不利にし、自国を有利にするための謀略(ソ連の用語では積極工作と呼ぶ)も含みます。また、これらの活動を行う情報機関を意味することもあります。
 インテリジェンスが現代史に与えた影響の大きさを浮き彫りにし、現代史の見直しを迫るような重要な史料が国際社会にはいくつも存在します。これらの史料は、主に、安全保障や法律上の理由から「機密」とされてきた政府のインテリジェンス関係の公文書です。
 本書は、そのような機密文書のうちで最重要の一次資料のひとつである「ミトロヒン文書」について紹介します。

p18
ソ連崩壊後の主な文書公開
(略)
1995年 ヴェノナ文書
作成者:アメリカ陸軍情報部・イギリス政府通信本部
内容:KGBおよび赤軍情報部の本部とアメリカ駐在所との暗号通信
対象時期:1940~1948年
分量:約3000通
(略)
2014年 ミトロヒン文書(解説書刊行は1999年と2004年)
作成者:V・ミトロヒン
内容:KGB第一総局文書庫所蔵文書
対象時期:1918~1980年代前半
分量:手書きで約10万頁。現在、キリル文字でタイプした約7000頁をケンブリッジ大学チャーチル・カレッジ図書館で公開
(略)

p24
 ヴェノナ作戦で傍受された暗号通信は膨大なものでした。
 しかし、ソ連が理論上解読不能とされる「ワインタイム・パッド」という暗号形式を使っていたため、解読には長い時間と大変な労力が必要でした。先にも述べましたが、解読作戦を始めたのが一九四三年なのに。終了は一九八〇年です。三十七年かけて解読できた約三千通は、アメリカ陸軍情報局が傍受したもののごく一部にすぎません。
 それでも、ヴェノナ作戦の結果、三百人を超えるアメリカ国民またはアメリカ永住権者が、ソ連の工作員として活動していたことが明らかになりました。
 しかもその中には多くの連邦政府高官が含まれていました。
 ルーズヴェルト政権時代、ソ連工作員による浸透はアメリカ連邦政府のほぼすべての省庁に及んでおり、第二次世界大戦前後の重要な政策決定に対して、これらの工作員が深刻な影響を与えていた実態が浮き彫りになりました。

p25
 日本でも対米開戦直前にゾルゲ事件が発覚しています。近衛内閣のブレーンとして日中戦争を煽った尾崎秀実がソ連軍情報部の工作員だったのです。これは確かに重大な事件ですが、アメリカの惨状に比べたらゾルゲ事件など、まだかわいいものです。
 ルーズヴェルト民主党政権下のアメリカでは、財務省も国務省も、第二次世界大戦中に創設された情報機関「情報調査局」(CIAの前身)も、上層部にソ連の工作員がごろごろしていたのですから、ワシントンの連邦政府がおおかた乗っ取られていたようなものです。そして、組織として彼らの活動を支えていたのがアメリカ共産党でした。

p84-88
 KGBの源であるチェカー(正式名称は反革命・サボタージュおよび投機取締全ロシア非常委員会)は、ロシア革命からわずか六週間後の一九一七年十二月二十日に創設されました。(略)
 アンドルーによれば、チェカーが内戦中に処刑した人数は二十五万人で、戦死者よりはるかに多いそうです。(略)
 秘密警察を使った虐殺と暴力ではスターリンが群を抜いて悪名高いですが、レーニン時代のチェカーの暴力と残虐性も相当なものです。レーニンは革命直後の一九一八年の夏にはすでに、「信頼できない分子」を大都市から離れた強制収容所に収容するよう命じていました。(略)

p89-90
 レーニンは一九一九年に共産主義政党の国際組織としてコミンテルン(第三インターナショナル)を設立します。
 戦争による疲弊に乗じて内乱を起こし、混乱に乗じて共産主義政権を確立するという、ロシア革命で成功した方法を輸出して、世界共産革命を実現するため、レーニンはコミンテルンに加入する世界各国の共産党に、非合法機構の設立を義務付けました。

p105
 西側で政府高官になるようなエリートたちがなぜ共産主義に魅了され、工作員になってまでソ連に尽くそうとしたのか――アンドルーはあまり書いていませんが、大恐慌による経済崩壊と、ナチス・ドイツに代表されるファシズムの台頭という二つの背景を指摘しておくべきでしょう。

p194-196
 ソ連が対日工作を行う上で最も邪魔なのは、日米安保条約と在日米軍基地の存在です。ソ連は戦後、日本をアメリカとの同盟からできる限り引き離すための工作を延々と行ってきました。(略)
 ミトロヒン文書によると、KGBは、「安保闘争」を盛り上げただけでなく、第一総局のA機関(偽情報・秘密工作担当)に命じて日米安保条約附属書を偽造し、プロパガンダ工作を行っていました。(略)
 この偽情報を使って、「日本はアメリカに支配されている!」「日本は海外に武力進出するのか!」と、政治不信と安保反対運動を煽るという筋書きです。

p206
 ミトロヒンのメモによれば、一九七九年秋の時点で東京駐在所のPRライン(政府情報を担当する部門)が管理していた工作員は三十一人、秘密接触者は二十四人いました。(略)
工作員(エージェント)とは、機関員や諜報機関が操るフロント組織に協力して意識的かつ体系的に極秘の諜報任務を行う者を意味し、完全にKGBのコントロール下にあります。
 秘密接触者(コンフィデンシャル・コンタクト)は正式な工作員ではありませんが、思想的・政治的・金銭的動機や情報将校との間で築かれた人間関係によって、機関員に情報を渡したり、機関員からの秘密の依頼に応じて諜報活動に協力したりする者を意味します。

p207-208
 一九六〇年代に中ソ対立が深まる中で日本共産党が中国側についたため、KGBは日本社会党に「コーペラティーヴァ」(協力者)というコード名をつけ、社会党幹部を「影響力のエージェント」として使うための作戦を開始しました。(略)
 一九七〇年二月二十六日、ソ連共産党政治局は、日本社会党の複数の幹部及び党機関紙への助成金として十万兌換ルーブル(当時の日本円で三千五百七十一万四千円に相当)の支払いをKGBに対して承認しました。(略)
 ミトロヒンのメモによると、ソ連共産党政治局が助成金支払いを承認した時点で、すでに次ページの五人の社会党幹部がKGBの協力者になっていたようです。

p211
 KGBが政界で獲得した工作員の中で最も重要だったのが、⑫フーヴァー(自民党議員で元労働大臣の石田博英)でした。石田は一九七三年二月に結成された日ソ友好議員連盟(暗号名ロビー)の会長になり、八月二十七日から九月六日まで訪ソしています。

p213-214
 ミトロヒンのメモによれば、KGBは読売、朝日、産経、東京の各新聞社の幹部クラス記者を少なくとも五人、工作員として獲得していました。(略)
「影響力のエージェント」として一九七〇年代に最も重要だった新聞記者は、当時サンケイ新聞編集局次長で社長の個人的な相談相手でもあった㉓カント(本名Y・T)で、A機関の偽情報に基づく記事を執筆しました。

p219
 ジャーナリストの肩書で東京に駐在し、積極工作を担当していたKGB情報将校のレフチェンコは、亡命後の一九八二年七月十四日、アメリカ連邦議会下院の情報特別委員会秘密聴聞会で、KGBの対日工作について証言しました。その報告書が十二月に公表されると、日本には東京だけでもKGBの情報将校が約五十人、日本人協力者は約二百人いるというレフチェンコ証言が日本で大きな波紋を呼びました。

p229-230
 レフチェンコ証言に出てくる工作員や「信頼すべき人物」の中で、日本の情報機関関係者は二人います。(略)
 外務省関係者としては、外務省職員夫妻のレンゴーと、電信官ナザールが挙がっています。

p233-234
 レフチェンコ証言の概要が公表された一九八二年十二月以降、大手紙をはじめとする日本のメディアは連日大きくレフチェンコ証言を取り上げました。(略)
 当時、朝日新聞は、「単に一亡命者の発言をもとに、特定の個人や団体の背景を疑ったり、公表されぬ名前をせんさくすることは慎まなければならない」「『スパイ』に惑わされるな」「当局は内容を疑問視」と、非常に力を入れて、レフチェンコ証言を否定する論陣を張っています。

p236
 つまり、警察は当時からレフチェンコの証言の信憑性が高いと認めていました。
 レフチェンコ証言の信憑性は、ミトロヒン文書が世に出たことでさらに高まったと言えます。
 レフチェンコ証言とミトロヒン文書の多くが合致するということは、レフチェンコ証言の裏付けがKGB文書にあることを意味します。また、繰り返しになりますが、アンドルーは『ミトロヒン文書Ⅱ』を執筆するにあたってレフチェンコ証言を参照し、レフチェンコのインタビューを行っています。

p271
 一九八〇年の一年間だけでも、日本から得た情報が約百件の研究開発プロジェクトに使われています。東京駐在所のO・グリャーノフというKGB将校が豪語したところによれば、「毎年[Xラインの]情報将校たちが遂行している作戦から上がる利益で、わが東京駐在所の費用を全部賄える」(引用者の試訳。[ ]内は引用者の補足)ほどでした。
 また、日本は日本の科学技術情報だけでなく、アメリカの科学技術情報が得られる場でもあるので、日本在住のアメリカ人やアメリカ系企業・団体に勤務する日本人、科学・技術・経済分野の各種日米協力関連団体の職員が狙われました。T局が一九七八年から一九八〇年にかけて、東京のKGB駐在所のXラインに、これらの人々に接近して工作員を徴募するよう指示した記録があります。
 では、実際にどのような科学技術情報収集が日本で行われていたのでしょうか。
 ミトロヒン文書は、暗号名「トンダ」という東京のハイテク企業の社長を挙げています。トンダは、アメリカ空軍とミサイル部隊のための新しいマイクロ電子コンピュータ・システムに関する機密資料二点をKGB東京駐在所に提供しました。